
2025年で設立30周年を迎えるartscape。過去に更新されてきた記事のバックナンバーは、その大半がアーカイブされ、現在もオンラインから読むことができることは実のところあまり知られていません。このサイトに親しんできたさまざまな世代の学芸員や研究者、アーティストたちが、それぞれにとっての思い出の記事や、いまだからこそ注目したい記事を取り上げ、当時の記憶を振り返りながら綴る連載「それぞれのバックナンバー」のトップバッターを飾るのは、展覧会レビューや「遊歩録」などで長年にわたり執筆いただいている美術ジャーナリストの村田真氏です。artscapeの前身となるサイトやさらにその前の時代、インターネットというメディアの輪郭そのものが未確立だった当時の執筆事情を振り返っていただきました。(artscape編集部)
「インターネットの記事を書いてくれ」
artscapeの30周年を記念して、なにか思い出に残る記事や出来事について書けという依頼である。その前にまず、今回調べてみて改めてわかったのは、「artscape」という名称が使われるのは1998年11月からで、それ以前は「nmp(ネットワーク・ミュージアム&マガジン・プロジェクト)」と呼ばれていたことだ★1。が、ここでは面倒なのでartscapeに統一する。
そんなわけで、もう30年になるという。30年前といえば若者にとっては大昔、いや生まれる前かもしれないが、古希を迎えたぼくには割と最近の話。老人は最近のことは覚えていないし、特にartscapeに関して覚えておくほどたいそうなエピソードもなかったし。
ただ、パソコンはおろかワープロも触ったことのなかったぼくに、インターネットの記事を書いてくれと言われて途方に暮れたことは覚えている。とりあえず引き受けたものの、それまで新聞や雑誌の紙媒体に手書きの原稿を送っていたぼくには、いったいなにをどうすればいいのかもわからなかった。頼むほうも頼むほうだが、受けるほうも受けるほうだ。そんな試行錯誤の日々について書いてみたい。てか、それしか書けないだろ。
「電脳」的記述を心がける
artscapeにぼくを誘ったのは、当時水戸芸術館の学芸員でartscapeの監修を務めていた森司氏である。森氏はその少し前から、アートと社会をつなぐアウトリーチ活動を支援するNPO「ドキュメント2000プロジェクト」にも関わっていて、そこにもぼくは彼の誘いで巻き込まれていた。
だいたいぼくは、同級生にそそのかされて入社試験を受けたぴあをはじめ、「ドキュメント2000」もartscapeもBankARTもいくつかの大学の非常勤講師も、みんな友人の誘いに乗ってそのままずるずる続けてきた。自分で選んだものといえば、美大とかーちゃんくらいだろうか。そういう話じゃなくて、森氏からartscapeに誘われたとき、繰り返すがインターネットのイの字も知らず、パソコンに触ったこともなかったのだ。だから最初のころは手書きの原稿をファクスで送るという、ウェブマガジンにあるまじき行為をしばらく続けていたのである。
そういえば、ウェブマガジンといいながら当初は月1回ほど紙媒体と同じく編集会議開いていたなあ。集まったのは監修の森氏にメディアデザイン研究所の荻原富雄氏、エンジニアの春木祐美子氏、出資者のDNP(大日本印刷)担当者、そしてライターの名古屋覚氏とぼくあたりで、すでに亡くなった人もいる★2。いまならZoomで済ませるところ、当時は顔を突き合わせ議論を交わしていたのだ。
そうこうしているうちに、1997年4月から消費税が3%から5%に上がることになり、さすがにその前にパソコンを買わねばと秋葉原に駆けつけて購入。2%得したと思ったら、4月に入ったとたん売れ行きが落ちると見込んだ家電量販店が軒並み2割3割引きの大安売りを始めたのだ。なんじゃそりゃー!
しかしパソコンは買ったものの、インターネットの使い方がわからない。そもそもぼくは子供のころから電気や機械が苦手で、大人になったらアーミッシュになろうと思ったくらいだ(ウソ)。それでもキーボードには慣れてきて、ようやくワープロのように文字を打ち込むことができるようになり、それをプリントしてファクスで送っていた。自分にとっては画期的な進歩である。次に、フロッピーディスク(懐かしい)に文字を入力する技を覚えたが、これはファクスでは送れないので編集部まで届けるようになった。一歩進んで二歩下がった感じ。そんなこんなで、ようやくメールで送れるようになるまで2、3年かかった。サルでももう少し早いだろ。
こうしてパソコンに慣れてきたころ、心がけたことがある。それは、頭に浮かんだことをなるべく生のまま記述していくということだ。パソコンを使い始めて感じたのは、指で字を書くという抵抗がない分、思考が脳から直接ディスプレイにズルズルと流れ込んでいく感触だった。なるほど、これが「電脳」感覚なのかと。その特性を活かして、展覧会や作品を見て感じた第一印象を深く分析することなく、そのままストレートに出してみることにした。もともと深く考えるタチではないので、これはぼくに向いていたかもしれないが、ロクな文章にならなかったのは言うまでもない。
1990年代半ば、アートプロジェクトの時代
では、最初にぼくが書いた記事はなんだったろう? artscapeのアーカイブを調べてみたら、1996年8月6日号で「川俣 正 コールマイン九州」と「IZUMIWAKU Project 1996」の記事が載っていて、おそらくこれが初掲載だ。約1カ月後の9月3日号には「スタジオ食堂の緊急課題!」、9月10日号には「どこへ行くのか《IZUMIWAKU》」の記事もある。
しかし乏しい記憶では、その前に200〜300字程度の短い文章を何本か送った覚えがあるが、アーカイブには残っていないので試験的な原稿だったのかもしれない★3。またぼく以外の記事も同年7月以前はアーカイブにないので、artscapeにとっても最初期の記事だったのか(しかしウインドウズ95が発売され、インターネット元年と叫ばれた1995年からスタートしたとすれば、最初の1年分はどうしたんだろう?★4)。
最初のぼくの記事について少し説明すると、「IZUMIWAKU」は杉並区和泉中学校の美術教師だった村上タカシが「学校美術館構想」を掲げ、夏休みの校舎や校庭を使ってアートイベントを繰り広げたもの。1994年と96年に行なわれ、藤浩志や開発好明らが参加した。
「スタジオ食堂」は立川の工場の食堂跡を再利用した共同スタジオで、ただ作品を制作するだけでなく展覧会やワークショップも開催。メンバーに中山ダイスケ、須田悦弘、中村哲也らがいた。
「コールマイン田川」は、川俣正が九州の炭鉱の町に10年がかりで大きな鉄塔を建てようというプロジェクト。鉄塔は建たなかったが、その間に毎年シンポジウムやワークショップが行なわれ、国内や世界の炭鉱の街とのネットワークを築いたという。
振り返ってみれば、1990年代はこうしたアートプロジェクトが各地で盛んに行なわれていた時期。その前の1990年前後に昭和が終わり、バブルがはじけ、東西冷戦構造が崩れ、1995年には阪神大震災やオウム真理教事件が相次いで起き、日本も世界も大きな節目を迎えていた。そんなときアーティストはただ絵を描いているだけでなく、どのように世界に向き合い、社会と関わっていくことができるかを考え、さまざまなかたちでプロジェクトを立ち上げていたのだ。その背景には、バブル崩壊後のアートマーケットの冷え込みも影響していたかもしれない。
そんなアートプロジェクトの活動を後押ししたのが前述のドキュメント2000プロジェクトだった。ちなみに上記の「IZUMIWAKU」「スタジオ食堂」「コールマイン田川」は、いずれもドキュメント2000が支援したり議論の対象になった活動である。つまり森氏とぼくは、ドキュメント2000とartscapeの2カ所でこれらのアートプロジェクトを応援していたわけだ。うん、だんだん思い出してきた。
そして「artscape」へ……
その後の記事も見ていくと、1996年11月に「今年も青山界隈で《Morphe’96》開催」(1996年11月12日号)、「《ジャスパー・ジョーンズ回顧展》 ニューヨークを皮切りに、ケルン、東京へ」(1996年11月19日号)、「茨城県で《アーカス96》始動」(同前)が掲載されたが、その後なぜか1997年5月まで半年間ほど空いている。この半年間まったく書かなかったのか、それともアーカイブから漏れてしまったのかわからないが、いずれにせよこのころはネタがあれば書くというゆるい関係だったのかもしれない。
そして同年7月から1年あまり「村田真のアート日記」の標題で、アートに限らず日常の身辺雑記みたいなものを連載するのだが★5、これがいま読み返してみるとひどい。最初こそヴェネツィア・ビエナーレ、ドクメンタ10、ミュンスター彫刻プロジェクトを取材したレポートだが、その後いちおう展覧会のレビューの体裁をとってはいるものの、パソコンに慣れてきたせいもあって、どこでだれと飲んだとか作品を「クズ」と呼んだりとか、コンプライアンスもなにもなく実名入りで内輪ネタを書き飛ばしてるのだ。かと思ったらいきなりアゲハ蝶の飼育日誌になったり、よくこんなもんが掲載されたもんだと呆れてしまう。書くほうも書くほうだが、載せるほうも載せるほうだ。
こうして1998年11月、「nmp」は「artscape」にリニューアルされ、以後4半世紀にわたって「レビュー」を書かせてもらうことになるのだが、そのころまではぼくだけでなく編集部もまだ手探り状態だったのである。
artscape編集部による注釈
★1──artscapeのサイト開設までの沿革は下記の通り。
1993年11月:
多摩美術大学教授(当時)伊藤俊治氏をアドバイザーに「美術館メディア研究会」発足。美術館の学芸員を中心に、行政やマスコミ関係者、大学の研究者、大学院生など約30名の有志をメンバーとした。
1994年:
全国の美術館・展覧会情報を収録したCD-ROM「美術館インフォメーション」製作。
1995年2月:
「Museum Information Japan(MIJ)」を開設。インターネットを利用した美術館情報の発信を実験的に開始。
1996年7月:
インターネット上で行なう仮想的な万国博覧会として開催された「インターネット 1996 ワールドエキスポジション(IWE’96)」への出展を機に、同年7月より「ネットワーク・ミュージアム&マガジン・プロジェクト(nmp)」としてウェブマガジンの更新を開始。
1998年11月:
「MIJ」の統合を経て、「nmp」は「artscape」としてリニューアルし、更新を継続。以降、複数回に及ぶサイト改修、コーナー編成の刷新などを経て現在に至る。
★2──「ネットワーク・ミュージアム&マガジン・プロジェクト(nmp)」のスタッフ一覧
https://artscape.jp/museum/nmp/nmp_b/staff_j.html
★3──★1の沿革や書籍『美術館革命』への記載と照らし合わせると、1994年製作のCD-ROM「美術館インフォメーション」内に収録されたサブコンテンツ(特集記事など)、もしくは本プロジェクトを推進していた美術メディア研究会の紙媒体の会員誌などへの寄稿だったことが推測される。
★4──「MIJ」の開設(1995年2月)から「nmp」の更新開始(1996年7月)までの期間のオンラインにおける発信は、「MIJ」上での美術館の基礎情報が中心で、レビューなどの記事コンテンツの定期的な発信は行なわれていなかったため、現在オンラインから読むことができるアーカイブのバックナンバーも1996年7月以降となっている。
★5──「村田真のアート日記」(1997年7月24日号〜1998年10月1日号)目次一覧
https://artscape.jp/museum/nmp/artscape/archive/diary.html
参考文献
・伊藤俊治監修、美術館メディア研究会編『美術館革命』(大日本印刷株式会社ICC本部、1997)
・森司+村田真+暮沢剛巳監修、artscape編集部編『アートスケープ・クロニクル 1995-2005:アート、ネット、ミュージアム』(大日本印刷株式会社ICC本部、2005)
