会期:2025/04/27~2025/05/15
会場:Mikke Gallery[東京都]
公式サイト:https://mikke-gallery.com/exhibition/kyusyuhaintokyochihou
四谷の複合文化施設・Mikkeで「九州派イン東京地方」の第二期「九州派にまつわる資料と九州派作家の作品」が開催された。本展は福岡市美術館の学芸員として、長年に渡って九州派の紹介、調査を行なってきた山口洋三がキュレーションを、著書『現代美術史──欧米、日本、トランスナショナル』(中央公論新社、2019)でローカルな前衛集団として九州派を紹介した山本浩貴がアシスタントキュレーションを務めた。
会場は2部屋に分かれ、前室では1950年代から60年代にわたる九州派に関わる活動を資料によって紹介し、奥の部屋では九州派5名の絵画作品を展覧していた。九州派といえば美術イベントとしては耳慣れないタイトルの「英雄たちの大集会」の人たち、というぼんやりしたイメージを上書きする資料や解説が潤沢に配され、戦後の九州における前衛的動向を見直す機会を与えてくれていた。
九州派は、詩人と画家の交流に端を発するという。1953年6月に設営された共同アトリエ「青の家」に、のちに九州派の中心メンバーとなる桜井孝身、小幡英資が詩人として出入りし、九州派結成のきっかけとなる「ペルソナ展」(1956)には10名の詩人と4名の画家が参加した。ペルソナ展は福岡県庁外壁を使った野外詩画展覧会で、公募展に収まらないどころか、そもそも室内にさえ留まらず、既存の様式を逸脱しようとする姿勢が見える。
彼らの活動は野外展示に始まり、3000号の絵画制作(一辺9メートルほど)、海の家のアトリエ化、非画材の活用、共同制作、九州アンデパンダンの立ち上げ、夜間の野外パフォーマンスイベントの開催など、さまざまな面で規格外の試みが見られる。とくに気になるのは、ほとんどのメンバーが兼業芸術家だったことと、集団的内省の激しさである。
九州派は身の回りにあるものを作品に取り入れたことでも知られ、とくに仕事で触れた素材を活用している。印刷会社に勤めていたオチ・オサムは廃インクやアスファルトピッチを、岩田屋百貨店に在籍した田部光子はマネキンをパフォーマンスで扱った。作品のみならず、岩田屋や桜井が勤めていた西日本新聞の施設は展示会場としても使用されている。職場の労働組合における姿勢はグループの関係性にも直結し、国内百貨店における初の大規模ストライキとして知られる岩田屋争議が起こった際、共産党系の組合から抜けるとした田部に、桜井が九州派除名を威脅することもあったようだ。彼らの活動記録の端々から、労働と制作と思想が渾然一体となって行動に結びついていった様子が窺える。
「九州派イン東京地方」展にて[筆者撮影]
1959年には内部の議論が苛烈化し、グループの分裂も起こっている。九州派は公募展粉砕運動を謳うメンバーもいれば二科会参加者もいる大らかさを有したが、その方針をめぐって菊畑茂久馬と議論の末に寺田健一郎が離脱する。麿墨静量、斎藤秀三郎は九州派を出て「グループ西日本」を結成。桜井に反発した菊畑、オチ、山内重太郎も「洞窟派」を結成。翌年には初期メンバーの俣野衛も脱退する。これは俣野が西日本新聞社の労働組合を脱退したことに由来するもので、同組合に所属していた桜井から凄まじい言葉のリンチを受けたという★1★2。
1960年には九州派の再建を目指す桜井により、菊畑とオチが呼び戻され、グループ西日本からも新メンバーを引き抜くなど、活動の再燃化が図られていく。彼らが出品を続けていた読売アンデパンダンで、反芸術的な作家への注目が集まった時勢も受け、ネオ・ダダとの交流や東京での作家活動が活発化していく。しかし、同年11月の三井三池労働争議の組合敗北も背景に、集団と個をめぐる葛藤のなか、野外イベント「英雄たちの大集会」の準備において再び菊畑が離脱する。同イベントにはオチも参加しなかった。
「九州派イン東京地方」展にて[筆者撮影]
このような作品の周縁的背景ともいえるグループの活動状況が丁寧に紹介されるのは、彼らの作品が現存しないことにも由来する。既存の枠に捉われない姿勢として、作品を残さないことが謳われることもあったというが、実利的には東京に運んだ作品を戻す運搬費の節約が理由のようだ。とくに、仕事を休むことができなかったオチが菊畑に東京での設営を依頼した際、望んだかたちにならなかったことなど、兼業の痛切さが感じられる。それでも、早い時期からの写真が残っていることが救いである。
桜井はその後渡米し、サンフランシスコでアーティスト・コミューン「コンニャク」を立ち上げるなど、生活者としての芸術活動の模索を続けていく。オチも渡米の際に桜井と合流するなど、苛烈な議論を経ながらも途切れない関係性が保たれている。70年代の労働闘争のトーンで進行した芸術グループという点でも稀有な存在である。
九州アンデパンダンへの出品を機に九州派に参加した谷口利夫は、アンデパンダンの会場にある黒いレリーフ状の作品から三池坑内の採炭場に似た臭いがしたと述懐している★3。それは石炭を描画材に用いたためだと後になって彼は知るが、採炭場へ入った経験のない世代はもちろん、当時でさえ東京の美術関係者たちがその匂いの背景を感得しえたかわからない★4。作品から場所とのつながりを感じ取る鑑賞体験として、彼の記憶も特筆に値する。鮮烈なエネルギーとともに駆動した彼らの活動は、労働や集団というテーマとともに、これからなお探求されていくだろう★5。
「九州派イン東京地方」展会場風景[筆者撮影]
鑑賞日:2025/05/15(木)
★1──田部光子 オーラル・ヒストリー 第2回 https://oralarthistory.org/archives/interviews/tabe_mitsuko_02/
★2──言葉のみならず、暴行も日常茶飯事だったようだ。菊畑茂久馬は「殴る蹴るは朝めし前」(『美術手帖』1971年10月号)、田部光子は議論に伴う暴力沙汰について「作家精神の方が作品より重要だといっていたのかなあ、とにかく相手の内臓の中まで見きわめなければ承知しない者同志のつきあい方はああなるのかも知れない」と述べている。参照=『九州派展──反芸術プロジェクト』福岡市美術館協会、1989、145頁
★3──『九州派展──反芸術プロジェクト』福岡市美術館協会、1989、144頁
★4──九州派と同時代を生きた美術評論家・田中幸人は、反芸術に対するいくつもの軽口のひとつに「腐敗悪臭芸術」があったと述べている。複数のグループが用いた非画材が漂わせる匂いのなかで、当時においても炭鉱の匂いは平均化されたかもしれない。https://g-morita.com/wp-content/uploads/2019/11/8d1b2b84cdf6ac57ca9161b0f576bc9a.pdf
★5──来訪が叶わなかったが、本展と同時期に熊本県の不知火美術館で九州派の後期メンバーである働正の展覧会「海にねむる龍──働正がのこしたもの」(2025/04/10〜06/10)が開催された。本展に関連して働正に関わるダイアグラムがウェブで公開され、九州派に関わる項目も多く知ることができる。https://hataraki-kyushu-ha.caric.jp/