アート・アーカイブ探求
ラファエロ・サンティ《キリストの変容》──光と闇のドラマ「越川倫明」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年03月15日号
※《キリストの変容》の画像は2020年3月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
4メートルを超す板絵
新型コロナウイルスが世界117の国と地域に拡散し、感染者は10万人を超えたという(2020年3月11日現在)。国内では小中学校が休校となり、美術館・博物館等の文化施設でも休館が相次ぎ、春場所の大相撲が無観客で開催され、選抜高校野球は無観客の開催予定が一転中止となるなど、異例の事態が続いている。中国の武漢を感染源に、日本、韓国、イタリアも深刻な状勢となり、6日にはローマ市内にある人口約800人の独立国ヴァティカンでも初めて感染者が確認された。
今年(2020)はイタリア、ルネサンス期の画家ラファエロの没後500年にあたる。イタリア・ローマのスクデリエ・デル・クイリナーレでは「ラファエロ 1520-1483」展(2020年3月5日~6月2日)が開催されたが急遽中止となり、ロンドン・ナショナル・ギャラリーの「ラファエロ」展(2020年10月3日~2021年1月24日)も開催が懸念される。ラファエロといえば、ふくよかな顔の聖母像をイメージするが、意外にもキリストと群衆とのドラマチックな絵画があることを知った。高さ4メートルを超す巨大な板絵で、絶筆だったというので関心が湧いてきた。《キリストの変容》(ヴァティカン絵画館蔵)である。
光輝く雲を背景にキリストが両手を挙げて宙に浮いている。カラフルな衣服を着た地上の人々は、純白の衣をまとったキリストへ演劇的な動作で窮状を訴え、キリストは天から神の声が聞こえたのだろう、天を仰いだのち人々の救済を始めるに違いない。
イタリア美術史を研究している東京芸術大学美術学部教授の越川倫明氏(以下、越川氏)に《キリストの変容》の見方を伺いたいと思った。越川氏は国立西洋美術館で開催された「ヴァティカンのルネサンス美術展」(1993)を企画担当し、ジョルジョ・ヴァザーリ著『美術家列伝』(中央公論美術出版、2014-)の監修・翻訳を務められ、『ラファエロ 作品と時代を読む』(河出書房新社、2017)の共著者でもある。東京・上野の東京芸術大学へ向かった。
日本近代洋画からイタリア美術へ
越川氏は、1958年東京・新宿に生まれた。家は仕立ての洋服屋で、兄と姉のいる三人兄弟だったという。子供の頃は、よく虫取りをして遊んでいた越川氏は、高校生になり美術に興味を持つようになったそうだ。文芸評論家の小林秀雄(1902-1983)の美術批評などを読むようになり、美術教師で画家でもあった中澤直三郎先生と出会う。抒情的な静物画を得意とし、岸田劉生(1891-1929)に通じるものがあった先生の絵は、洋画だったが日本的だったそうだ。中澤先生の人柄に引かれた越川氏は、日本近代洋画の画集を学校の図書室で見るようになる。岸田劉生がルネサンス期の絵画を研究していたように、越川氏は徐々にルネサンスに関心が移っていった。
1977年に東京大学文学部へ入学する。当時マニエリスム 研究が盛んだったこともあり、卒業論文ではエル・グレコ(1541-1614)を書いた。語学でイタリア語を選択していた関係で大学院ではイタリア美術を選び、ティントレット(1518-1594)を中心とした16世紀絵画史を研究した。1985年東京大学大学院を修了後、国立西洋美術館へ研究員として就職。文部省在外研究員としてヴェネツィアで1年間研究し、帰国後は「ヴァティカンのルネサンス美術展:天才芸術家たちの時代」(1993)、「大英博物館所蔵イタリア素描展:ルネサンスからバロックへ」(1996)、「フィレンツェとヴェネツィア:エルミタージュ美術館所蔵イタリア・ルネサンス美術展」(1999)などを企画担当した。2000年に東京大学大学院の総合文化研究科助教授となり、そして2002年、イタリア美術研究の伝統がある東京芸術大学へ異動した。
越川氏が初めて《キリストの変容》を見たのは、大学院1年目の1982年。イタリアに1カ月間、語学学校へ行ったときだった。主な美術館を見て回った際に《キリストの変容》も鑑賞したが、越川氏は「それほど強力な印象は持っていない」という。しかし、1993年に担当した「ヴァティカンのルネサンス美術展」を機にラファエロに関心を持った。展覧会の主役のひとりがラファエロだった。越川氏はヴァティカンへ三度出張し、キュレーターとの会話を経て、これまで研究してきた情熱的なヴェネツィア派のティントレットに加え、画風が正反対ともいえるラファエロを自分の研究フィールドに含めた。
ヴァティカンの画家になる
ラファエロ・サンティは1483年に、宮廷画家で工房を構えていた父ジョヴァンニ・サンティと母マジーア・ディ・バッティスタ・チャルラのもとイタリア中部にある山間の小都市ウルビーノで生まれた。階段が多く坂道や細い小道が迷路のように走り、公爵宮殿と大聖堂がいまでも建っている。15世紀には芸術文化の中心地で、宮廷文化が花開いたルネサンス期の面影を残すウルビーノ、1998年に世界遺産に登録された。
幼い頃から父より画技の手ほどきを受け、下絵や画材が溢れた家庭環境で、宮廷の洗練された文化にも親しんでいたラファエロであったが、8歳で母を、11歳で父を亡くしてしまう。1494年父の死去により、ラファエロは優れた遠近法と鮮やかな色彩と優美さで父が尊敬していた画家ペルジーノ(1448頃-1523。「ペルージャの人」と呼ばれたピエトロ・ヴァンヌッチ)の大工房に弟子入りする。師ペルジーノは、サンドロ・ボッティチェリ(1444頃-1510)やレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と同窓で、フィレンツェのヴェロッキオ工房で修業を積んでいた。師の優美な画風を身に付けたラファエロは、17歳で職業組合にマエストロ(親方)として登録され、工房を構える資格を得た。
1504年、21歳になると独立を試み、革新的な作品を生み出していたフィレンツェへ拠点を移す。新たな刺激を求めるなかで、31歳年上のレオナルド・ダ・ヴィンチからは、ピラミッド形の構図、スフマート(ぼかし)の描法、人物と風景との調和的呼応を模写して学習した。また8歳年上のミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)からは、人物群像の律動的な構成法の影響を受け、色彩と構図が調和するように聖母子像などを描きながら貪欲に学んだ。
1508年25歳、同郷の建築家でサン・ピエトロ大聖堂の建築主任やヴァティカン宮殿の改修に従事していたドナト・ブラマンテ(1444-1514)から推挙され、教皇ユリウス2世治下のローマへと向かう。当時のイタリアは世界でも文化の先進国であり、ヨーロッパを近代に導く役割を果たしていた。しかし、教皇領や多数の小国に分裂し、フランスやスペインの介入により戦乱が絶えず、ときどきペストが蔓延するという暗い時代であった。
それでもラファエロは、ヴァティカン宮殿の「署名の間」の壁画装飾やシスティーナ礼拝堂のタピスリーの下絵など、教皇庁の美術制作を手掛け、ローマにおける美術家としての地位を築き上げていった。またラファエロは絵画にとどまらず、ブラマンテの後継者としてサン・ピエトロ大聖堂の造営主任となり、建築家としても活躍することになる。
現実と理想の融和
温厚で礼儀正しく、人当たりのよい性格のラファエロは、オールラウンドな表現能力を持っていた、と越川氏は言う。「美術家列伝」で知られる画家で伝記作者のジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)によると、ラファエロは「他の多くの画家たちから最良の部分を選び出して、多くの流儀の総合から唯一の画風を作り出した」と評された。複数の手本からの選択と総合という作品は、古典主義=理想主義と言われる一方で、折衷主義とも結びついて、ラファエロ芸術の真の姿を評価することを妨げてきた一面もある。
ラファエロの名声は生前から広くフランスまで知れ渡っていたが、それは版画家マルカントニオ・ライモンディ(1480-1534)などの協力を得て、版画を伝播させていたことが大きい。ラファエロは、教皇レオ10世の郊外別荘で、現イタリア外務省の迎賓館である「ヴィッラ・マダマ」の建築設計および装飾事業や、欧州一といわれるほどの大富豪の銀行家アゴスティーノ・キージの依頼によるルネサンスの宝石と称される別荘「ヴィッラ・ファルネジーナ」の壁画装飾などを工房の弟子たちと共同制作しながら、盛期ルネサンスを代表する画家・建築家となっていった。自然(現実)と芸術的な規範(理想)を融和させたラファエロの「美しき様式(ベッラ・マニエラ)」は、17世紀のニコラ・プッサン(1594-1665)を筆頭とするフランス・アカデミズム絵画の重要な参照基準となった。
膨大な仕事に相当なストレスがあったのだろう。1520年ラファエロは教皇レオ10世やフランス王のための作品制作、そしてサン・ピエトロ大聖堂造営主任としての重責など、恐るべき量の仕事を精力的に成し遂げ突然逝ってしまった。享年37歳。
ヴァザーリの伝記が伝えるラファエロ像の魅力は、ラファエロの出生と死にまつわる人間性への言及にある、と越川氏。両親から深く愛される子供であったので、天使のように人を愛することができ、早すぎる死の原因は度を超した情事のことを恥じらいから医師に告げられなかったために、衰弱した身体に瀉血(しゃけつ)されたことが命取りになったという逸話がある。遺言により神殿パンテオンに葬られ、隣には婚約者であったマリア・ビッビエーナが眠っている。
【キリストの変容の見方】
(1)タイトル
キリストの変容。英題:The Transfiguration
(2)モチーフ
キリスト、預言者のモーセとエリヤ、弟子のペテロとヤコブとヨハネ、タボル山、悪霊に憑かれた少年、老人、女性、9人の弟子たち(右手に本を持つのはマタイ)。
(3)制作年
1518-20年。ラファエロ35-37歳。
(4)画材
板・油彩。板はポプラと思われる。
(5)サイズ
縦405×横278cm。
(6)構図
恍惚と畏怖の入り混じった浮遊感のある上部と、彫刻的で演劇的造形からなる安定感のある下部とのコントラスト、明暗の対比が見られる。下部の前景にひざまづいている女性が構図の中心的人物像となり、左側に9人の弟子たちを配置。円環的な上部と螺旋的な下部。天と地をS字形の動的構成とし、精神の高揚を図っている。
(7)色彩
青、赤、黄、緑、茶、白、黒など多色。ラファエロは亡くなる2、3年前より黒味の強い絵を描くようになり、本作の下部にもそれが見られる。
(8)技法
油彩。ラフスケッチのデッサンから入り、細かいモチーフを描いていく。紙の上に絵全体の縮小ひな型を描き、それを板の画面に拡大し、薄塗りの油彩で描く。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
祭壇画である本作の主題は、人間キリストが姿を変えて神性を顕わす「変容」と、てんかんに苦しむ少年から悪霊を追い払う「癒し」にかかわるものである(「マタイによる福音書
」17章1-8、14-20節)。「変容」の主題は数多く描かれているが、悪霊に憑かれた少年を弟子たちが自らの手ではどうすることもできず、戻ってきたキリストによって直ちに癒されるというエピソードが同じ画面に描かれた例はほかには見られない。山の上の光輝く大気のなかにキリストが描かれ、左の預言者モーセと右のエリヤも輝いている。タボル山の山頂にはペテロとヤコブとヨハネが眩しさと恐れでひれ伏し、変化に富んだポーズで横たわっている。キリストはまばゆい光のなかで純白の衣をまとい、両腕を広げて顔を上方に上げ、神性を表現している。古典復興としてのルネサンスは、多神教を基礎とした古代ギリシア・ローマの神話世界を、一神教であるキリスト教の聖書世界に置き替え、神と人間の関連運動が実在を構成するという新プラトン主義の思想を視覚的に表わした。上部は神の栄光の世界であり、下部は苦悩に満ちた人間の世界。対照的な二つの次元を視覚化し、救済はキリストによってもたらされることを伝えている。光と影の効果や身振りの演劇性は、古典的な美的調和を脱したマニエリスムからバロックに向かう未来の芸術を予兆した新しさがある。37歳で早世したラファエロ最後の大作であり、代表作である。ラファエロ芸術のメタファー
《キリストの変容》の上下二つの世界は、画家ラファエロの発展の縮図でもある、と越川氏は言う。「上部は明るい軽さと、透明感のあるフィレンツェ時代(21-24歳)の《牧場の聖母》など、聖母子像のスタイルを受け継ぐものであり、下部はヴァティカン宮殿「ヘリオドロスの間」の《聖ペトロの解放》に見られるような、後期の特徴を表わす暗く重い物質感がある。異なった時期に身につけた絵画の様式を使い分けたことによって、“変容”と“癒し”という二つの主題の問題を解決した。祭壇画《キリストの変容》は、ラファエロ芸術そのもののメタファーとも言えるかもしれない」と越川氏は述べている。
また、《キリストの変容》を見るポイントについて「キリストの姿を“奇蹟的なビジョン(幻視)”として描いている点にある。不思議な力でキリストが宙にふわっと浮いている。髪の表現や顔の角度、ひるがえる衣も工夫している。色調と明暗の表現によって絵の上部と下部の次元を見事に描き分けている。そして悪霊に憑かれた少年である。身をよじりながら身体を上方に伸ばし、焦点の定まらない視線で叫び声を上げる少年に見られるような“人間の身振り”が重要だった。劇的な出来事、起こっていることのドラマ、ドラマという人間の内面に起こる感情を含めた表情や身体の動きを、ジェスチャーによって相手に強く感じさせることが、ルネサンス美術の基本的な課題であり、ラファエロの使命だった」と語った。
競作の祭壇画
教皇レオ10世の従弟にあたるジュリオ・デ・メディチ枢機卿(のちの教皇クレメンス7世)は、フランス南部のナルボンヌの大司教の地位を手に入れ、ナルボンヌ大聖堂の祭壇画のために、1516年ラファエロに《キリストの変容》を依頼した。さらに枢機卿はミケランジェロが支援していたセバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485頃-1547)にも競作のかたちで、祭壇画に《ラザロの蘇生》(1517-19、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)を注文した。ミケランジェロはセバスティアーノのために素描を提供し、ラファエロに敵意を持っていたセバスティアーノは、制作中の作品をラファエロに見られないように警戒していた。「若く如才ないラファエロが好きでなかったミケランジェロが、ラファエロをへこます仕掛けだった」と、越川氏は言う。
ナルボンヌ大聖堂は、初期キリスト教時代の殉教者聖ユストゥスと、聖パストールに奉献されており、二人の聖人は《キリストの変容》の左上に小さく描き込まれている。ラファエロは1518年末頃から制作を始め、死の直前の1520年4月までひとりで描いていた。最初は「キリストの変容」の主題のみを描く予定だったが、セバスティアーノ/ミケランジェロとの対決が避けられない状況のなかで、セバスティアーノの作品内容を知ったラファエロは、全面的に構想を変更し、「悪霊憑きの少年」の主題を加えた構図を練り上げ、人物の頭部や手を正確に描くために部分的な原寸大下絵を数多く描き、ひとりで完成を目指した。ラファエロの死後は弟子のジュリオ・ロマーノ(1499頃-1546)や、ジョヴァンフランチェスコ・ペンニ(1488/96頃-1528頃)らが仕上げを行なったと推測されている。
しかしながら、本作はナルボンヌ大聖堂には送られずジュリオ枢機卿が保持し、1523年ローマのサン・ピエトロ・イン・モントーリオ聖堂に寄付された。1797年フランス軍が侵攻し、ナポレオンと教皇ピウス6世との間でトレンティーノ条約が結ばれ、作品はパリに運ばれたが、ナポレオン失脚後の1815年ヴァティカン絵画館に収蔵された。《聖母戴冠》(1503頃、267×163cm)と《フォリーニョの聖母》(1511-12頃、320×194cm)の間にひときわ大きく展示され、人々の祈りを受け入れている。
越川倫明(こしかわ・みちあき)
ラファエロ・サンティ(Raffaello Sanzio)
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【画像製作レポート】
参考文献