2017年12月15日号
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『限界芸術論』鶴見俊輔

Genkai Geijutu-ron,Shunsuke Tsurumi

1956年に、哲学者の鶴見俊輔が提唱した芸術概念、および書名。鶴見は、専門家によってつくられ、専門家によって受け入れられる芸術を「純粋芸術」(Pure Art)、同じく専門家によってつくられるが、大衆に楽しまれる芸術を「大衆芸術」(Popular Art)としたうえで、非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される芸術を「限界芸術」(Marginal Art)と考えた。限界芸術の具体例として鶴見が挙げたのは、落書き、手紙、祭り、早口言葉、替え歌、鼻歌、デモなど、私たちの誰もが日常生活で繰り返している身ぶりや言葉である。それらは一見すると「芸術」とは隔たりがあるように思われるが、鶴見によれば芸術とは美的経験を直接的につくりだす記号であり、この観点に立てば、ふだんの暮らしの中での美的経験は、展覧会で絵画を鑑賞する美的経験などよりも、かなり幅広い拡がりをもっていることがわかる。こうした生活の様式であると同時に芸術の様式でもあるような領域を、言い換えれば生活と芸術が重なり合う「のりしろ」の部分を、鶴見は限界芸術であると考えたわけだ。こうした考え方は、たとえば国外ではジョン・ラスキンやウィリアム・モリスらによる「アーツ・アンド・クラフト運動」の流れや、国内では柳田国男、柳宗悦、そして宮沢賢治らによる表現文化と通底しているが、限界芸術はたんなる表現様式のひとつとしてではなく、むしろそうした様式の展開の根底を貫く共通地下道として構想されている。鶴見は限界芸術がアルタミラの壁画以来連綿と続いているというが、それは限界芸術が純粋芸術と大衆芸術を生み出す根源的なものであり、なおかつ私たちが人生ではじめて出会う原初的なものであるという二重の意味で原始的なものとして考えられているからだ。受動的・間接的に鑑賞する芸術ではなく、主体的・直接的に実践して楽しむ芸術。西洋近代芸術が唱えた普遍性とは異なる、もうひとつの普遍性への道を切り開く可能性に賭けているという点で、限界芸術はヨーゼフ・ボイスの思想や石子順造によるキッチュ論と近いといってもいい。誰もが表現文化の消費者であり、同時にその生産者でもある今日の時代にあって、限界芸術の重要性はますます高まっている。

著者: 福住廉

参考文献

  • 『限界芸術論』, 鶴見俊輔, ちくま学芸文庫, 1999
  • 『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』, 鶴見俊輔, 平凡社ライブラリー, 2000
  • 『梅棹 忠夫著作集 第12巻』, 「アマチュア思想家宣言」, 梅棹忠夫, 中央公論社出版, 1991
  • 『桑原武夫全集 第3巻』, 「第二芸術」, 桑原武夫, 朝日新聞社, 1968
  • 『石子順造著作集 第1巻』, 「キッチュ論」, 石子順造, 喇嘛舎, 1986

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