アート・アーカイブ探求
サイ・トゥオンブリー《無題》──エレガントな不安定さ「前田希世子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2020年08月01日号
対象美術館
根源的なアプローチ
黒板に白いチョークでグルグルと連続的に円を描いたような絵が忘れられない。絵とは思えないものを描いて見せるサイ・トゥオンブリー。子供のいたずら描きのような線描は、誰でも描ける筆跡として芸術からほど遠い位置にあるように思われた。しかし、トゥオンブリーは誰も描けない、描かない領域を切り拓いてきた美の開拓者なのだろう。2001年、第49回ヴェネツィア・ビエンナーレでカラフルな絵画作品《レパント》を見て、“サイ”という変わった名前がより強く印象に残り、頭から離れなくなった。サイ・トゥオンブリーの作品は絵なのか、四角い平面に記されたものを絵だと思い込んではいないか。もし絵だとすれば何が描かれているのだろう。
日本国内にトゥオンブリーを所蔵している美術館は少ないが、トゥオンブリー・ルームDIC川村記念美術館の《無題》を探究してみたい。線の作品はWeb上では脳波や心電図のようにも見えるが、人間が洞窟壁画に記録する以前の、描く行為の遠い記憶の源を辿るような根源的なアプローチが、想像力を刺激する。トゥオンブリーの作品と対面できるDIC川村記念美術館の常設展示は貴重な存在だ 。
を有する《無題》の見方をDIC川村記念美術館の学芸員、前田希世子氏(以下、前田氏)に伺いたいと思った。前田氏はアメリカ美術史を専門とし、2016年に「サイ・トゥオンブリーの写真──変奏のリリシズム」展を企画されている。千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館へ向かった。
東京から四街道駅までJR総武線快速で1時間ほど、そこから連絡バスはなく美術館へのアクセスはタクシーのみだ 開館30周年記念展 ふたつのまどか──コレクション×5人の作家たち」(2020年6月16日~11月29日)に、みな満足そうだった。いま、人々は美術館に何を求めているのだろうか。これからの美術館の社会的な役割を思いながら部屋で待っていると、前田氏が現われた。
。新型コロナ感染対策により美術館の入館には事前の予約が必要で、鑑賞者は多くはなかったが、「ラウシェンバーグとブラック・マウンテン・カレッジ
サイ・トゥオンブリーは、アメリカの抽象表現主義
のジャクソン・ポロック(1912-56)やマーク・ロスコに続く、次世代を代表する画家、彫刻家、写真家である。1928年アメリカのヴァージニア州レキシントンに生まれた。父は、シカゴ・ホワイトソックスの元野球選手で、サイという名はメジャー・リーグの投手に与えられるサイ・ヤング賞で名を残す往年の速球投手サイ・ヤングから取ったサイクロン(cyclone、暴風)を意味する父親のニックネームでもあった。トゥオンブリーは1947年ボストン美術学院に入学し、ドイツ表現主義を学び、1949年ワシントン&リー大学新設の芸術学部に入学する。1950年22 歳のとき、奨学金と助成金を得てニューヨークの美術学校アート・ステューデンツ・リーグに入学し、生涯の友となるネオ・ダダ
として活躍したロバート・ラウシェンバーグ(1925-2008)と出会う。彼の勧めで1951年ノースカロライナ州にある実験的な教育を行なう芸術学校ブラック・マウンテン・カレッジの夏期と冬期の講習を受講し、社会派リアリズムの画家ベン・シャーン(1898-1969)や、抽象表現主義の画家ロバート・マザウェル(1915-91)らに学ぶ。そしてマザウェルの推薦によりニューヨークで最初の発表となるサミュエル・クーツ画廊での二人展が実現した。1952年にはラウシェンバーグと初のヨーロッパ、北アフリカ旅行へ出かけ、古代文明に魅了される。翌年兵役によりアメリカ陸軍に入隊、暗号制作者として配属された。この頃、夜の暗闇の室内でドローイングを制作、手業を感じさせる新しい描写の方法を模索する。1年後には陸軍を除隊し、グレー・ペインティングや石膏彫刻を制作。1955年27歳、ニューヨークのステーブル画廊で初個展を開いた。
1957年ローマに移りアトリエを構え、イタリアで本格的に制作を開始する。イタリアでは詩や神話、古典史からインスピレーションを得て、文字や数字を用いたより大規模な作品を展開した。1959年31歳、ローマに生活の拠点を移し、さらに1960年の半ばにはニューヨークにもスタジオを持ち、米国とイタリアを行き来しながら制作に取り組んだ。そしてルイザ・タチアナ・フランケッティと結婚し、息子サイラス・アレッサンドロが誕生する。
目からではなく手から繰り出される絵画
アメリカのアート界では、1950年代以降ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティング、マーク・ロスコのカラーフィールド・ペインティング、アンディ・ウォーホルらのポップアート、ドナルド・ジャッド(1928-94)らのミニマルアートなどの潮流が生まれていた。しかし、シャイで旅好きだったトゥオンブリーは、植物をモチーフに色彩を多用した作品や無彩色の背景にクレヨンなどでドローイングを重ねた作品など、目ではなく手から繰り出す独自の表現様式を確立し、孤高の詩人と呼ばれるようになり、20世紀美術史に名を残した。
1960年アメリカの美術界を牽引した画商レオ・カステリ(1907-99)がオーナーを務めるニューヨークのレオ・カステリ画廊で個展を開催し、それ以降はニューヨークの主要画廊や欧米の美術館で個展や回顧展が次々開かれた。1966年37歳、一面グレー一色のグレー・ペインティングの制作を再開する。手に持ったクレヨンで絵具とキャンバスを感じるように、手の感覚を大事にしながら制作していった。
1968年アメリカで初の大規模な回顧展「Cy Twombly: Paintings and Drawings」がミルウォーキー・アート・センターで開催され評判となる。1976年には版画集『博物誌Ⅱ イタリアの木々』が完成し、彫刻の制作を再開した。1978年初の絵画集『絵画1952-1976』(プロピュライオン社)を出版。1979年50歳、ホイットニー美術館での回顧展開催。展覧会のカタログにはフランスの思想家ロラン・バルト(1915-80)が序文を執筆している。1980年第39回ヴェネツィア・ビエンナーレに参加。1985年イタリア・ローマの南に位置する漁師町ガエータに拠点を移す。1988年フランス共和国文化通信省より芸術文化勲章シュヴァリエを授与され、1993年にはワシントン&リー大学から博士号が授与された。この頃から故郷レキシントンで春と秋を過ごすようになる。1995年メニル・コレクションに常設館「サイ・トゥオンブリー・ギャラリー」がオープンした。
1996年67歳のときには、高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)を受賞し、東京、京都、佐渡ヶ島に滞在している。2001年72歳、第49回ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞。2007年ルーヴル美術館の天井画制作を監督。レジオン・ドヌール勲章を受章する。2011年6月ダリッジ・ピクチャー・ギャラリー(ロンドン)でニコラ・プッサン(1594-1665)との二人展「トゥオンブリーとプッサン:桃源郷の画家」を開催し、翌月の7月5日にローマにて逝去。享年83歳だった。「トゥオンブリーは、好奇心が強く、その興味の及ぶ範囲が広い。自分の作品とストイックに向き合っている芸術家だったけれど、普通の人のようにも見えた」と、トゥオンブリーの近くにいた元ギャラリストは伝えている。
【無題の見方】
(1)タイトル
無題(むだい)。英題:Untitled
(2)モチーフ
線。
(3)制作年
1968年。グレー・ペインティングシリーズ制作期の半ば頃、ニューヨークで制作された。
(4)画材
キャンバス・家庭用塗料・クレヨン。
(5)サイズ
縦200×横259cm。
(6)構図
平面的で奥行きの浅い、正面性の強い構図。
(7)色彩
艶のないグレーと白。ほかの色の特性を消し去ることなく混色できるグレーは、中性的な性格がある。
(8)技法
画面全体に意識を行き届かせながら、クレヨンを持つ手とキャンバスの距離を近くして部分に集中する描き方。グレーの塗料を全体に薄く塗り、生乾きの状態で感触を確かめながら白色クレヨンによって横線を引き、その後に再度塗料と線を加える。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
グレーの画面全体に幾筋もの白い線が、左から右へ引かれている。近くで見るとクレヨンを持つ手の動きが繊細に伝わってくる手から目への作品であり、線にバリエーションがあるが、何かを表現したり、かたどろうとする線ではない。繊細な震えやかすれを伴った無数のタッチの軌跡として記録された線。細い線や太い線、速かったり遅かったり、随所に塗料の垂れた様子や拭き取ったようなところもある複雑な層を形成している。黒板に描いた線にも見え、子供のいたずら描きとも言われ、不完全ではあるが、軽やかで優雅な空間を生み出している。始まりと終わりのない永続するループの只中で、どこまでも浮遊し続け固定されないからこそ、豊かにいまに開かれた世界が広がる、そう思わせてくれる。
グレー・マター
トゥオンブリー絵画のシリーズでもある“グレー・ペインティング”のグレーはどのように生み出されたのだろう。前田氏は「1960年代はポップアートに代表されるような極彩色が使われた時期である一方、グレーの絵画も多く発表されている。例えばジャスパー・ジョーンズ(1930-)の鉛を使った作品や、ゲルハルト・リヒター(1932-)のグレー・ペインティング。ミニマリズムやコンセプチュアリズムの作家が多用した金属やコンクリートも、グレーの印象を強めている。こうした時代の流れを受けてトゥオンブリーのグレー・ペインティングは制作されたのだと思う。だが、トゥオンブリーがグレーを使用したのは、流行という以上に、もっと重要な意味があるのではないか」と述べる。
現代美術におけるグレーの登場について、マルセル・デュシャン(1887-1968)との関係性をいち早く示唆した美術批評家の林道郎は次のように書いている。「それまでの網膜的な美術(印象派に代表されるような)、つまりは、視覚にのみ訴えかける美術から、概念や知性に軸を移した芸術を二十世紀のはじめに称揚したのだった。そして彼は、その主張を展開する際に、繰り返し『グレイ・マター』という言葉を使ったのだ。(中略)コンセプチャル・アートは、まさにグレイ・マターに訴える実践であり、その流れのなかで、物質的にもグレイな印象の作品が増えるのだ」(林道郎『静かに狂う眼差し──現代美術覚書』p.100)。「そのつながりで考えていくと、トゥオンブリーのグレー・ペインティングは、目に訴えるだけではなく、“行為と動作”を思考した作品と読み取ることもできる」と前田氏は述べた。
行為と動作について前田氏は語る。「行為とは何か目的をもって行なう動きだが、この《無題》はむしろ動作。動作は、目的を持たない分断された動きというイメージ。動作においては、原因と結果、動機と目標、表現と説得の区別が消滅する。トゥオンブリーは、もともと線を突き詰めるために、夜部屋を暗くして、光なしで紙と鉛筆で絵を描いた。目があるとどうしてもコントロールしてしまう。光を消して真っ暗にし、紙と鉛筆の芯が出会う瞬間を感じ取り、創作に没頭した。《無題》も含めて実際の絵画作品は、目を開けてつくられているが、暗闇のなかで習得した手の動きが生きていると思う」。
思想家ロラン・バルトは「TW(トゥオンブリー)は、現代画家の多くが選んだ態度とは逆に、動作(ジエスト)を示す。求められるのは、生産物を見、考え、味わうことではない。そこに至った運動を見直し、見定め、いってみれば《楽しむ》ことである」(ロラン・バルト『美術論集』p.92)と書いている。
開かれた時間
《無題》について前田氏は、不完全さ、ぎこちなさが重要だという。「部分が全体を支えている抽象表現主義のポロックやロスコの作品と異なり、トゥオンブリー作品は近くに寄って部分を見ると、繊細な表現があり、部分の印象と全体の印象が、抽象表現主義の画家よりすっきりしないズレがある。部分が全体に還元されないような、揺らいだ感じ、不安定な感じを、固定されていない流れのなかで見ることになる。不安定なものは心地よいものではないが、そのエレガントな不安定さがトゥオンブリー作品の魅力のひとつだ」と前田氏。
さらにちょっと凶器に近いところもあるという。「致命傷にはならないけれど、小さな傷の痛みのあるもの。耐えられる程度だけど、記憶に深く刻まれていくような、少し怖い部分も感じる」と前田氏は付け加えた。
等身大の大きさの《無題》に包まれたとき、間近にグレーの色面と白い線描を見つめていると、線は一様ではなく、一本一本が異なる時間の経過を思い起こさせてくれる。グレーも均一ではなく擦れ、重なり、絵具の滴りなど、悲しみの表情が浮かび上がってくる。薄い皮膜のような画面のなかにその手の振動の痕跡を追っていくと、見る者に参加を誘い緩やかな過去と未来に開かれた時間が流れていく。絵画は周りの光を吸収し、グレーと微妙に混ざり、生成と消失が揺れて、画面の中心は無の状態で鑑賞者の心情を映す。美術館の自然と時空と結びついた、全身的な体験が《無題》の記憶となっていく。
前田希世子(まえだ・きよこ)
サイ・トゥオンブリー(Cy Twombly)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献