『船を見る』
- 会場:
- 銀座セゾン劇場
- 会期:
- 1997年4月21日
〜4月27日
- 問い合わせ:
- 銀座セゾン劇場
- Tel.03-3535-0555
『船を見る』
http://www.saison.co.jp/ ticket/HALLGUIDE/SAISON/ PAPA/papa.html
銀座セゾン劇場
http://www.saison.co.jp/ ticket/HALLGUIDE/SAISON/ theater.html
すれちがうポストコロニアリズムとコロニアリズム
―ズニ・アイコサヒドロンと
パパ・タラフマラの共同作品
『草迷宮』
- 鴻 英良
Art Watch - Oct. 29, 1996
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退行するパパ・タラフマラ
─新作『船を見る』を観て
●熊倉敬聡
美的・実存的ナルシシズムへの幽閉
それはあまりに退行的な舞台であった。
セピア色の衣装をまとう人物たち、そのまにまにたゆたう仄かなけむり、古ぼけた家具、自転車、それらを甘美に包む海鳴り、遠吠え。それはまさに「思い出」の、「ノスタルジー」の“紋切り型”であった。演出の小池博史は公演パンフレットの中で語っている。「『船を見る』という作品は、そもそも私の記憶から掘り起こしていこうとした作品である。どちらかというと自分自身のパーソナルな部分から作品をつくるなどということを嫌っていただけに、『船を見る』は新たな発見を自分自身にもたらそうとしていると言っていいだろう。」確かに、小池博史という個人にとっては、この作品が一つの「新たな発見」だったかもしれない。しかし、その「発見」は(仮に発見があったとして)おそらく彼一人にしか意味を持たない。そこには、美的、実存的ナルシシズムがあるだけであり、「個人」の記憶を突き抜け、他者の「歴史」に出会うような契機は皆無に近い。
作品の後半、今度は一転して、パフォーマーたちは近未来的なメタル色の衣装をまとい、星降るファンタジーに満ちた空間で踊る。その傍らには、顔がテレビモニターと化した男の人形と、大柄なイヤリングとともに頭部をくるくる回転させる女の人形が座している。この美しくもナンセンスな空間が、小池にとっての「未来」なのだろうか。
「ポストモダニズム」への疲労の後に
できることとは?
この『船を見る』では、結局、「過去」も「未来」も“想像界”に幽閉されている、しかもごく「個人」的な、紋切り型の想像界だ。しかし、リアルな時間とは、「歴史」とはそんなものだろうか。紋切り型のノスタルジーなどからむしろこぼれ落ちてしまうものこそ、(今さら言うまでもないが)「歴史」のリアリティを形作るものではないだろうか。また、「未来」も、記号化されたファンタジアとは無関係なところで、刻々と唯物論的にイデオロギー的に生成しているのではないだろうか。
この作品には「破綻」がない。パフォーマーの小川摩利子と松島誠の時たま発する強度を除き、そこには「リアルなもの」へと破綻しゆくものがなにもない。
消費社会化された「ポストモダニズム」への疲労の後に、日本のアーティストたちができることとは、このような美的・実存的ナルシシズムへの退行のみなのであろうか。私はそうであってはならないと思う。
[くまくら たかあき/ フランス文学、現代芸術]
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