2019年12月01日号
次回12月16日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

アルフレッド・ジャー展 The Sound of Wind / 風の音

会期:2019/10/04~2019/11/02

KENJI TAKI GALLERY / TOKYO[東京都]

オペラシティに行く途中、開いてるみたいなので寄ってみた(会期はとっくに終わっている!)。アルフレッド・ジャーは昨年発表された第11回ヒロシマ賞を受賞したチリ生まれのアーティスト。今回はヒロシマ賞に因んで核をテーマにした作品が展示されている。

ギャラリーの中央に据えられたライトテーブルの上に、三つのキューブが置かれ、各面にそれぞれ「HI」「RO」「SHI」「MA」、「NA」「GA」「SA」「KI」、「FU」「KU」「SHI」「MA」の文字が刻印されている。みんな4音ずつであることにあらためて気づく。見ていたら急にライトテーブルが消えた。しばらくするとゆるやかに点灯し始める。光のエネルギーを感得させる仕掛けか。壁には三つの時計がかかり、それぞれ8時15分、11時2分、2時46分を指し示している。前2者は原爆が投下された時刻、後者は地震の発生時刻だが、よく見ると長針と短針は止まっているのに、秒針だけは動き続けている。

よく考えてつくられているなあと感心する一方、ふと「HIROSHIMA」「NAGASAKI」と「FUKUSHIMA」を同列に並べていいのだろうか、とも思う。核による甚大な被害を被った点では同じだが、前2者は戦争により人為的に投下され、何万もの人命を奪った大量殺人であるのに対し、後者は原発事故。福島の人はヒロシマ、ナガサキと同列に並べられ、モニュメンタルに作品化されてどう思うだろう? 逆に広島、ナガサキの人たちは? こういう社会問題を扱うのは難しい。

2019/11/12(火)(村田真)

試写『ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像』

名画をめぐるオークションの話はよくある。父と娘と孫の愛憎物語も珍しくない。でもその二つが絡み合う映画は見たことがなかった。時代に取り残された老画商が、オークションハウスで1点の肖像画に目を止める。サインはないが、もしかして、名のある画家の知られざる作品? そろそろ店じまいを考えていた画商は、最後に一花咲かせようと、この1点に賭ける。そのころ、音信不通だった娘から問題児の孫の世話を頼まれ、聞かん坊だが好きなことには夢中になる孫とともに、その絵の作者を調査。探し当てた作者は、ロシアの巨匠イリヤ・レーピンだった。しかし落札するにも金がない。画商は資金繰りに奔走し、とうとう孫の貯金にまで手を出してしまう。怒った娘は父と断絶……。

最後は父の死により家族のわだかまりは消え、物語としては丸く収まるのだが、なにか引っかかる。それはおそらく、老画商が芸術的価値を見抜く才能を持っているのに、それをあっさり金銭的価値に転換させてしまったことだ。もちろん画商は芸術的価値を金銭的価値に置き換えるのが商売だから、むしろそれをしないのは画商失格だが、しかしこの画商は作品がレーピンのものだと直感した瞬間から金の亡者と化してしまい、いかに金を集めるかばかりを考えてしまう。そうでなければ物語が進まないことはわかっているけれど、なんかこの主人公には共感できないなあ。

2019/11/06(水)(村田真)

改組 新 第6回 日展

会期:2019/11/01~2019/11/24

国立新美術館[東京都]

もう20年ほど日展を見続けているけど、さすがに6年前の不正審査発覚で少し空気が変わったとはいえ、相変わらずコンテンポラリーにはほど遠いアナクロ作品が並んでいる。意外なのは、前にも述べたが、洋画より日本画のほうに新しい芽生えみたいなものが感じられることだ。例えば川嶋渉の《凍》は、洋画には見られない完全抽象だし(といっても銀箔を使ってこのタイトルだからね)、寺島節朗の《想》は写真をベースに着彩した京都ガイドみたいな宣伝画だし、近松妙子や佐古奈津実や奥村絵美はポップでマンガチックな日本画を出している(3人とも女性なのは偶然ではないだろう)。

そのほかの大半は旧態依然とした日本画部門だから、彼ら彼女らの新しさが目立つのかもしれないが、それにしても洋画の百年一日のごとき陳腐さは、もはや世界文化遺産もの。半抽象はいくつかあるものの、純粋抽象は1点もない。ヌードも大木基彰の《横臥裸婦》1点のみ。ヌードは入選しないとわかっているから誰も応募しないのか。だとしたら大木の英断は称賛に値するかもしれない。明治時代じゃあるまいし。ちなみに、落書きをモチーフにした作品が日本画と洋画にそれぞれ1点ずつあった。小野美恵子の《みさきちゃん》と、藤井真之の《路上》だが、日本画の小野のほうがずっと楽しげだ。どうせならバンクシー並みのグラフィティとかシュレッダー絵画を出してくれよ。

会場には、周囲にヘコヘコしながら笑顔を振りまく宮田亮平文化庁長官の姿が。以前は気さくな藝大学長が長官になってよかったと好意的に見ていたが、いまや芸術より権力におもねるお調子者というイメージが染みついてしまった。残念なことです。

2019/11/01(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00051510.json s 10158862

ミイラ ~「永遠の命」を求めて

会期:2019/11/02~2020/02/24

国立科学博物館[東京都]

幼少のころ、母に連れられて何度か科学博物館に来たことがある。もう半世紀以上も前のことだ。動物の標本を見るのは好きだったが、ひとつだけ怖いものがあった。最後のほうに展示されていたミイラや干し首だ。初めて見た晩、怖くて眠れなかった記憶がある。以後、そこだけは極力見ないように足早に通り過ぎるのだが、恐いもの見たさでついチラ見してしまうのだった。その科学博物館で「ミイラ展」をやるというのだから、見ないわけにはいかないでしょう。もう怖くないもん。

ミイラといえば古代エジプトのものが有名だが、気候風土に関係なく世界中にあるそうだ。人間、考えることはみな同じというか、死に対する考え方は人類共通であるらしい。展示は地域別に、南北アメリカ、古代エジプト、ヨーロッパ、オセアニアと東アジアの4章に分かれている。地域によって乾燥させる方法や包んでいるものは違っても、ミイラそのものはどれも茶色く物体化しているため大して変わらない。ちょっと怖いのは日本のミイラだ。ほかの地域のミイラは数百〜数千年たっているのに、日本のは比較的新しい江戸時代のもの。特に「本草学者のミイラ」は1832年ごろ製造(?)というから、まだ200年もたっていない。髪の毛や眉毛も残っているし、肌のツヤもフレッシュ。これはちょっと……。

最後に「国立科学博物館で過去に展示されたミイラ」として、「メキシコのミイラ」および「南米ヒバロ族の干し首」というのがあった。これこれ、ぼくが昔見たのは。

2019/11/01(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00051109.json s 10158861

窓展:窓をめぐるアートと建築の旅

会期:2019/11/01~2020/02/02

東京国立近代美術館[東京都]

ルネサンス時代にアルベルティが『絵画論』で、「私は自分が描きたいと思うだけの大きさの四角のわく[方形]を引く。これを私は、描こうとするものを通して見るための開いた窓であるとみなそう」と述べて以来、窓は絵画の比喩としてしばしば用いられてきた。つまり絵画とは、外界を見通すために壁にうがたれた穴のようなものだと。このような考えから遠近法が発明され、写実絵画が発達していくわけだが、それだけでなく、アルベルティも述べているように、絵画と窓は「四角」くて「枠」があるという共通点もある。いや絵画だけでなく、そこから発展した写真も映画もテレビもコンピュータのディスプレイも、すべて四角い枠に囲われている。言い換えれば、四角い枠から人間はいまだ抜け出せずにいるのだ。目にも脳にも四角い枠などないにもかかわらず。

この展覧会は絵画、写真、映像、インスタレーションを問わず、窓に関わる作品を集めたもの。会場に入ると、いきなりバスター・キートンの映画の一部が流れている。キートンの上に建物のファサードが倒れてくるシーンだが、ちょうど2階の窓の位置に立っていたため無事だったというオチ。あまり美術とは関係ないが、窓とは壁の欠如であり、四角い空白であることがわかる。会場を進むと、ニューヨークの窓辺を撮った郷津雅夫、ショーウィンドウに飾られたヌード画を見る人々の反応を捉えたドアノー、窓を境に室内と屋外風景を描いたマティスらの写真や絵画が続く。これらは窓を撮ったり描いたりしているけど、実際には窓そのものではなく、その内外を描いていることに気づく。透明なガラスを除けば、窓は枠にすぎないのだ。

正方形を入れ子状に描いたジョセフ・アルバースや、画面に矩形を並べたマーク・ロスコらの色面抽象は、外界を見通せないものの、絵画の枠を問題にしている点で窓に近い。キャンバスの裏側を描いたリキテンスタインの《フレームIV》は、窓枠に布を張った「覆われた窓」と解釈することもできる。これらモダニズム絵画とは距離を置いたところで、林田嶺一の作品は異彩を放つ。幼少時にレストランの窓から目撃した上海事変の光景を、40年以上たってから窓枠ごと再現したものだ。作者のなかでは窓と屋外の出来事が不可分に結びついているのだろう。

立体では、フランスによくある両開きタイプのフレンチ・ウィンドウのガラス部分に黒い幕を張った、マルセル・デュシャンの有名な《フレッシュ・ウィドウ》も出ている。タイトルは「なりたての未亡人」といった意味だが、もちろんフレンチ・ウィンドウに掛けたダジャレ。この《フレッシュ・ウィドウ》と同じ型の窓の向こうにノイズを流した、久保田成子のビデオ彫刻《メタ・マルセル:窓》もある。ここから映像、パフォーマンス、インスタレーション作品も登場してくる。現在ではコンピュータの画面でも「ウィンドウ」が活躍するくらいだから、いくらIT化が進んでも四角い窓枠はなくならないどころか、ますます重宝されていくに違いない。

展示で思わずうなったのが、関西を拠点とするザ・プレイの《MADO》という作品。1980年、兵庫県立近代美術館の企画展に参加要請を受けた彼らは、展示室の大きな窓を外して展示することを提案。美術館は作品を守るため外界と遮断しなければならず、窓を外すなんてもってのほかだが、彼らは一つひとつ問題をクリアして実現させてしまった。この場合、外した窓が作品というより、窓を外す試み自体が作品なのだ。今回もそれを再現したらおもしろかったのに、幸か不幸か東京国立近代美術館の展示室には窓がなく、当時の写真や設計図などの資料展示となった。

「窓展」を知ったとき、もう40年以上も前に、MoMAで「鏡と窓」という伝説的な写真展が開かれたことを思い出した。写真を自らを写し出す鏡と、外界を客観的に見通す窓にたとえたもので、これを絵画でもやってくれないかと思っていたが、考えてみればほぼすべての絵画が鏡か窓に当てはまってしまうはず。今回は窓だけだが、それでもあれこれ入れてほしかった作家や作品がいくつも思い浮かぶ。例えば、景色を眺められるように四角い窓を開けた小屋をつくる母袋俊也とか、使用済みの窓に写真をプリントした鈴木のぞみとか。そうやってツッコミを入れながら楽しめる展覧会だった。

2019/10/31(木)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00051132.json s 10158860

文字の大きさ