会期:2024/11/23~2024/12/22
会場:御殿山生涯学習美術センター[大阪府]
公式サイト:https://www.hira-manatsuna.jp/gotenyama/exhibition/kikaku/2024/throwing_spaghetti.html
「スローイング・スパゲッティ」(略称スロスパ)は、「話し合いの場を築きあげる取り組み」として、11人の若手アーティストにより、2023年に京都で発足したアート・コレクティブである。コレクティブ名は、スパゲッティを茹でる際、手で捻って鍋に投げ入れる動作を指し、「試行錯誤」を意味する言葉である。本展では、ワークショップとパフォーマンスによる二部構成の作品《シャドーイング・サークル》が展開された。
会場に入ると、御殿山生涯学習美術センターの模型が入れ子状に置かれている。その前で、スロスパのメンバーが、作品の概要と制作動機について話し始める。メンバーが11人と多人数のため、ミーティングには、スケジュール調整や「話し合い自体に時間がかかる」という困難さが伴うこと。発言しない人や、多人数の場では発言しづらく感じる人が出てしまうこと。2~3人での対話の場を設けたところ、全体ミーティングでは言えなかった意見が出てくるようになった。そのため、「少人数に分かれた対話を録音し、後で録音を聞いてメンバー同士が共有する」というやり方を採っているという。
[撮影:大澤一太]
本作では、この普段のスロスパのミーティング手法を、観客がワークショップ参加者として体験する。ただし、前半のワークショップで観客同士が交わした会話を、そのまま録音音声として流すのではなく、スロスパのメンバーによる「シャドーイング」によって「再生」される点が肝だ。シャドーイングとは、英語の学習法で、音声を聞きながら即座に追いかけて復唱する。
私が参加した回では、観客は2人ずつ2組に分かれ、「死生観について」という用意されたお題について、30分間会話した。その後、パフォーマンスでは、ヘッドホンやイヤホンを付けたスロスパのメンバーが現われ、展示会場の模型を舞台装置として、シャドーイングによる「会話の再生」を聴くことになる。
[撮影:大澤一太]
それは、「録音音声を聴く」のとも「台詞として覚えた演技を見る」のとも異なる、不思議な時間だった。意外にも、「音声」としては再生されて聴こえる。だが、集中力を保つため、目をつむり、所在なく歩き回り、模型に寄りかかり、手で表面を撫でるなど無意識的な動作に没入する身体から流れ出てくる声は、お互いに向き合って発されたものではない。会話内容の反復だが、発話する身体はそこに同席していない。
[撮影:大澤一太]
この試みの射程は、「距離を取って耳を傾けること」という自分と/他者と相対するための方法論の開発と、演劇という形式へのメタ批評の2点にある。シャドーイングでは情報の取捨選択が行なわれないため、「なんか、」「いや、その」といったノイズが頻繁に混入し、相手の発言に被った相槌まで再生される。計算ずくで「生」っぽく構築された会話劇とも、インタビューを基に再構成したドキュメンタリー演劇とも異なる質感が差し出される。自分自身の発話を、他者の身体と声を通して聴くこと。自分の身体から引き剥がされることで距離感が生まれ、無意識の相槌や癖、言い間違い、会話のキャッチボールをうまく受け止められていなかったことに気づくなど、対話内容を客観化してもう一度耳を傾けることができる。
[撮影:大澤一太]
また、同じテーマでも、別の組ではまったく異なる内容が話されていたことも興味深かった。自分自身をもう一度見つめること、相手との向き合い方も含めて「知る」こと、そして「自分がいなかった」場所で何が話されていたのかを知ること。
シャドーイングで再生されたもう一組の会話では、「死を経験していないから、生々しい感覚がなく、話しづらい」という発言があった。「自分の身体が経験していないことを声に出し、身体を通過させる」ことは、「他者の会話のシャドーイング」という方法論ともリンクする。
死と、「声」として再生すること。私は本作を体験しながら、今秋に再演を見たスペースノットブランク『光の中のアリス』(作:松原俊太郎、2020年初演)を思い出していた。冒頭、「登場人物は、はじめから死んでいる。」「はじめるには、声を発しなければならない。」というト書きが、字幕表示されるところから上演が始まる。「書かれた言葉(戯曲)」が、俳優の身体を通過して「声」として発されることで、「一度限りの/何度でも反復可能な再生」を明確な輪郭として獲得する演劇。一方、「会話のシャドーイング」である本作では、「一度、声に出されたきり瞬間的に消えていく会話」という本来反復されないはずのものが、他者の身体と声を経由して、聴き取りづらさやノイズを伴って反復・再生される。「対話相手に向かい合う身体の回路」が互いに遮断された状態で「再生」された言葉を聴くという矛盾や逆説が、対話そのものの相対化をもたらす。それは同時に、演劇の原理的構造のメタ的な照射ともつながっている。
関連レビュー
スペースノットブランク『光の中のアリス』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)
鑑賞日:2024/12/20(金)