[撮影:内田颯太]

会期:2026/03/17〜2026/03/18、2026/03/24〜2026/03/25
会場:
(17、18日)FSXホール(くにたち市民芸術小ホール)スタジオ[東京都]
(24、25日)入間市文化創造アトリエ AMIGO! スタジオ[埼玉県]
公式サイト:https://linktr.ee/itoguchi2026

バイオリンの内側の写真を見たことがある。キャプションには、まるで建築物の内部のような……といったことが書き添えられていた。魂柱がゆるやかにカーブした天井を支え、湾曲した壁をf字孔から差し込む光が照らす。この内側で共鳴した音が、ホールの空間に響くのだ。遠目には小さな物体に見える弦楽器は、その内に広がる空間を反転させて響き渡る。

管楽器も、筒状の空間を裏返し、声楽もまた、ピアノも……。音は、こうして音源の空間を裏返して広がっていく。音に包まれるとは、音源の内側へと引き込まれていくことだ。

そして、音を発さずとも、ダンスもまたそのように身体の内外をめくるものであった。

ダンサー・振付家の木村玲奈はソロ作品『糸口』にこのようなテキストを添えている。

自分のために踊り 内へ内へと進んでいく様を公にします
社会で位置取ることより 社会をつくって生きたい
だって私たちには既にからだという庭があるから
内へと進む庭は あなたとの共有地です

16角形の円筒形の空間の中央で踊る木村玲奈の身体は外からしか眺めようがないが、同時に私たち鑑賞者はその内へと呑まれていった。

アミーゴのスタジオ内部。壁に沿って観客席が並べられている[撮影:内田颯太]

このように宣言することが今日困難であることは想像に難くないだろう。それってあなたの感想ですよねと言われたり、“社会的な”言及の有無が作品の評価に直結しもする。だが、筆者が建築を学んでいた頃、「建築物は建つだけで自ずと公のものになるのだから、“社会的な”ことを言う以前に、例えばどんな窓にするのか考えることからもう社会との関わりは始まっている」と教員に言われたことを思い出す。

私の内を見せようとすることは、すでに公の入口である。私たちは身体からしか見ることができない。心の内はわからない。だが、この身体を通して、私はあなたを見ようとする(もちろん、ここでいう見るとは視覚に限らない観察と受け止めのことである)。だから、それを介して何が起きているのかが重要である。○○とは何か、といったジャンルの定義を問うことに興味はないが、〇〇とは何か、をメディウムの定義にまつわる問いにする意味はあるだろう。いったい、ダンスとは何か?

木村の実践から考えてみよう。

本作で、木村はハンドアウトの中面に作品の振付書を全掲載している★1。ハンドアウトとともに渡される挨拶の手紙には、振付書は事前に読んでも読まなくても……と添えられている。ダンスを見ながら途中から読み始める人も少なくなかった。

確かに、書かれた内容の多くは動作を直接的に描写、つまり演者に指示しており、読めばどの内容をいま行なっているのかを照らし合わせることができる。特に、後半に20のバリエーションが順々に示される「ポーズ」は、文章ではなく、名詞が箇条書きになっているため、木村のゆっくりとした動作の先に何が待ち受けているかをはっきりと先取りすることすら可能だ。事実、木村の動作はポーズの完成に向けて明らかに動いており、都度静止する。

発話を伴わないのが基本となるダンスにおいては、むしろステートメントやインタビューの言葉が作品のテキストとして強く作用してしまうことが多々ある。それも作品の一部と言ってもよいが、上演がそのテキストとの答え合わせに終始してしまうことは多々ある。これら振付書を読むことは木村のムーブメントを振付と照らし合わせる確認作業に過ぎないのだろうか? そうではないだろう。多くの振付は即物的であると同時に、その即物性を確かめながら動作することを求めるものばかりだ。

例えばこのようにある。

片膝を抱えて背骨をひとつひとつ床へ下ろし/今の状況を確かめる

これらは動作してから振り返るのではなく、同時に感知することが目指されている。いま私の背骨が床へ下りている、と思いながら一つひとつの関節を動かしていく。勢い、木村のムーブメントはゆっくりとしたものになる。必要とされるこの遅さや長さは、木村の代表作である『6steps | 6段の階段+振付書+演出から生まれるダンス』にも顕著な質だ。そこでは『糸口』以上にシンプルな指示がある。その内容は上り下りなど、日常動作との違いはないように読める。そのために、動作を確かめながら動作することは緩慢な動きとなって現われる。この遅さ/速さは、6段の階段を振付とした木村自身の選択の結果でもある。階段の1段1段は細長い。ある方向には長くてももうひとつの方向には狭い。ダンスと聞いて想像されるような縦横無尽で連続的な動作を試みても、その動作は即座に前後左右いずれかにある段差によって阻まれる。動作はおのずと分割される。では動きのどの時点で分割はなされるべきか、その判断をこまやかにしようとすればするほど、各動作は緩やかで遅いものに変わっていく。

6stepsではそれが階段によって引き起こされているように見えるが、本作によってはっきりとわかるのは、この速さは木村のものであり、木村によるダンスであるということだ。

印象的な手足をついた歩行。後ろ向きと前向きと、進行方向を変えて作品の前半後半に現われる振付[撮影:内田颯太]

私たち鑑賞者は、段々と床につけられていく背骨を見る。横になりゆっくりと呼吸する木村の胴のわずかな上下を見る。それは動作の遂行であると同時に、その動作の想像でもある。木村もまた、私たちと同様に自身の身体を思っている。私は木村ではないが、振付を一部、同様に遂行してもいる。この点において、私たちは同じものを見ようとしている。木村の身体を外から眺めていたはずが、気づけばその体内で起きていること、そのことへの思い巡らしが私にも起きている。前半の振付が逆転したり繰り返される後半によって、このことははっきり自覚されるようになる。

簡素ながら効果的な照明のコントロールや、天窓のスリットの開閉、音響効果は、木村の演出によるものだが、それを自分の外で起きていることのひとつとして捉えようとする以上、鑑賞者と木村は同じことを試みている。内へ内へと進む、と言いながら、それはけっして内向的なものではない。むしろ、木村は他者を迎えに行く準備をしている。

これはどんなダンス作品においても起きていそうで、起きていないことだった。木村自身が思い巡らせるのに必要な速さが、私たちをその庭へ引き込むのだ。多様な他者へひらかれた態度を謳う作品でこそ、その身振りや身体に鑑賞者が関わる余地が残されていないことは多々ある。ただ眺めるしかないダンスと、木村のダンスの決定的な違いがここにある★2

ダンスとはどのようなメディウムか?

そこにいる人の身体を通じて、そこに集まった人々がそれぞれの身体について想像するための機会、だと私は思う。

社会はつくれる。集まり方を問うことがすでに社会的なのだ。その問いを持たずに行なわれる上演は、鑑賞者の実感に作用することなくただ眺められるだけだ。だから、木村のようにつくる人がいて、集まって見る人がいることに希望がある。これが閉じられた部屋の中でしか起こせないという限界は、むしろそこからしか始まらないというひとつの果てを示してもいる。

天窓越しに響いた軍用機の轟音、館内のスタンプラリーに興じる子どもの声、手すりに取り付けられた伝声管、別室から聞こえる合唱の声、ピアノの音。スタジオアミーゴで踊るということもまた、木村の重要な賭けだった。

アミーゴのスタジオ外観。元紡績工場のリノベーションであり、入間市の市民施設として2002年より利用されている[筆者撮影]


★1──『糸口』は木村が運営する同名のスペースとも密接に関わっており、その制作プロセスや振付はさまざまな媒体や方法を用いて公開されてきた。公式サイトの各URLを参照いただきたい。
★2──異なる狙いも含んだ実践だが、武本拓也のパフォーマンスもその遅さ/速さを特徴とする。武本のパフォーマンスの場合は、初期の作品ではゆっくりと動く武本の身体を外から眺めることが鑑賞の中心であったのに対し、近年は武本の外部への眺め方や応え方それ自体をゆっくりとした身振り越しに伴走するような鑑賞のあり方に変わってきた。そこに人がいること、その人を見ることの間にはたらく関係性や力の検討は、木村にも共通した意識だと思われる。


鑑賞日:2026/03/24(火)


関連記事

神村企画《STREET MUTTERS #2》|山﨑健太:artscapeレビュー(2021年09月15日号)
武本拓也ソロ公演『象を撫でる』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)