アート・アーカイブ探求
ピート・モンドリアン《赤、青、黄のコンポジション》──両極の明滅がもたらす生命性「福士 理」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年04月15日号
※《赤、青、黄のコンポジション》の画像は2020年4月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
創造的要素の宝庫
地球の自然環境のバランスが崩壊してしまった証なのか。人間を宿主(しゅくしゅ)動物にして、新型コロナウイルス(COVID-19)がヒトヒト感染により猛威を奮い、世界同時多発的に蔓延している。世界の感染者数は168万人、死者が10万人を超えて収まる様子がない(朝日新聞DIGITAL、2020年4月11日現在)。AIの時代であっても学習していない未知のウイルスを撃退することはできず、日本政府は辛うじて都市封鎖(ロックダウン)をしないままに危機を乗り切るジャパンモデルを達成させたい構えだ。日本でも感染者数は増加の一途であり、東京オリンピック・パラリンピックは一年延長となり、4月7日には安倍首相より緊急事態宣言が発令された。
そんな非日常ともいえる日常のなかで、簡潔な真四角の絵に目が留まった。そのハッキリとした図は、モヤモヤとした頭のなかを整理してくれるようで爽快感がある。三色の色面を組み合せた信号機を単純化したような図形だが、これは絵画なのだろうか。非常口や禁煙のマークに見られるピクトグラム(絵文字)に似た明快な図柄だが、それだけではない何かがありそうだ。ファッションデザイナーのイヴ・サンローラン(1936-2008)は、この絵をヒントに「モンドリアン・ルック」と呼ばれるミニドレスを1965年に発表し、一躍有名になったという。ピート・モンドリアンの代表作のひとつ《赤、青、黄のコンポジション》(スイス・チューリッヒ美術館蔵)である。
モンドリアンには、同じ絵柄に見える多数のコンポジション作品があるが、《赤、青、黄のコンポジション》に惹かれるのは、正方形の中に赤、青、黄、白と長さや太さの異なる黒い線がバランスよく配置され、画面の絵具がひび割れて物質感が伝わってきたからだ。平面にもかかわらず、オブジェのようであり、造形上の根源的な要素を集めた宝庫として創造性を刺激してくる。
《赤、青、黄のコンポジション》の見方を「モンドリアンの抽象絵画の変貌をめぐる一試論」(『美術史』第147冊、美術史学会、1999)を書かれた福士理(おさむ)氏(以下、福士氏)に伺いたいと思った。福士氏は西洋近代美術史が専門で、東京オペラシティ アートギャラリーのシニア・キュレーターである。緊急事態宣言が発令される前に東京・新宿の東京オペラシティ アートギャラリーへ向かった。
ミニマリズムの元祖
密閉、密集、密接の「3密」を避けるウイルス感染対策のために、アートギャラリーは閉まっていたが、福士氏は多忙な様子で入れ替わり立ち替わり問い合わせが入るなか、インタビューに対応してくださった。
1965年、東京に生まれた福士氏は、小学生の頃に油絵を習い、父親と一緒にゴッホ展や印象派100年展にも行ったそうだ。大学は、慶應義塾大学の法学部政治学科に入学し、卒業後は会社員になった。まさにバブル崩壊が間近に迫るその時期に、大規模な現代アート作品が展示された「ファルマコン'90 幕張メッセ現代の美術展」という薬と毒を意味する展覧会を見に行った。野球場のグラウンドの広さと同じ13,500平方メートルの会場に、国内外69人のアーティストによる200余点の大きな作品が展示されていた。その広い展示空間の中で、福士氏は印象派とは違うアートの世界を感じ取った。会社を退職して学芸員を目指し、1992年慶應義塾大学へ復学、文学部に学士入学した。そして2000年、同大学院の後期博士課程を単位取得退学し、札幌芸術の森美術館の学芸員となった。その後ブリヂストン美術館(現アーティゾン美術館)などを経て、2010年より東京オペラシティ アートギャラリーのキュレーターを務めている。
「私にとって、作品と徹底的に向き合うこと、とりわけ絵画と向き合うことを通して考えるべきことはなお多い。あえてこの時代、わからなくても、わからないからこそ作品を見続け、そして考える体験の豊かさを、伝え続けることが大切だと思っている。かと言って作品主義に陥らず、理論や概念、哲学的な背景なども突き合わせた上で絵画を見ていきたい。見ればわかるよね、では済ませないで、それを言語化、理論化すること。その作業を通じて感性もまた開かれていく」と福士氏は述べた。
モンドリアンを意識したのは、会社員を辞めて大学へ戻った1992年頃だった。一見クールでシャープ、シンプルな絵画であるが、よく見ると人間臭い筆跡などの手わざが見えて面白かった。当時、ミニマル・アートが好きだった福士氏は、ミニマリズムの元祖としてもモンドリアンを捉えていたそうだが、少し調べ、見続けていると、そんな単純な話ではないことがわかってきたという。福士氏はモンドリアンについての卒業論文を書き、さらに修士論文でもこの画家に取り組むことにした。そんな時期、1995年にモンドリアン没後50年の回顧展「Piet Mondrian: 1872-1944」をオランダのデン・ハーグ市美術館で見る機会を得た。チューリヒの《赤、青、黄のコンポジション》は含まれていなかったが、一週間毎日モンドリアン作品をまとめて見ることができたという。
「モンドリアーン」から「モンドリアン」
抽象絵画の先駆者のひとりといわれるピート・モンドリアンは、1872年オランダのユトレヒト州アメルスフォールトに誕生した。父ピーテル・コルネリス・モンドリアーンと母ヨハンナ・クリスティーナ・コックの間に生まれた5人兄弟の長男で姉と弟がいた。父の名を取ってそのまま命名される。
8歳より、小学校の教師で厳格なプロテスタントであり、アマチュア画家でもあった父と、叔父でハーグ派の画家のフリッツ・モンドリアーン(1853-1932)から絵画の指導を受けた。系譜をたどるとフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)ともつながるという話もあるらしい。1889年に小学校の図画教師資格を取得し、1892年20歳には中学校の図画教師資格も得るが、画家になることを決意し、アムステルダムの国立美術アカデミーに入学した。
1894年アカデミーの夜間素描コースにも出席し、聖ルカ芸術家組合に入会。経済的に困難になり、肖像画や名画の模写をしたり、風景画を描いて売り始める。1899年神智学
に関心を持ち、バルビゾン派の影響を受ける。1901年ローマ賞に応募したが、最終審査で落選。この頃、印象派風の風景画を描く。1906年34歳のとき、ウィリンク・ファン・コレン賞を受賞。1908年友人の画家コルネリス・スポールとオランダのゼーラント地方のドンブルグに旅行し、1909年アムステルダム市立美術館での三人展に出品した。1911年アムステルダムでの芸術家団体「現代美術サークル」セザンヌ記念第1回展に参加。このときパブロ・ピカソ(1881-1973)やジョルジュ・ブラック(1882-1963)なども展示され、分析的キュビスムに触発されてパリへ移住、姓を「モンドリアーン」から「モンドリアン」と改めた。
1913年41歳、第29回アンデパンダン展に初めて抽象作品を出品する。1914年病床にあった父を見舞うためオランダに帰国。第一次世界大戦が勃発し、4年半の滞在を余儀なくされる。非対称のなかに均衡の可能性を見出していく。
水平線・垂直線と三原色
モンドリアンは、1915年画家で建築家、批評家でもあるテオ・ファン・ドゥースブルフ(1883-1931)と出会い、1917年芸術雑誌『デ・ステイル』(De Stijl〔様式〕)を共に創刊した。1919年パリへ戻り、翌年には芸術論『新造形主義』(ネオ・プラスティシズム)を出版。作品を「均衡した関係の厳密な造形」と規定して、作品の要素は水平線・垂直線と赤・青・黄の三原色となった。
1921年黒い線が明確になり、原色のフォルムは非対称に引き離され、画面は動的な均衡を生み、新造形主義作品のコンポジション シリーズの原型が完成した。1925年ドイツのバウハウスから著書『新しい造形』が刊行される。この頃「要素主義」を唱えて、対角線の要素を使用したことからドゥースブルフと対立し、デ・ステイルから去る。1926年アメリカのコレクターが訪ねてきて、初めて抽象絵画が売れた。1930年《赤、青、黄のコンポジション》を制作し、翌年「抽象=創造」グループに参加。1932年アムステルダム市立美術館で、生誕60周年を祝う回顧展が開催された。また作品に二重線を導入し、直線による自由なリズムが強調されるようになる。
1938年第二次世界大戦を避け、パリからロンドンへ移った。1940年68歳でニューヨークに移住し、芸術家団体「アメリカン・アブストラクト・アーティスツ」に参加。1941年自伝的著作『リアリティの真のヴィジョンをめざして』を発表。作品は街の喧騒やネオンの輝きを感じさせる華やかな画面構成となる。翌年70歳で初の個展がヴァレンタイン・ドゥーデンシング・ギャラリーで開催された。1944年2月1日、肺炎によりニューヨークのマレーヒル病院で死去。享年71歳。サイプレス・ヒルズ墓地に眠る。生涯独身でジャズと女性をこよなく愛した。
モンドリアンによって要約された「新造形主義」理論
一、造形手段は、三原色(赤、青、黄)および非色(白、黒、灰色)の平面または直方体でなければならない。建築においては、空虚な部分が非色であり、材質部が色にあたる。
二、造形手段の等価性がつねに必要である。大きさや色彩が異なっていても、それらは同じ価値のものでなければいけない。一般に均衡は、非色の大きな平面と、色または材質の小さな平面とのあいだに保たれる。
三、同様に、構成にとっては、造形手段における対立の二元性が必要である。
四、持続的均衡はその基本的な対立における位置の関係によって達成され、直線(造形手段の極限)によって表現される。
五、造形手段を無力化し抹殺する均衡は、配置と、生きたリズムを生み出す比例の手段によって達成させられる……
(高階秀爾『近代絵画史(下)』pp.193-194)
【赤、青、黄のコンポジションの見方】
(1)タイトル
赤、青、黄のコンポジション。英題:Composition with Red, Blue and Yellow
(2)モチーフ
現実的な対象を表わすモチーフはないが、厳格で固定的な関係性(水平線・垂直線による直角の関係)と自由で可変的な関係性(色彩や矩形の大きさ・位置による諸関係)の両者が大切。
(3)制作年
1930年。モンドリアン58歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。木のフレームをモンドリアン自身が制作しているため、オブジェとしても鑑賞できる。
(5)サイズ
縦45×横45cm。絵と一対一で向き合い、自分の心の中を見るのと同じように、絵の中を見て自分の内面と呼応しあい波動が同期していくように、じっくりと体験することができる正方形のスケール。
(6)構図
幾何学的な図形で構成し、正方形の画面内には水平・垂直の線と大きさの異なる矩形の色面を結合させ、非対称の構図を強調。
(7)色彩
赤、青、黄、白、黒、灰色。色そのものへのこだわりよりも、色と色との関係性が大事。色自体に意味を持たせてはいない。
(8)技法
油彩。原色を矩形に平塗り。一見したところ無機的で均質な仕上げだが、よく見ると線や矩形の区画ごとに異なる筆触を使い分けながら、画面に精微な肌理(きめ)を与えている。
(9)サイン
黒で「P M 30」と画面左下に署名。
(10)鑑賞のポイント
三原色(赤、青、黄)と非色(黒、白、灰)、水平線と垂直線の各要素の両極的な対立が、均衡した関係を表現している。観者の能動的な関与により、色や形や大きさ、あるいは「地」と「図」など、相互の差異の関係に注目すると、その都度生じては交替する多義的で動的な関係の明滅と更新を体験し、徐々に内的な運動が生まれてくる。ここにモンドリアンのいう新しい空間表現が立ち上がる。またフレーム内で作品は完結せず、例えば右上の赤の矩形はフレームを超えて、外へ広がると同時に内側へもエネルギーを集約させ、時間の経過によって赤色が膨張して見える。黒い直線は、全体の均衡との関連で長短と太さが決定され、画面を分割しつつ、あるものはフレームの直前で止められており、線であると同時に形としての役割も果たしている。単純な絵柄ながら無限の比例関係が内包されており、複合的・実践的な律動感が感じられる。モンドリアンの「抽象的なリアリティ」の到達点であり、抽象絵画の極点である。
両極の均衡
福士氏は《赤、青、黄のコンポジション》の色彩について、「赤、青、黄の三原色は、色彩環(カラー・サークル)上においては均等の位置関係にあり、反対色(補色)によるコントラストという印象派的な調和の不在を意味する。そして純粋性、明晰性、光輝性といった三原色の視覚的インパクトは、実は特定のフォルムや関係を際立たせるためではなく、見る者の意識のなかに生起する多義的な諸関係の流動こそを活性化させる質的差異として機能している」と述べている。
《赤、青、黄のコンポジション》は、限られた要素だけで描かれたシンプルな作品と言えるが、その裏には、無限の複雑さが隠されている。それを実感するには、まず、この絵が白い「地」に黒い直線と三原色の矩形を「図」として配置したもの、という見方からいったん離れることがカギだと福士氏は言う。白い部分は、一様な「地」ではなく、白い矩形の一つひとつも、三原色の矩形や、黒い線と同様に、この絵に隠されたドラマを構成する重要な演じ手である。実際モンドリアン作品では、白い部分が、実は区画ごとに異なる筆触で描かれていたり、少しずつ明度が異なっていたり、あるいは黒い線よりも盛り上がるほど厚く塗られていることもあるという。単純なようでいて、一筋縄でいかないところが魅力ともいえる。
また《赤、青、黄のコンポジション》は、色彩や形のバランス、プロポーションが大切であるのは間違いではないが、必ずしもそれだけではない。モンドリアンは作品について、すべての部分がニュートラルで等価であるといい、“均衡”という言葉を使う。両極の対立したもの同士がぶつかり合い、それが均衡し、その均衡している状態こそ、人間にとっても社会にとっても現実にとっても、理想の状態であると主張している。福士氏は、モンドリアンが絵を抽象的に描くことは、両極の均衡という理想状態を “感性的”に人々に示すことを通して、現実を理想に向けて変革していくことを意味していたという。モンドリアンにとって制作とは、社会的な実践だったのだ。
際限なく更新される関係性
「モンドリアンにおいては、水平と垂直の対立がまず特徴的。モンドリアンが世界の根本原理と考えていた両極の対立と均衡という関係性が、作品に集約的に示されている。しかし、それがすべてではない。モンドリアンは、水平と垂直による厳格で“固定的”な関係性だけでなく、色彩やフォルムが織りなす自由で“可変的”な関係性もつねに意識していた。つまり感性に訴えかけてくる動きやリズム、ときに引き合ったり、反発しあったり、収縮したり、拡張したりする自由な関係性だ。モンドリアンは、究極的にはこの二つの関係性、固定的な関係性と可変的な関係性こそが“両極”として対立し、均衡に至るプロセスを重視した。それが複雑極まりないプロセスとなることは、容易に想像できる。大切なのは、画面における部分と部分、あるいは部分と全体などの関係性が、見る人の意識によって自由に結合と組み替えを繰り返し、際限なく更新されること。人がこの絵に見るものは、時間の推移とともに、移り変わっていく。究極のバランスやプロポーションといった固定的な発想ではなく、見る人の能動的な知覚態勢において、その都度生じる諸関係の明滅、それこそがモンドリアン作品がもたらす豊かな絵画体験を支えている。そこには、いわゆる無機質とは無縁の、真に今日的な“生命性”の表現がある。それは《赤、青、黄のコンポジション》にも当てはまる」と福士氏は語った。
山の姿が日により、時間によって異なるように、《赤、青、黄のコンポジション》も見る側の意識に応じて変わる。《赤、青、黄のコンポジション》には、今どのような光景が浮かんでくるだろう。
福士 理(ふくし・おさむ)
ピート・モンドリアン(Piet Mondrian)
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参考文献