キュレーターズノート
アートを摂取すること──「猪熊弦一郎展 アートはバイタミン」
橘美貴(高松市美術館)
2020年09月15日号
対象美術館
リオープンをした丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(以下、MIMOCA)で、「猪熊弦一郎展 アートはバイタミン」が開催されている(2020年9月22日まで)。
戦後日本美術における猪熊弦一郎の存在は大きなものだが、出身地である香川では特に重要作家のひとりと位置づけられており、MIMOCAを中心に彼のことを「いのくまさん」と親しみを込めて呼ぶことも多い。亡くなってもうすぐ30年になるが、いまなお老若男女問わず身近な作家として知られている。そして、その芸術精神を伝えるMIMOCAの再開は特に地元のアートファンによって心待ちにされていた。
アートは心の薬の一種、ミュージアムは心の病院
改修工事と新型コロナウイルス拡大防止のため、結果的に約1年半休館することとなったMIMOCAのリオープン初回を飾るのが今回の特別展「猪熊弦一郎展 アートはバイタミン」である。「猪熊弦一郎展」というタイトルからは、若き日の具象画からパリやニューヨーク時代を経て、晩年の顔シリーズの作品などが並ぶ展示室を想像するかもしれない。しかし今回の猪熊展はそうではない。「猪熊自身の暮らし」「パブリックアート」「プライベート空間への美の提供」の三部構成からなる本展は、猪熊の生活に散りばめられたアート(あるいはその原石)や、現在も人々の生活を彩っているパブリックアートを含む猪熊作品の様子などを通して、彼の生活にアートを持ち込むことが大切であるという思いを示す、博物館や資料館的な要素も持った展覧会だ。
なお、タイトルの「アートはバイタミン」は猪熊自身の言葉から取られている。猪熊はアートを心の薬の一種と言い、ミュージアムを心の病院と喩えている。その文脈で家庭のなかにアートを持ち込むことは、バイタミン(ビタミン)を毎日摂取するのと同等と語った。MIMOCAではこの精神にのっとり、2018年にも常設展で「美術館は心の病院 猪熊弦一郎とMIMOCA」と題して美術館の歴史を振り返る展覧会を開催している。
コレクションへの愛情
本展の始まりである「猪熊自身の暮らし」では、吉村順三設計の猪熊邸のリビングとキッチンの原寸大模型が設置されている。田園調布に残されたこの家は、1971年に完成した猪熊の終の住処である。リビングには猪熊の親友イサム・ノグチのぽってりとした形の照明《あかり》やノグチを介して知り合ったチャールズ・イームズのデザインチェアなどが置かれ、壁にもピカソやクリストの絵画作品が飾られている。
また、猪熊といえば、人生の端々で出会った物を大切に収集していたコレクターとしても知られている。メキシコなどで買ったものやもらったものをキッチンの大きな棚に並べていたという。他人から見ればガラクタと思われるようなものも多いが、彼は琴線に触れたそれらを大切にしていた。そこからは八百万の神を見るような慈しみの心を感じる。これらのコレクションは「アーチストのテイストにふれるもの、私の仕事に何か滋養分としてプラスになるもの」と自ら語っているように、猪熊作品のインスピレーションを刺激する、いわばアートの原石でもあった。時に猪熊は自身でもプラスチックの破片など身近な素材を使った手製のオブジェをつくり、コレクションと一緒しまっている。このコレクションについてもMIMOCAはたびたび触れており、2012年の特別展『物物』で猪熊のコレクターとしての側面を紹介したし、常設展示室ではこの棚をイメージした展示棚で展示するなど、猪熊の画業において重要なものであることを示している。
建物と共に岐路に立つパブリックアート
展示室で次に現われるのは猪熊が手がけた「パブリックアート」である。香川県庁舎東館1階に設置されている陶画《和敬清寂》の原寸大模型や、JR上野駅壁画《自由》を写した写真コラージュなどが展示されている。ここで紹介されている猪熊のパブリックアートは建築物に付随するものばかりで、母体である建築と運命共同体である。今回「長寿命化のため」に改修工事を行なったMIMOCA同様、これらの建物も改修などの岐路に立つ時期を迎えている。本展示では、当時の社会背景を踏まえた猪熊の制作意図とともに、現在の姿やそれぞれの残し方について各施設担当者への取材をもとに紹介している。昨年末に終了した香川県庁舎の改修工事では、香川県が丹下健三設計の県庁舎を重要なモダニズム建築と位置づけていることもあり、どのような工事が行なわれるのか注目を集めた。結果としては、建物の耐震強度を高めながらも空間は変化させない工事が行なわれ、私たちはいまでも猪熊の大きな陶画を変わらず見ることができる。役所には味気ないイメージを抱きがちだが、茶道の精神「和敬清寂」の字を一面ずつに表現した本作は、大きな窓から入る外光を空間全体に満たしながらロビーを生彩あるものにしている。一方で、東京會舘の《都市・窓》は、本館ロビーに設置されたものが改修工事を経て廊下部分へ形を変えて移設されている。作家の意図した当初の姿をそのまま残すのは理想だが、建物が活用されるうえで、付随するパブリックアートが姿を変えることは宿命と言えるだろう。
所有者に寄り添う作品たち
展示後半は「プライベート空間への美の提供」である。三越デパートの包装紙「華ひらく」もまた、多くの人が猪熊を馴染み深い作家と感じる理由のひとつと言え、デザイン画を受け取りに行った三越社員がやなせたかしだったことも有名な話である。やなせが称賛するように、物を包むことでより華やかになるデザインは、日常のささやかな一瞬に彩りを添える。また、猪熊がデザインしたテーブルなどのインテリアは、シンプルな素材と見た目から、猪熊が収集したコレクションを思い出させるとともに、人の暮らしに寄り添おうという温かな眼差しを感じさせるものだ。
最後に紹介されているのは、個人宅などに置かれた猪熊作品で、写真やエピソードによって紹介されている。普段、展示室で作品と向き合う際に意識するのは作家の存在であるが、ここで意識するのは所有者の存在である。彼らはアート作品を所有し、プライベートな時間を共にすることで暮らしに潤いを見出しているのだろう。ホンマタカシによる静かな写真は、それぞれが過ごした時間の重なりを感じさせる。
多くの美術館が臨時休館を実施し、アート作品を直接目にすることが以前に比べて難しくなった。しかし、アートの摂取方法はさまざまであり、アート作品といわれるものを鑑賞することだけがそのすべてではない。猪熊自身がそうであったように、日常で出会ったものに美を見出すのは志次第でもあり、それはデザインや工芸の得意分野でもあるだろう。本展からは、生活に美を取り入れる重要性を認識し、幅広いジャンルからこのテーマにアプローチした猪熊の姿勢が窺える。ささやかなアートを日々バイタミンとして手に取る猪熊のアート観は、コロナ渦のなかで日々をを過ごすいま、見つめ直したいものである。
猪熊弦一郎展 アートはバイタミン
会期:2020年6月2日(火)~9月22日(火・祝)
会場:丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川県丸亀市浜町80-1)
公式サイト:https://www.mimoca.org/ja/exhibitions/2020/04/18/2046/
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