2022年12月01日号
次回12月15日更新予定

artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

すべて未知の世界へ ─ GUTAI 分化と統合

会期:2022/10/22~2023/01/09

大阪中之島美術館、国立国際美術館[大阪府]

今春開館したばかりの大阪中之島美術館と、隣接する国立国際美術館の初の共同企画による両館を使った大規模な「具体」展。この2館が共同で「具体」展を開くのは、単に場所が隣接しているので便利だからというだけではない。具体美術協会の活動拠点だったグタイピナコテカが、両館にほど近い中之島3丁目にあったという縁にもよるそうだ。

しかしひとつのグループあるいは運動体の展示を2館に分けて行なうとき、どのような分け方が適切だろうか。作家別か、時代順か、作品の形式で分類するか。いずれにしろ片方しか見られなかった人にはハンパ感が残る。両館合わせてひとつの展覧会にしたいところだが、国立と公立なので管轄が違うし、料金体系も異なるため、いちおう独立した展覧会にしたいらしい。そこで選ばれたのが、タイトルにある「分化」と「統合」という分け方だ。

具体のような前衛グループは、個々のオリジナリティを重視する(分化)一方で、運動体としてひとつの方向性を示さなければならない(統合)という矛盾を抱えてしまう。その2つの方向性をそれぞれのテーマとして展覧会を構成したのだ。つまり1本ずつ別のテーマをもちながら、2本見ればより大きな全体像が把握できるというわけ。なるほどこれなら片方しか見られなくても、ある程度の満足感は得られるだろう。だが実際に見てみると、最初から強烈な作品が目白押しで、「分化」と「統合」のテーマなんぞ吹っ飛んでしまい、2館目はもはやダメ押し状態、同じ作家がまた出てきたとうんざりしてしまった。やはり共同企画、共同開催は難しい。

個々の作品は置いといて、展覧会全体としてもう一つ難しさを感じたのは、展示作品が前衛的であればあるほど、数十年後にそれを回顧するときには古臭く、またおとなしく感じられてしまいがちなこと。それは前衛作品が新しさや未視感を売りにしていただけに、その時代を通り過ぎてしまえば必要以上に色褪せて見えてしまうからだ。その点、同時代の美術動向などに左右されないで制作された作品ほど色褪せず、普遍性を感じさせる。たとえば、多数の円を線で結んだ田中敦子の絵画のように。

また、作品そのものとは別に展示の問題もある。具体は1962年にグタイピナコテカが開館するまでは主に画廊やホール、公園などで発表していたが、記録写真を見ると作品の密度がずいぶん濃い(作品自体の密度ではなく、単位面積あたりの作品密度)。おそらく作品同士の発する摩擦熱も高かったはず。それが美術館の広大な白い壁に「芸術」として余裕を持って再展示されると、牙を抜かれた猛獣とはいわないまでも、コップのなかの嵐程度には冷めて見えるのだ。これは作品のせいではなく、美術館という制度が本来的に抱える矛盾だろう。


公式サイト(大阪中之島美術館):https://nakka-art.jp/exhibition-post/gutai-2022/
公式サイト(国立国際美術館):https://www.nmao.go.jp/events/event/gutai_2022_nakanoshima/

2022/11/02(水)(村田真)

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よみがえる川崎美術館─川崎正蔵が守り伝えた美への招待─

会期:2022/10/15(土)~2022/12/04(日)

神戸市立博物館[兵庫県]

よみがえる「川崎美術館」? そんな美術館、聞いたことないなあ。出品作品も日本の古美術ばかりで食指が動かない。なのにわざわざ神戸まで見に行ったのは、「ようこそ 日本初の私立美術館へ」とのキャッチコピーに惹かれたからだ。あれ? 日本初の私立美術館は1917年に設立された大倉集古館じゃなかったっけ。その前身である大倉美術館は、実業家の大倉喜八郎が収集した日本の古美術品を公開するため1902年に開館、その15年後に財団化して大倉集古館となった。ところがこの川崎美術館は1890年開館というから、大倉に10年以上も先駆けているではないか。なぜ川崎美術館は消えたのか? そもそもだれが、どんな経緯で設立したのか? なんで川崎なのに神戸でやるんだ? いったい川崎美術館とはなにものか?

川崎美術館とは、神戸に造船所を創業した川崎正蔵が、古美術コレクションを公開するため設立したもの。川崎は、明治維新期に廃仏毀釈で日本の伝統文化が粗末に扱われていたことを憂い、古美術が海外流出するのを防ぐために収集を開始。こうして集めた千数百点に及ぶコレクションを多くの人に見てもらおうと、1890年に現在のJR新神戸駅近くの自邸の一部を美術館として公開したという。

ここまでで興味深いことが2つある。ひとつは、川崎正蔵と大倉喜八郎の共通性だ。どちらも同じ1837年生まれ、明治初期に実業界で財をなし、古美術の海外流出に抗うためにコレクションを始めたというのも同じ。つまり彼らは成金の骨董趣味で集めたのではなく、日本の伝統文化を守るために美術品を収集し、社会的義務としてそれらを公開したのだ。これが明治時代の実業家のパトロネージというものだろう。

もう一つ興味深いのは、川崎の後を継いで同造船所の社長となったのが松方幸次郎であることだ。松方はいうまでもなく西洋美術の一大コレクションを成し、国立西洋美術館の基礎を築いた人物。川崎のパトロン精神がどう松方に受け継がれたのかも知りたいところだ。ちなみに、川崎が弱冠31歳の松方を社長に抜擢したのは、アメリカ帰りの有能な若者だったこともさることながら、同郷の松方の父正義が政治家として川崎の事業を手助けし、また川崎が幸次郎の留学の費用を援助するという持ちつ持たれつの関係があったかららしい。その正義も古美術のコレクターとして知られ、川崎に収集の手ほどきを受けたのではないかといわれている。

本筋に戻そう。川崎美術館は昭和初期の金融恐慌により事業が傾いたため、1928年からコレクションの売り立てを余儀なくされ、40年足らずの活動を終える。追い打ちをかけるように1938年の阪神大水害で美術館の建物は被災し、1945年の神戸大空襲により一部を残して焼失したという。踏んだり蹴ったりだが、美術品は売り立てにより各地の美術館やコレクターに引き継がれていたため難を逃れたというから、不幸中の幸いといわねばならない。

こうして川崎美術館の存在は忘れられ、「日本初の私立美術館」の称号も大倉集古館に譲られていく。だがそれは美術館が消滅したからというより、もともと「美術館」の名に値する存在であったのかという疑問がある。日本でいちばん早く開館したといっても、公開されるのは年に1回あるかないかで、期間も数日間だけ、しかも縦覧券(招待券)を持つ人たちしか入れなかった。19世紀まではそれで美術館として通用したかもしれないが、現在の基準に照らし合わせれば美術館の条件を満たしていない。これがもし大倉集古館のように財団化されていたら、基本的に常時だれでも見ることができただろうし、また不況にあっても散逸は避けられていたかもしれない。そういう意味では、美術館と称するのが早すぎた。

そんなわけで、川崎美術館について紹介される第一章「実業家・川崎正蔵と神戸」、および第三章「よみがえる川崎美術館」は興味深く見ることができたが、それ以外は川崎が収集し、散逸したコレクションを日本中からかき集めた古美術ばかりなので、ほとんど素通りしてしまった。いやもちろん、狩野孝信の《牧馬図屏風》をはじめとする華麗な金地屏風や、国宝の伝銭舜挙筆《官女図(伝桓野王図)》、今回約100年ぶりに再現された円山応挙の障壁画など逸品ぞろいだが、どうにも関心が向かない。

そんななかで「おっ!」と足を止めた作品が2点あった。1点は、奇石ばかりを墨で描いた円山応挙の《石譜図巻》。樹木のようにも山のようにも見える奇石を5メートル余りにわたって描き連ねたこの絵巻、静物画としても風景画としても、なんなら抽象画でもシュルレアリスムでも通用しそうなほど正体不明の魅力がある。現在は個人蔵なので見られる機会は少ないはず。もう1点は、最後に展示されていた伝顔輝による《寒山拾得図》。川崎が自分の命の次に大切なものとして愛蔵した作品というだけあって、さすがにすごい。あえていえば、正統派の「奇想の系譜」だ。岸田劉生がこれに着想を得て「麗子像」のひとつを描いたというのもうなずける。


公式サイト:https://kawasaki-m2022.jp

2022/11/02(水)(村田真)

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杉本博司 本歌取り─日本文化の伝承と飛翔


会期:2022/09/17~2022/11/06

姫路市立美術館[兵庫県]

人間の創造したものに100パーセントのオリジナルはありえない。いかなる芸術家といえども多かれ少なかれ過去の創作物から影響、参照、引用、パクリ、レディメイドを行なってきた。これを杉本博司は和歌の伝統技法に倣って「本歌取り」と呼ぶ。同展は、杉本が自作のなかから「本歌取り」を選び、可能な限り本歌の古美術とともに展示するもの。杉本に倣えば「現代古美術」展というわけだ。

長大な展示室でまず目に飛び込んできたのは、杉本の《狩野永徳筆 安土城図屏風 想像屏風風姫路城図》(2022)。夜明け前の薄明の姫路城を撮った幅9メートル近いパノラマ写真で、八曲一隻に仕立てられている。これの本歌はタイトルにもあるように狩野永徳の《安土城図屏風》なのだが、オリジナルは天正少年使節によってイタリアに運ばれ、ローマ教皇に献上された後に行方不明となっているそうだ。その先の《松林図屏風》もデカイ。松林を無限遠の2倍で撮ったモノクローム写真を、6メートル強に拡大プリントして六曲一双に仕立てたもの(展示は左隻のみ)。この松林、松島や三保の松原、天橋立など各地を検分した末、皇居前の松にたどり着いたという。本歌の長谷川等伯のオリジナルは東博の「創立150年記念 国宝 東京国立博物館のすべて」にて公開中。

《廃仏希釈》と題された3体の奇妙な仏像は、蔵出しの彫刻の断片を杉本が譲り受けてつなぎ合わせ、足りない部分を月の石や恐竜の糞の化石や電球などで補修したもの。もともとは明治時代に廃棄された四天王像であり、復元する際に足りない部分をガラクタで補ったため《廃仏希釈》となった。その横には本歌として、文化庁から借りてきた四天王像が飾られている。

杉本の代表的な写真作品も出ている。たとえば「海景」シリーズの1点《英仏海峡、エトルタ》。その本歌として選ばれたのは、同じ海岸を描いた姫路市立美術館所蔵のクールベの《海》だ。フィルム上に人工的に雷を落として制作した杉本の「放電場」シリーズもある。これを六曲一双の屏風に仕立てた《放電場図屏風》(2022)。このシリーズを大胆にも襖絵に採用した建仁寺には、俵屋宗達の《風神雷神図屏風》が伝えられたという縁がある。この「放電場」の本歌として杉本が選んだのが、自身のコレクションの1点、鎌倉時代の《雷神像》だ。

同展にはマルセル・デュシャンがあちこちに影を落としているが、その核心ともいうべき《泉》に触れた作品もある。ヴェネツィア・ムラーノ島のガラス工房につくらせた《硝子茶碗 銘「泉」》(2014)だ。横倒しの便器を模した茶碗で、これで「茶のめ」てか。その作者名は村野藤六といい、杉本の敬愛する建築家からの本歌取りだ。その本歌である《泉》のオリジナルはとっくに失われているので、杉本がMoMAにあるレプリカを無限大の倍の焦点距離で撮ったピンボケ写真《Past Presence 068 泉、マルセル・デュシャン》(2014)を並置している。

笑えるのは書。杉本が揮毫し、掛け軸に仕立てた《無答故無問》と《常有他人死》の書の前には、「塩小賣所」と書かれたレディメイドの鉄板が置かれている。デュシャンピアンならわかるはず。《着服》(2022)と書かれた書には、愛用したピンクの上着を表装裂として使用。ポケットがたくさんついているのは、「着服にはポケットは多いほど良い」(杉本)からだ。《御陀仏》と《御釈迦》はいかにもな書だが、声に出して読んでみると笑ってしまう。その前には、古戦場から発掘されたとおぼしき兜が置かれている。なかから生えている夏草は須田悦弘の作品。極めつけは、「タンタン麺 九百円」「野菜炒め ハ百円」など、行きつけの町中華のためにしたためた《天山飯店 品書》。中国の守護神たちをあしらった明の時代の刺繍を表装裂に用いたという。そこまでするか。

同展は姫路だけの開催なので行くかどうか迷ったが、京都、大阪、神戸との合わせ技でなんとか訪れた。いやー、予想を超えておもしろかった。ただ時間が足りず、「圓教寺×杉本博司」をやっている書冩山圓教寺まで足を伸ばせなかったのが残念。



杉本博司《三字の名号  御陀仏》(左)、《三字の名号  御釈迦》、《阿古陀形兜》と須田悦弘《夏草》(手前)[筆者撮影]


2022/11/02(水)(村田真)

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アンディ・ウォーホル・キョウト


会期:2022/09/17~2023/02/12

京都市京セラ美術館[京都府]

出品作品200余点うち100点以上が日本初公開、半年に及ぶ超ロングラン、そして京都だけの単独開催という異例の展覧会。とりわけタイトルに表われているように、ウォーホルと京都とのつながりを強調しているのが最大の売りだ。

会場に入ると、初期の商業デザイナー時代のイラストに続き、1956年に世界一周旅行で訪れた日本でのスケッチや写真、絵葉書、パンフレットなどが公開されている。まだポップアーティストとして名をなす前に、ボーイフレンドとともに行った私的旅行で、約2カ月に及ぶ日程のうち2週間を日本に費やし、東京、日光、京都、奈良、熱海、鎌倉などに遊んだ。なかでも京都観光に刺激を受けた、というのは展覧会主催者の我田引水ではなく、当時の西洋人としてはごく普通の反応かもしれない。ウォーホルは訪問先でスケッチしまくっていたらしく、特に京都で描いた舞妓や僧侶、清水寺など余白の大きな線描は魅力的だ。

このときの日本旅行、京都体験がその後のウォーホル作品にどのような影響を与えたのだろう。たとえば、デザイナー時代に見られる金箔の使用や、ポップアート時代に顕著な同じモチーフの繰り返しは、京都で見た三十三間堂にある千体の観音像に感化されたものではないかとの指摘がある。また、1960年代のウォーホルの代表作のひとつ「花」シリーズは、日本の押し花や生花にヒントを得たものだといわれている。いささか割り引いて聞かなければならないが、限定的ながらも影響を受けたことは事実だろう。ウォーホルは1974年の2度目の来日時に、「日本風になろうと努力している」「日本的なものはなんでも好きだ」などと語っているが、これは彼特有のリップサービス。本当のところはわからない(ただ日本料理が好きだったことは間違いないらしい)。

展示は《マリリン》《キャンベル・スープ》《毛沢東》などおなじみのシリーズもあるが、ときおり顔を出す坂本龍一のポートレートや岸田今日子と仲谷昇を映した映像により、日本とのつながりに引き戻される。そして《電気椅子》《頭蓋骨》《最後の晩餐》など死を予感させる作品が続き、さてこの次はどんな展開になるのかと期待したら、もう出口だった。あれ? もう終わり? なんか尻切れとんぼだな。考えてみれば「死」のテーマで終わるのはごく真っ当な構成のはずだが、なんか物足りない気がする。マリリンやエルヴィスの顔が繰り返される華やかな巨大作品が少なく、見慣れない作品や資料が多かったせいだろうか。でもこのあっけない幕切れがウォーホルらしくもあるけれど。


公式サイト: https://www.andywarholkyoto.jp/

2022/11/01(火)(村田真)

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日本の中のマネ ─出会い、120年のイメージ─

会期:2022/09/04~2022/11/03

練馬区立美術館[東京都]

「マネ展」ではなく、「日本の中のマネ」展。サブタイトルの「出会い、120年のイメージ」が語るように、いかに日本人がマネと出会い、血肉化し、変容させ、再解釈していったかが問われている。だからマネ自身の作品は少なく、油彩画は6点のみ。しかも国内から集めたものばかりなので小品が多く(そもそも日本にあるマネは版画を除けば20点足らず)、《草上の昼食》も《オランピア》も《笛を吹く少年》も《フォリー・ベルジェールのバー》も来ていない。ま、だれも期待してないけど。

展示はまずクールベの風景画に始まり、モネ、ドガ、セザンヌら印象派が紹介され、マネの油彩画や版画が続く。そもそもマネは日本では「印象派の親分」みたいに思われているが、印象派に多大な影響を与えたのは間違いないけれど、本人は印象派に括られることを拒んでいたし、クールベの敷いたレアリスムの延長線上に位置していた。この導入部はそのことを示している。そして、この美術史上の位置づけの曖昧さがマネの理解を難しくし、日本での受容を遅らせたようだ。しかし、マネは単にレアリスムから印象派への橋渡し役を果たしたというだけの画家ではなく、むしろそれ以上に、19世紀後半という美術史上もっとも重要な端境期に絵画の自律性を模索し、モダンアートの道を開いた画家だった。「近代絵画の父」といわれるゆえんである。

日本での受容は、1892年に森鴎外がエミール・ゾラについて述べるなかでマネの名を出したのが初出とされるが、影響を受けた作品では、石井柏亭による《草上の小憩》(1904)が最初らしい。これはタイトルからもわかるように、《草上の昼食》にヒントを得たもので、男女が草上でくつろぐ構成はマネ風だが、色彩やタッチは明らかに印象派の影響が色濃い。それ以前から日本では印象派に感化された作品が出回っていたことを考えれば、この印象派風のマネは遅きに失した感がないでもない。

その後に続く安井曾太郎の《水浴裸婦》(1914)《樹蔭》(1919)、斎藤与里の《朝》(1915)《春》(1918)などは、いずれも渡仏経験がある画家だけに《草上の昼食》からの影響が指摘できるし、熊岡美彦の《裸体》(1928)や片岡銀蔵の《融和》(1934)などの「横たわる裸婦像」は、《オランピア》との類似が明らかだ。しかし影響といっても、これらはモチーフや構図など表面的に似通っているにすぎない。ただ片岡の《融和》は、白人の女主人が東洋系の白い肌の裸婦に、黒人のメイドが南洋系の褐色の女性に置き換えられており、当時の大日本帝国の植民地主義的な優越意識が透けて見えることを記憶しておきたい。

戦前の最後の作品は小磯良平の《斉唱》(1941)。この作品とマネとの共通性は一見わかりにくいが、人物の織りなす垂直・水平方向の画面構成、および黒を中心とする色彩は、ワシントンの《オペラ座の仮面舞踏会》を想起させずにおかない。実際に小磯がこの作品に感化されたかどうかは別にして、ここにきて初めてモチーフや構図などの外見的な模倣ではなく、マネの目指した自律的な絵画空間に学ぶ画家が現われたといえるのではないか。いわばようやくマネの真似から脱したと(笑)。

戦後半世紀近い時間を飛ばして、最後は森村泰昌と福田美蘭の展示となる。森村は日本人が西洋名画を模倣するというコンプレックス丸出しの自虐的セルフポートレートで知られるが、それゆえに目を背けてはならない作家だ。出品は1988-1989年の旧作が大半を占めるが、《笛を吹く少年》《オランピア》《フォリー・ベルジェールのバー》をモチーフにした作品は、人種やジェンダーや階級の差が時と場所を超えて存在することを、グロテスクに暴いてみせる。戦前の片岡の楽天的な「融和」とは真逆といっていい。

福田はもっと過激かもしれない。《草上の昼食》の右側の人物から見た風景を描いた《帽子を被った男性から見た草上の二人》(1992)や、その図版が掲載された新聞の切り抜きを版画に見立てた《日経新聞1998年5月3日》、《テュイルリー公園の音楽会》(1862)の雑踏を渋谷スクランブル交差点の風景に置き換えた同題の作品は、例によって福田特有の遊び心が満載だ。でも、マネのレアリスム精神を現代に持ち込んだゼレンスキー大統領の肖像画は、こじつけにもほどがあるといいたい。

それより狂喜したのは《LEGO Flower Bouquet》(2022)という作品。絵の内容に惹かれたのではない。第一ぼくは見ていないのだから。この作品、展覧会が始まって1カ月余りは展示されていたが、10月半ばに「日展」に応募したため、ぼくが訪れたときには絵のコピーと解説が貼ってあるだけ。その後めでたく落選したため、10月31日から再展示されたという。なぜこれに喜んだのかといえば、マネの絵の真似をしたのではなく、サロンに挑戦し続けた(そして何度も落選した)マネの行動に倣ったからだ。また、入選すれば名誉(か?)なだけでなく、「日本の中のマネ」展を「日展」のなかに寄生させることができるし、選ばれなくてもすごすご再展示し「ひとり落選展」として笑いを取ることもできる。どちらに転んでもおいしいのだ。後日「日展」を訪れた。福田が落選なら、洋画部門の9割方は落選するだろう。


公式サイト:https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202204141649901997

2022/10/27(木)(村田真)

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