水野幸司「天磐 / aśman」
会期:2026/03/04~2026/03/21
会場:Edit Room[東京都]
公式サイト:https://note.com/editroom/n/n9627c950226b

アンドリウス・アルチュニアン「Obol」
会期:2026/02/20~2026/05/31
会場:銀座メゾンエルメス ル・フォーラム[東京都]
公式サイト:https://www.hermes.com/jp/ja/content/343162-mgeditopagearticleforumf73/

前編より)

水野が天と地表の関係性を探索したのに対し、アンドリウス・アルチュニアンの「Obol」は地表と地下世界の関係へと目を向ける。“obol”とは古代ギリシャにおいて、冥界の渡し守カロンに渡すために死者に持たせた銀貨を指し、本展はこれを起点として、地下に広がる冥界を神話的世界から資本主義的な経済圏を持ったヘテロトピアへと読み替えていく。そこは生命がない代わりに国境も人種もない、ある種の理想的な世界である。「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい」──もはや誰が言ったのかも定かでないこのフレーズはここにおいて、世界の終わりの後に広がる資本主義的涅槃ニルヴァーナへと接続される。

先の水野の展示が水を媒介として読み解きうるならば、アルチュニアンの展示においては火がそれに相当するだろう。アルチュニアンが本展の中心に据えたマテリアルである瀝青ビチューメンは、主に石油や石炭由来の炭化水素化合物を指す呼称であり、人類史においては古くからさまざまに利用されてきた。有名な例では、石器を木製の柄に固定するための接合材としても用いられていたとされる。あるいは現代の私たちにとって身近なものとして、アスファルトを挙げてもいいだろう。黒い血液の塊を思わせるそのマテリアルは、地下深くの冥界的な位相から私たちの世界へと滲み出し、その文明経済の基盤を黒く縁取ってきた。そして何より、これは火で炙られることによって溶け、流動し、形状を変える物質なのだ。

アンドリウス・アルチュニアン《BELOW (FOR THE ONES THAT MURMUR)》(2024) 瀝青、タール、鉄、木綿、5チャンネルサウンド Courtesy of the Artist Photo by Dat Bolwerck, Zutphen

「Obol」展示風景 2026年 ©Nacása & Partners Inc. Courtesy of Fondation d’entreprise Hermès

「Obol」展示風景 2026年 ©Nacása & Partners Inc. Courtesy of Fondation d’entreprise Hermès

瀝青は、常温では非常に粘性の高い物質として振る舞う。それはほとんど固体のようであり、実際に強い衝撃を与えることで砕くこともできるのだが、長いタイムスパンにおいては流動性が保たれている。例えば、瀝青の一種であるピッチは一滴が滴り落ちるのに十年近くの時間がかかるとされる。こうした特性を持つ物質──固体のようでありながら、分子構造自体は乱雑な物質──は一般的に非晶質と呼ばれ、その最たる例がガラスである。水野の天文堂がガラス窓、ひいては天体観測のためのレンズさえ持たない建築であったのに対し、奇しくも本展の会場であるメゾン・エルメス銀座は外壁全体がガラスブロックによって覆われた、いわば窓のみの建築である。地下に閉じられた密室としての天文堂が空を希求する一方で、銀座の街の上空へと開かれた「Obol」は地下へとその思索を深めていく。この倒錯的な関係もまた、二展の奇妙な照応のひとつであろう。

さらにマテリアルへの思弁を続けてみよう。瀝青が主に石油に由来するという事実から私が思い出すのは、レザ・ネガレスタニによるセオリーフィクション『サイクロノペディア』の存在である。ネガレスタニは同書において、中東の地下に眠る石油を一種の意志体として記述した。石油とは、地層の中に蓄積・抑圧された太陽エネルギーの変成物であり、反逆の意志を秘めた「腐った太陽」なのだと。この黒いエネルギー体が地表へと噴出するとき、人間の文明はその意志によって駆動される。石油が生み出す産業と争いのサイクルは、地球が太陽に向けて差し向ける暗い反撃の一形態として理解される。すなわち、私たちが理解してきたと思い込んでいる資本主義システムとは、このコズミックな闘争の一側面に過ぎないわけだ。

これを踏まえると、本展における現世と冥界の関係はさらに複雑化する。先に見たように、コンセプト上では、地上の資本主義的世界の鏡写しとして冥界が描かれているように見える。しかし、ネガレスタニ的な視座に立てば、むしろ冥界に内在する構造の部分的な表出としてこそ、地上はあるといえよう。一体、どちらがどちらを写しているのか。分厚いガラスブロックを通じた光は屈折と散乱を伴いながら屋内へと差し込み、それは波打つ瀝青の表面に歪んだ像を浮かび上がらせる。冥界と私たちが生きるこの世界は確かに鏡像関係なのだが、そこでは常に予期せぬ歪みが媒介されている。

あるいはここにおいて、地下空間に埋められた天文堂とは、墨の海を泳ぐ船であると同時に、石油の海に隣接するものでもあるというイメージが可能となる。天文堂と冥界はいずれも、いまある世界の論理の外部を想像する試みであり、そのためのモニュメントを立ち上げようとしている──一方は天に向けて、もう一方は地に向けて。天の星を読もうとすることと、地下の黒い欲動に耳を澄ませることは、同じ問いに対する異なる身振りとして理解できる。そのとき、いったい私たちはどこに立っていると言えるのか。

どこまでも広がる漆黒の墨の海。それを磨り出すのは瀝青でかたちづくられた硯である。いずれの表面も黒々と輝き、そこにはあらゆるもの──星々の光から都市の喧騒、地下深く蠢く不定形のエネルギーまで──が映り込んでいる。船の舳先が水面を乱し、硯が溶け落ちてなお、それは続いていく。

「天磐 / aśman」鑑賞日:2026/03/15(日)
「Obol」鑑賞日:2026/03/17(火)