
会期・会場:
2025/07/12〜2025/09/07(北海道立函館美術館 特別展示室[北海道])
2026/02/22~2026/05/10(沖縄県立博物館・美術館[沖縄県])
主催:日本財団DIVERSITY IN THE ARTS、北海道立函館美術館、沖縄県立博物館・美術館
特別協力:滋賀県立美術館
企画:山田創(滋賀県立美術館 学芸員)
公式サイト:https://www.diversity-in-the-arts.jp/creative-adventures/
(前編より)
人に見せる以前に、まずそれらを残すことが重視されてきたと考えると、絵画(に類する“作品”)における額装は展示するために施されたと見てよいだろう。額装には対象となる制作物を保護する目的があり、一方でそれを“作品”たらしめる機能も持っている。この正面に立ってよく見てください、という促しであるとともに、よく見るべきものですよ、という主張でもある。“作品”の並べ方は、複数のそれらの関係性を暗示し、添えられたキャプションの内容と併せて鑑賞者の見方を支えるのだ。
しかし、オーソドックスな絵画の展示方法がその“作品”の展示として適しているとは限らない。例えば「2 繰り返しのたび」に展示されている
戸來の《日記》についてのキャプション後半を引用する。
やさわの園時代、当時職員であった田畑一恵が戸來の行為に関心を持ち、書かれている内容を日記であると突き止め、その解読を行いました。表面には日付、曜日、天気、彼の名前が書かれています。裏面には、とある一日の出来事を並べた文章が書かれていますが、すべての紙面でまったく同じ内容になっています。
およそ20年間この行為を戸來は続けたそうで、展示物としては、数百枚の「日記」を重ねたもの/表面が見えるよう額装された3枚の「日記」/裏面が見えるよう額装された1枚の「日記」からなる。前述したキャプションと併せて、「日記」の内容も掲示されている。
はたしてここで展示されているのは一体何であろうか。抜き出した数枚が解題されている展示状況は、積み重なった数百枚のすべてに同様の描き込みと時間が込められているのだと想像させるひとつの方法だ。しかし、この展示では目の前の紙の束の量感を想像することは可能だが、戸來の行為を想像するには十分ではないだろう。
表面と裏面は物理的に分かれているが、行為としては分かれていない。戸來がこの一枚ずつをどのような時間のかけ方や身振りで描いたかはわからないが、仮に行為の中断が挟まれていたとて、戸來が描くという点において連続性はなくならない。額装は、この行為の連続性を切断してしまう。戸來が、あるいは田畑が紙を手に持ち、ぺらぺらと向きを変えながら表裏を見た(かもしれない)ように、鑑賞者がそのように観ることはできない★5。“作品”を何と考えるか、その判断が展示には現われてしまう。
同様に、展示の発明を期待せずにいられない“作品”はほかにもある。立体でいえば、「4 社会の密林へ」で展示されている水谷伸郎が作った《電車》(1999-2004頃)が挙げられる。見えない内部も含め紙で精巧に作られた鉄道車両は、共通の縮尺で作られ、実際の車両編成数に準じて連結されている。在来線から特急、新幹線の種類を問わず作られたそれらは、本展ではガラスケースの中に収められている。
キャプションはこのように締められている。
電車の車両編成数や型の系列なども正確に再現しており、それぞれを1セットにしてピッタリと収まるお手製収納箱で保管しています。
ここでも“作品”とは一体何なのかが問われている。言及されていたお手製収納箱が、はたして本人にとって車両と区別された制作物なのかはわからない。しかし、少なくとも、作ったものの保管までが一連の行為であることは類推される。本展ではガラスケースの寸法の制約からか、全長の長い新幹線は途中からカーブして内部に収められている。長さが短い在来線は一直線で置かれているのとは対照的である。少なくとも、鉄道車両の都合とは無関係にこの展示が起きていると見てよいだろう。
この展示レイアウトに決まった経緯はわからないが、作った車両がいかに保管されるかも含めて水谷の実践だと考えると、この展示方法はあまりに切ない。精巧な鉄道車両を作り出し、触れるなかで水谷には何が起きているのか。箱から取り出すたびに、水谷はおそらく“作品”と出会い直している。鑑賞者である私は、そのように“作品”と出会えていたのだろうか? “作品”の指す対象が、展示によって縮減してはいないだろうか? 何より、“作品”がいかなるものでありそうかの兆しは、キャプションの補足のなかにしか存在しない。
本稿では平面と立体からひとつずつを取り上げたが、同様に展示のあり方から“作品”について問い返すべきだと感じたものが散見されたことを書き添えておく。
「ごあいさつ」の「たとえ、誰にも見られていなかったとしても、あるいはそもそも美術という概念すら知らなくても、自らの心のうちにある強い動機に基づいて、ひたむきにつくる。こうした45人の表現が織りなす『つくる冒険』をお楽しみください」というテキストに立ち返るならば、その人がいかに・何を・どのように作っているのか、その行為の全体を、どこまでかわからない“作品”をそのままに展示できる方法を模索すべきだろう。展示の発明が起きなければ、こと日本のアール・ブリュットにおいては、作家がアトリエから“作品”を持ち出す意義は弱まっていくばかりだ。弱まったり縮んでしまうのになぜ外へ持ち出すのか、なぜそのまま観ることができるのに外からアトリエには訪れてくれないのか。
展示には、持ち出す責任と可能性がある。
本展では制作された“作品”の一部──量においても、質においても──を展示するということは達成されたが、各人の「つくる冒険」に迫る展示になっていたとは言いがたい。しかしそのことが、逆説的に45人の実践の汲み尽くせなさを表わしてもいる。その汲み尽くせなさに甘んじることなく、それでも外へ持ち出すことの可能性が追求されてほしい。
どうしたら作家がその“作品”と出会ったように私たちも出会えるのか、作家もまた出会い直せたのか。“作品”をわずかに観ただけで何かがわかったことにはしたくないし、まだできない。
★5──企画展「同伴分動態」(BUG、2025、コ・キュレーター:うらあやか、野瀬綾)でアーティストの二木詩織は、自身が勤務する福祉施設・アートかれんでの活動の様子を元に、利用者と映像作品を共同制作したり、会場を一緒に訪れて展覧会に参加した。展示物のなかには施設に通う品川太成のドローイングが含まれているが、その“作品”は壁から突き出した2枚のアクリル板に挟まれ、表面と裏面を素早く見返すことができるようになっていた。色鉛筆で埋め尽くされた紙面は一見すると抽象的だが、裏面には日付と出来事が紙面いっぱいに記されている。表面と裏面はどちらかがどちらかの補足なのではなく、対になっている。“作品”は品川の手によるものだが、このように展示するという二木とうらの判断や準備があったということも展覧会には表われている。このような展示の発明、そのための試行錯誤が、アール・ブリュットを冠する展覧会においてはより重要ではないだろうか。なお、戸來の“作品”は企画展「アール・ブリュット ゼン&ナウ Vol.3 ただよう記憶の世界」(渋谷公園通りギャラリー、2023)においては、アクリル板に挟まれ壁から離して展示されていたようだ(展示の記録写真より)。ただしこちらも鑑賞者の動作として表裏をめくるように行き来することは難しい配置のように見える。
鑑賞日:2026/04/12(日)
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