2019年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート

会期:2019/08/10~2019/12/01

ポーラ美術館[神奈川県]

「モネ、セザンヌ、ピカソ──。巨匠たちと出会う現代アート」とのキャッチコピーが踊る同展は、ポーラ美術館が誇る近代美術コレクションと、現代の12組のアーティストの作品をセットで紹介する、いわば「近現代」のコラボレーションの試み。

最初のセレスト・ブルシエ・ムジュノは、モネの《睡蓮》の隣に円形の青い池をつくり、大小の白い皿を浮かべた。それだけでも睡蓮のように美しく涼しげだが、水を流動させて皿同士をぶつけることで、乾いた音を響かせている。ムジュノはもともと音楽家で、偶然性を取り入れたサウンド・インスタレーションを展開しているアーティスト。これはさわやか。渡辺豊はセザンヌ、ピカソ、藤田嗣治の作品イメージを断片化してキュビスム風に再構築していく。今回なぜか写真が多数を占めるなか、数少ない絵画であること、近代絵画に正面から向き合っていること、出品作品が50点以上とハンパないこと、それを9点の近代絵画に織り交ぜて壁いっぱいに展示していることで、本日のベスト。最後の部屋のオリヴァー・ビアは、10数点の東洋陶磁コレクションを台座の上に並べ、器にマイクを仕込んで反響音を増幅させ、音楽を生み出している。壷たちのオーケストラだ。音楽関連でマティスの《リュート》が掲げられているが、これはオマケみたいなもの。

屋外の遊歩道にも1点、スーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーションがある。森の木の幹に設置された11個のスピーカーから、ラヴェル作曲「シェヘラザード」の「魔法の笛」におけるフルートの旋律を断片化した音が流れてくる仕掛け。対する近代美術は「印象派」となっているが、これは印象派の画家たちが屋外で制作したことに因んだ選択で、実際に作品が屋外に飾られているわけではない。

こうしてみると、音を使った作品に佳作が多いことに気づく。まあ美術館や森のなかで音を出せばつい聞き惚れてしまうので、ずるい気がしないでもないが。でもほかに写真の作品が5組ほどいたけど、その多くは自作の写真を近代絵画と組み合わせただけで、展示にあまり工夫が感じられない。それに比べれば、サウンド・インスタレーションのほうがはるかにイマジネーションに富んでいた。

2019/08/09(金)(村田真)

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新鋭作家展 あ、これ、ウチのことです。

会期:2019/07/13~2019/08/25

川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]

いちおう審査に関わったので内輪ネタになります。今回8回目を迎えた公募展だが、ただ作品を見て合否を判断するのではなく、1次審査で作品プランを検討し、2次審査で面接して2人に絞る。ここまではよくあるが、同展は地域性を重視するため、1年近く学芸員と相談しつつ現地を取材したり、住人たちと交わったりしながら作品を制作し、発表してもらうという大河ドラマのような流れなのだ。

今回選ばれたのは、蓮沼昌宏と上坂直の2人。パラパラマンガを手回しで見る装置「キノーラ」で知られる蓮沼は、ギャラリーに隣接する団地に住むおもに海外からの移住者に話を聞き、それをパラパラマンガに描き起こしてキノーラで見られるようにした。テーブルと椅子が年季が入っていると思ったら、閉店した団地内のレストランから運び込んだものだという。

美大で建築を学んだ上坂は、プラスチックの衣装ケースを何十個も積み上げて3棟の高層団地に見立て、引き出しのなかにミニチュアの靴や雑貨を置いたり、磨りガラスの奥で人影を動かしたりして部屋のように仕立てている。なんとなく団地の室内をのぞき見る感じ。動く人影も団地の住人の協力を得て撮影したものだそうだ。そんなわけで2人展のタイトルは「あ、これ、ウチのことです」。願わくば、団地の人たちがもっと見に来るように。

2019/08/07(水)(村田真)

永遠の門 ゴッホの見た未来

盛り上げようと思えばいくらでもドラマチックに盛り上げられるはずのゴッホの生涯を、あくまで画家の立場から、画家自身の目で粛々と捉えた主観映画。ここでいう画家とはもちろんゴッホのことだが、監督ジュリアン・シュナーベルのことでもある。シュナーベルが80年代に新表現主義の画家として一世を風靡したことは知られているが、盟友ともいうべき早逝の画家を撮った「バスキア」をはじめ、映画監督を始めてからもつねに画家の立場、画家としての視線を忘れていない。この映画でもゴッホと自分を、表現主義の先駆者とその末裔として重ね合わせている。

ゴッホを演じるのは怪優ウィレム・デフォー。名前からするとオランダ系なので、それでゴッホ役に選ばれたのかと思ったら、ただのアメリカ人だそうだ(笑)。対するゴーガン役のオスカー・アイザックは、顔が似ているだけでなく、いかにも傲岸そうなふてぶてしさをよく出している。それにしてもゴッホより5歳上のゴーガンを、デフォーより2回りも年下の役者が演じているのに違和感を感じさせないのは、両者の名演ゆえだろう。

カメラは手持ちで画家を追い、またしばしば画家の目線で撮られるので、激しく揺れる。見にくいといえば見にくいが、それが観客をゴッホの揺れ動く不安な精神状態に導く。そして最期のシーン。ゴッホの死因はピストル自殺が定説だが、シュナーベルは悪童たちによる暴発説に従った。自殺のほうがいかにも悲劇的で「泣ける」のに、ここではあえてあっけない事故死を採用したのだ。シュナーベルがやろうとしたのは、ゴッホの生涯に感動させることではなく、ゴッホの内側に入って画家の生と死を追体験させることだった。いってみれば、観客をゴッホにする試みなのだ。だからツライ。終わった後、涙が流れて仕方なかった。

公式サイト: https://gaga.ne.jp/gogh/

2019/08/05(月)(村田真)

伊庭靖子展 まなざしのあわい

会期:2019/07/20~2019/10/09

東京都美術館ギャラリーA・B・C[東京都]

伊庭靖子の作品を知ったのは20年くらい前、ケーキやゼリーなどのスイーツの一部を拡大してスーパーリアリズム風に描いていた頃だ。手法としては珍しくないが、ストイックな仕事ぶりに好感を持っていた。その後、モチーフはクッション、皿や瓶などの器に移行したものの、手法はほとんど変わっていなかったので、画家としていちおう「完成」したんだと思い、なんとなく興味も薄れていた。今回50点を超す大がかりな個展を見て、まだ「進化」の途上にあることを知り、あらためて感心した。

出品作品は、クッションや器のシリーズなど旧作もあるが、ぼくの知らない近作・新作が半数以上を占めている。それは、モチーフこそ器だが、それをガラスケースやレース越しに見る設定だろうか、外の景色がレイヤーとして重ね描きされたものだ。これによって空間が重層化される一方、器の存在感が半減する。にもかかわらず奥行きが強調されるわけでもなく、不思議と平面性を保っている。画面自体がガラスか鏡のような半透明感を有している、といえばいいか。工芸的なまでの卓越した描画の賜物だろう。菅野由美子にしろ堀込幸枝にしろ「器」を描く女性画家は少なくないが、いずれも器そのものを描くというより、器のある空気を描こうとしているのが興味深い。

と思ったら、最後の部屋では新作の風景の版画や映像も公開していて、あれれ、どうしちゃったんだろう? 4半世紀のゆったりとした流れが、ここにきて急流に変わっていくような気配。

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2019/08/02(金)(村田真)

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あいちトリエンナーレ2019 情の時代

会期:2019/08/01~2019/10/14

愛知県芸術文化センター+四間道・円頓寺+名古屋市美術館ほか[愛知県]

おそらく日本でいちばん規模が大きく、(にもかかわらず)いちばんおもしろい国際展といえば「あいちトリエンナーレ」だろう。地方の中小規模の芸術祭ならもっと刺激的なところはあるが、大都市の美術館をメイン会場として繰り広げる「正統派」の国際展としては随一だ。同展がおもしろい理由は、予算規模が大きい(約12億円)ことのほかに、芸術監督が第1回を除き、五十嵐太郎、港千尋、そして今回の津田大介と、美術のド真ん中から少し外れた評論家やジャーナリストが務めていること、そして彼らの意図をほぼ十全に実現してきたことだ。今回の場合、それが完全に裏目に出てしまったが、そうでなくても今回がいちばん芸術監督の色が出ていたという点で特筆に値する。

マスコミは連日のように「表現の不自由展・その後」をめぐる騒動について報道しているが、これはトリエンナーレの核となる「国際現代美術展」(ほかにも「映像プログラム」「パフォーミングアーツ」「音楽プログラム」「ラーニング」と盛りだくさん)の出品作家66組のうちの1組という位置づけで、全体から見ればごく一部に過ぎない。にもかかわらず「表現の不自由展・その後」ばかりにスポットが当てられているので、ここではほかのいくつかの作品を紹介し、最後に「表現の不自由展・その後」にも触れたい(ちなみにぼくはプレス内覧会の日に日帰りで行っただけなので、豊田会場は見ていない)。


まず、今回の芸術監督の津田大介氏が設定したテーマは「情の時代」というもの。情報、感情、情けの「情」で、英語では「Taming Y/Our Passion」となっている。津田氏はプレス資料のなかで「われわれは、情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の『アート』ではなかったか」と述べているが、飼いならすどころか、情報によって感情を刺激し、制御不能の情けない結果になったと揶揄されても仕方がない。しかし彼が集めた作品は、リベラルなジャーナリストらしく、開催前から話題になったフェミニズムをはじめ、ネット社会のジレンマや難民問題など社会的メッセージ性の強いものが多く、その点では首尾一貫していた。

たとえば、巨大なスマホのようなモニターを2つ向き合わせて重ねたエキソニモの作品。画面には目をつぶった人の顔がアップで映し出され、まるでキッスしているようだ。ネット社会の人間関係を端的に表している。


エキソニモ《The Kiss》


フェデックスの箱の上に、ひびだらけのガラスの立方体を乗せたのはワリード・べシュティ。作者がつくったのではなく、国際宅配便が生み出した偶然の「ひび=造形」というわけだ。台湾の袁廣鳴(ユェン・グァンミン)は、台北市の無人の繁華街をドローンで撮影した映像を流している。人がいないのは軍事演習中のため、といわれると台湾の緊迫した現状が浮かび上がる。タニア・ブルゲラの《10150051》はなにもない部屋だが、入るとメントール系の蒸気で涙が出てくる仕掛け。タイトルの数字は当日の難民者数で、毎日数字が変わっていくという。難民に思いを馳せ、涙を流せというわけか。


Tania BRUGUERA 10150051


以上が愛知芸術文化センターでの展示で、名古屋市内ではほかに名古屋市美術館と、街なかの四間道・円頓寺にも作品が展示されている。名古屋市美術館で目立つのは、ピンク色の紙片を壁や柵に貼り出したメキシコのフェミニズム・アートの先駆者、モニカ・メイヤーのインスタレーション。観客がみずからのセクハラの被害体験を書いて貼っていく参加型の作品で、会期中どんどん増えていきそうだ。カメルーン出身のバルテルミ・トグォは、美術館の周辺にアフリカ諸国の国旗を印刷したゴミ袋を設置。アフリカが先進国のゴミ箱になっていることの批判と読める。

今回、名古屋駅寄りの四間道・円頓寺が初めて会場となった。以前は長者町あたりの寂れた繊維問屋街の廃屋を会場にしていたが、円頓寺本町商店街アーケードはたまたま七夕祭りをやっていたせいか、にぎわいのある繁華街。その商店街の空家で、弓指寛治が交通事故の犠牲になった子供の素朴な絵や、自動車の一部を積み上げたインスタレーションを公開している。彼は母が交通事故後に自死したことから、こうした作品をつくるようになったという。また、アーケードにはさまざまな飾り物が吊られていたが、アイシェ・エルクメンはこの空間に介入するため、ロープの色をピンク(珊瑚色)に指定した。そういわれれば「ああこれか」と納得するが、いわれなければ絶対にわからない。

アイシェ・エルクメンの作品は極端な例だが、ほかにも説明を聞くと「ああなるほど」と腑に落ちる作品が多い。その意味ではわかりやすいし、展覧会全体が指し示す方向性も明快だ。しかし一方で「ああなるほど」と納得したらおしまいで、記憶に刻まれるほど視覚的に強靭な作品がどれだけあったかというと、はなはだ心もとない。つまりこの展覧会は言葉が非常に重要な役割を果たしているのだ。これは言葉を扱うジャーナリストの津田氏だから当然といえば当然だが、だからこそ「表現の不自由展・その後」でも言葉を最大限に尽くさなければならなかったと思う。


「表現の不自由展・その後(以下「不自由展」)」を見たとき、これはいい企画だと素朴に思ったし、その後の展開はまったく予想できなかった。そもそもぼくは、いわゆる「少女像」がなぜこれほど反感を買うのか理解できないでいる。もちろん慰安婦問題やその後の日韓関係は人並みに知っているし、一部の日本人が「少女像」を慰安婦と同一視したり、反日のシンボルと捉えていることも知っている。だからこそ、その彫刻がどんなもんかを見てみたいと思うし、実際4年前の「不自由展」も見に行ったりもした。そしたら、隣に椅子があることと、よく知られたブロンズ色ではなく彩色されている点はおもしろいと思ったが、彫刻自体はどうってことないものだった。そんなことを確認するためにも、日韓関係がこじれたいまだからこそ、税金を使ってでも見る機会をつくるべきだと思う。

「少女像」の次に反感を買ったのが、昭和天皇の肖像を燃やす大浦信行の映像作品だ。ぼくはプレスツアーに参加していたため時間がなく、会場でこれを見ていない。後にネットで画像を見ただけだが、さすがにこれは抵抗があった。しかし、なぜ大浦がこの映像をつくったかを知る必要がある。発端は1986年に富山県立近代美術館で開かれた「富山の美術86」に、昭和天皇の肖像をコラージュした大浦の版画《遠近を抱えて》が展示されたこと。この版画は一種の自画像で、長く外国に住んでいた大浦がみずからのアイデンティティを問うたとき、天皇に触れざるを得なかったのだ。ところが会期終了後、右翼が美術館に激しく抗議。美術館は購入した版画を第三者に売却、同展カタログを焼却してしまう。つまり天皇の肖像(を使った作品を掲載したカタログ)を最初に焼いたのは美術館であり、そのように仕向けたのは右翼のほうなのだ。大浦の映像はこの焼却処分への抗議であり、彼は天皇の肖像を焼いたのではなく、(天皇の肖像を使った)自分の作品を焼いたのだ。そのような経緯を踏まえた上で是非を判断しなければならない。


「表現の不自由展・その後」《表現の不自由をめぐる年表》と検閲にまつわる資料


いずれにせよ、これらの作品をただ展示するだけではなく、企画意図の説明なり作品解説なり「言葉」を尽くす必要があったことは確かだろう(会場には解説パネルや年表はあったが、結果的に十分ではなかった)。しかし言葉を尽くせば今回のような事態は防げかというと、残念ながらそうはならない。だいたい脅迫めいた抗議を寄せる人たちの大半は作品を見ていないし(抗議は開催前日から始まっている)、企画意図を掲げたところで読まないだろうし、読んで納得するような人たちでもないからだ。表現の自由とはまったく次元の異なる話なのだ。

簡単に整理してみると、まず第1に「表現の自由」の問題がある。これは基本的人権なので、どう転んでも守らなければならない。たとえ他者を不愉快にさせるような表現であっても、犯罪にならない限り守らなければならない。賛否が分かれるのは第2段階、それを税金を使って公開することだ。ここで反対の立場の人たちから抗議が来たり、それを恐れて会場を貸さないとか金を出さないとか自主規制したり、ときに検閲が行われたりする事態になることもある。しかしこれも言論で対処するなり、場合によっては裁判に訴えるという手段もあり、まだどうにかなる。

問題は第3段階の脅迫やテロの予告だ。これはもう犯罪であり、冷静な議論など期待すべくもなく、もはや警察に頼るしかなくなる。津田氏もいちおう第3段階まで想定していたようだが(開催前日の記者会見で、さまざまな事態に備えて対策を考えている、と胸を張っていたが)、その想定すらはるかに超える組織的攻撃にさらされたということだ。もちろんいちばん悪いのは見もしない、知りもしないのにおもしろがってテロ予告する犯罪者たちだが、結果的に彼らを呼び込み、中止にいたらせた芸術監督に責任があることは言うまでもない。でもだからといって、こんな企画は最初からやるべきでなかったとは思わない。おそらく美術館学芸員や館長経験者なら避けたであろう企画だからこそ、たとえ3日間で中止を余儀なくされたとしても、たとえ悪しき前例をつくったとしても、やらないよりやってよかったと思う。

[編集部注] 文中で記述されているタニア・ブルゲラとモニカ・メイヤーの作品は、作家が「表現の不自由展・その後」の出品作家に対する連帯と展示中止に対する抗議の意を表すため、8月20日より展示室の閉鎖または展示内容が変更されました。そのほかの作品を含めて展示の現況については、公式サイトをご確認ください。

公式サイト:https://aichitriennale.jp/

2019/07/31(水)(村田真)

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