開催日:2024/12/21
会場:森下スタジオ[東京都]
主催:武本拓也
登壇者:武本拓也、呉宮百合香
公式サイト:https://takuyatakemoto.com/debriefing

200枚を超えるスライドで2時間半かけて語られた武本拓也のこの2年半の取り組みは、「写真全然撮らないんですよね」と本人がしきりに言うとおり、白い画面にレイアウトされた文字と、彼の淡々とした語りによって示された。時系列順に起きたことやしたことを語るという構成が、途中休憩を挟むが、けっして短くはない時間をかけて続く。この報告会は、パフォーマンスアーティストの武本拓也が、自身初めてとなる海外ツアー公演について、その始まりからひと区切りまでを語ったものだ。

[筆者撮影]

会の進行はツアーに至るまでを語る第一部、ツアーの様子を共有する第二部、質疑応答の第三部、そして懇親会となる。

第一部では、城崎国際アートセンター(KIAC)に滞在制作していた際に海外アーティストとの交流を経て、国外での発表に関心が生まれたことから話は始まる。豊岡演劇祭2022フリンジでの発表は日本のコンテンポラリーなパフォーミングアーツを研究するBeri Juraicによる英語でのレビュー★1を生み、また海外の劇場関係者との出会いを呼んだ。以降、主にYPAM(横浜国際舞台芸術ミーティング)で行なったプレゼンや、「メンバー集め/クリエーション/予算確保/広報」の試行錯誤が語られた。例えばCVを冊子にしたが受け取ってもらえず翌年はQRコードつきの名刺にした★2、といったような詳細は、武本の振り返りとフィードバックが丁寧に説明されることで、彼の行なう上演と同じくらい重要なこととして伝わってくる。同様に、ソロのパフォーマンスで知られる武本のチームメンバーの組み方も興味深い。ツアーマネージャーとして呉宮百合香、照明の小駒豪、リハーサルディレクターの山口静が集まり、日々の上演を国外への移動と発表につないでいく努力が垣間見える。

第二部では、ツアーの様子が時系列に説明される。作品そのものよりは、第一部から引き続き、発表や滞在のタイムテーブル、現地での準備といった作品の外側(とされるもの)が中心の説明だ。ワークショップ→パフォーマンスの順に実施されることがあれば、パフォーマンス→ワークショップの順のこともある。呉宮による、戦後日本のパフォーマンスシーンについてのレクチャーがあったり、武本が自身の少年期の経験と上演を結ぶ私的なプレゼンもあった。それぞれの場所での振り返りと反省の箇条書きが第二部では繰り返されることで、それぞれの招聘形式や母体の違いなど、さまざまな差異がよく伝わってくる報告だった。

武本は自身の今回の招聘について、「僕がひとりだから呼びやすいのはあると思う。複数人だと、渡航費や滞在費などもかさんでいく」とも語っている。ソロであることは招聘側にとっての実際的なメリットがあるのは間違いない。一方で、これは書き添えるまでもないことなのだが、プロダクションコストが抑えられるというだけで彼が呼ばれたわけではない。

今回の4箇所での発表うち、武本のみならず、日本のパフォーミングアーツ/パフォーマンスアートにとって、特に重要な示唆を与えてくれたのは、Beri Juraicによるランカスターへの招聘だろう。武本のパフォーマンスは、ラウンドテーブルの参加者によって「Politics of slowness(遅さの政治性)」★3と評されたそうだ。“内容”が政治的であるか否かが、作品ないしは作家を政治的であるかの評価と直結させてしまう今日のアートシーン、ひいては社会であるからこそ、彼のパフォーマンスにPoliticsという言葉が充てられたことは重要な意味をもつ。というのも、武本のパフォーマンスは、いわゆる物語のような“内容”をもたないからだ。彼は「上演を行なう」と言うが、上演とは本来“形式”のことで、そこには(言葉を用いないにしても)語られる“内容”がある。対して、私たちが目にしていることのひとつは彼の「遅さ」なのだ。あの息の詰まる緊張と一方で弛緩しているようにも感じる、矛盾に満ちた時間と空間は、武本がある場所に居ることでしか立ち上がらない。「なぜ僕はここにいるんだろう、とたびたび思っていました」と武本はツアーにおける逡巡を語ったが、この言葉はそのまま鑑賞者に向けて放たれるものでもある。そのような人を目の前にして、共に居ることが、彼の上演においては起きている。人の集まりや居方について強い思索を促す点で、彼のパフォーマンスは十分に政治的だ。このようなパフォーマンスの次元にも政治性は存在するし、その点が評価され、海外での発表機会を得たことは喜ばしい。欧米圏では、政治的な“内容”を語っているか否かが助成申請にも作品評価にも大きく影響しており、肝心の作品構造や演出に政治的問題が残存することが多々あるからだ。具体的なイシューだけでなく、上演以外の時間が大半を占めるこのツアーの移動と滞在、そのなかにあった困惑や反省は、何よりも彼の実践の意義を示している。

今回、作品についてほとんど語らなかった武本だが、上演の映像をごく短く流す場面が何度かあった。映像のシークバーをずらしてもほとんど位置と姿勢の変わらない自身の姿を「全然動いてないですね……」と言う様子は(作品を観たことのある人が多数だったろうからこそ)会場の笑いを誘うものであったが、はたして私たち来場者は笑っているだけでよかったのだろうか。

この報告会は、武本のふだんの上演に比して、私たちに負荷をかけないものだった。報告会はよく準備されていて、(誰しもが真似できるものではないが)ひとつずつステップを踏みながら実現したツアーの様子がスムーズに語られ、それを聞くことは気持ちよかったとすら言ってもいい。会には飲み物や軽食も用意されており、武本は私たちをもてなし続けた。こうしたムードも手伝って、「今後若手・中堅のアーティストが国外へ活動を広げていく上での情報共有にもなれば幸いです。」という会の誘い文句の通りに、大事な情報共有をしてもらったと私は感じたし、参加者の満足感も高かったはずだ。

だがこの日の報告会の内容は、アーティストを超人・孤高・天才etc.として自身の対岸に置くことにもつながってしまったのではないだろうか。(呉宮をはじめ協力者はいるものの)ひとりでさまざまな進行を行ない、かつ素晴らしい精度の上演を行なう武本は、かつてのそれとは異なるものの“優れたアーティスト”と呼ばれるだろう。だから、パフォーマンスの上演と今回のような報告会を一緒に考える必要はないのだとしても、この日の私たち参加者は一方的に聞くだけの人に甘んじてしまったと感じる。

武本の上演では現われえない「お客様」のようなものを感じたのは、質疑応答のときだった。私が思うに、質問の多くは武本拓也に向けられたものというより、(武本でなくても構わない)海外ツアーを実践したひとりのアーティストへの質問だった。武本が応答するので自ずとそれは彼固有の答えになるのだが、双方向のやりとりとしてはそれで十分だったのだろうか。また多くの質疑が、礼も労いもなく投げかけられたことにも困惑したのを思い出す。礼節の話がしたいわけではなく、ただ、なぜあのような非対称な関係性に見えたのかを考えている。武本の上演に際して感じられる、参加者(上演における鑑賞者)との共同性のようなものをこの場にも求めるのは期待しすぎだったろうか?

くれぐれも、これは報告会をセッティングした武本に対する批判ではないし、特定の誰かへの文句ではない。ただ、自分の振る舞いや発言も含め、検証してみたいのだ。私があのように座っていたことや、声を発したことは会にどう影響していたのか。座席の配置がこうなっていたらどうか。あの質問がこう聞かれていたらどうだったか……。武本が報告のなかでそうしていたように……。 会は、居た者がみな、その場のあり方に関わっている。一方的に彼を見るのではなく、どうすれば彼と一緒に見られたのか、居られたのか。

[筆者撮影]

★1──https://www.kiretsuzuki.com/against-the-grain-of-performing-body
★2──デザインは鈴木健太。武本のフライヤーなどのデザインも行なう。
★3── 「Japan-Britain Contemporary Theatre Exchange」のラウンドテーブルに参加した、現地のアーティストNigel Stewartの発言より。武本を招聘したBeri Juraicもまた、武本の上演にある種の政治性を見出していることが、今回の招聘の紹介文や、★1のレビューからも伝わってくる。

参加日:2024/12/21(土)


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武本拓也ソロ公演『象を撫でる』|山﨑健太:artscapeレビュー(2018年06月01日号)