会期:2024/03/22〜
会場:シアター・イメージフォーラム[東京都]ほか
公式サイト:https://www.sunny-film.com/alain-guiraudie
性、なかでも性行為というのはおおよそ滑稽なものだ。アラン・ギロディ監督の映画『湖の見知らぬ男』(2013)は、現実世界においてしばしば隠蔽されている──というのは性というものが笑い飛ばしてしまうにはあまりに私たちの生にシリアスなかたちで食い込んでいるからだが──その滑稽さを文字通り白日の下に曝け出す。湖のほとりのハッテン場に集うゲイ・バイ男性のあられもない姿を、その性器も含めてあっけらかんとスクリーンに映し出すというやり方で。射精の瞬間までも映し出してしまうその露骨な描写にエロスが皆無であるとまでは言わないが、しかしそこにはやはりどこか馬鹿馬鹿しさの方が先に立つ印象がある。だが、その滑稽さはだからこそ、湖のほとりに寄る辺なくたむろする男たちの生の切実さを際立たせることになるだろう。
『湖の見知らぬ男』は第66回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で監督賞とクィア・パルム賞を受賞した作品。ギロディの最新作である『ミゼリコルディア』(2023)およびその前作『ノーバディーズ・ヒーロー』(2021)とともにこの3月から日本で初めて劇場公開され、合わせて日仏会館では『垂直のまま』(2016)、『キング・オブ・エスケープ』(2009)、『勇者に休息なし』(2003)と過去作3作品も上映されることとなった。
『湖の見知らぬ男』の物語はハッテン場として使われている湖のほとりで終始展開する。そこに集う男たちのほとんどは全裸で砂浜や周囲の森のなかを徘徊し、相手を見つけては行為に励み、あるいは相手を見つけられないままに(ときに他人の性行為を覗き見したりしつつ)時間を過ごしている。常連のひとりであるフランクはある日、アンリという中年男性と出会い、言葉を交わすようになる。ほかの男たちからは離れ、服を着たままひとりぽつねんと湖のほとりに佇むアンリはそこでは浮いているが、二人は性的な行為はないままに少しずつ打ち解けていく。一方でフランクは、ミシェルという男に強烈に惹きつけられるが、どうやらミシェルには決まった相手がいるようだ。ところがある日、フランクはミシェルがその相手を湖に沈めているらしき場面を目撃してしまう。そして死体が発見されるのだが、湖のほとりにはすぐに「日常」の光景──裸の男たちが戻ってくる。あれは殺人の瞬間だったのだろうか。フランクは疑惑を抱いたままミシェルとの性行為を重ねていき──。
スクリーンは湖のほとりの光景だけを映し続ける。ときに定点カメラの映像のようでさえあるそれがハッテン場の外部を映し出すことはない。自ら過去を語ってみせるアンリという例外を除けば、男たちにハッテン場の外部の生は存在しないかのようだ。このようなショットのあり方は、しばしば互いのことをほとんど知らないまま行為に及び別れていくハッテン場の男たちの生態系を反映したものだと言えるだろう。
一方、同じ構図のショットの反復──ハッテン場に乗りつける車、砂浜へ通じる木立、砂浜にだらしなく寝そべる男たち──は、審美的なチョイスでもあるだろうが、同時に、例外的な空間として存在するように思われるハッテン場での時間が、男たちにとっては紛れもなくある種の「日常」であることをも示すものである。そこに集うのはおおよそいつも同じ面子であり、空気には倦怠と悲哀、そしてある種の連帯感から生じる奇妙な親密ささえもが漂う。求める性的な刺激とは裏腹に、そのような空間では、セックスの多くはある程度の妥協の産物とならざるを得ないだろう。男たちは限られた選択肢のなかからその都度妥協できる相手を選び行為に及ぼうとし、そしてしばしばそれにさえ失敗する。彼らはそれになかば倦みつつ、そこに通うことをやめることはしない。映し出されているのはそのような仕方で結びついたコミュニティの姿なのだ。
だからこそ反復を乱す変化──アンリ/ミシェルの登場、そして殺された男の不在を示すように湖のほとりに残り続ける車や持ち物等々──はそこに不穏を持ち込み、ある種の刺激としてフランクに、そして観客に働きかける。クライマックスにおいて、ミシェルによるアンリの殺害を目撃したフランクは、ミシェルから逃れようと森の中を彷徨う。しかし、日が暮れ何もかもが闇に溶けていくなかで命の危険に晒されているはずのフランクは次の瞬間、なぜかミシェルの名を呼ぶだろう。それはそのような状況下でなお相手と結びつきたいと願う切実さの表われだろうか。あるいはセックス中毒の狂気だろうか。
ギロディの作品において、登場人物はしばしば観客の思いもよらない言動に走る。ほとんどの場合、その意味するところが劇中で説明されることはなく、それゆえ観客はよりいっそう、その解釈に励むことになるだろう。だが、ハッテン場の流儀に従うならば、そこに曝け出されているものがすべてなのだ。表面に現われているものを文字通りに受け取ること。スクリーンに映し出されている以上のものは何もない。そのことを示すように、闇がスクリーンを覆うとともにこの映画は終わる。
鑑賞日:2025/03/24(月)