富山県美術館の前身、旧・富山県立近代美術館の開館以来、同館の展覧会ポスターを数多く手掛けてきたグラフィックデザイナー、故・永井一正氏。街と美術館をつないだ数々のデザイン、そして永井氏自身の哲学に触れてきた記憶を、富山県美術館の学芸員、稲塚展子さんに綴っていただきました。(artscape編集部)

 

未知の世界への窓としてのポスター

グラフィックデザイナーの永井一正氏と富山県美術館とは、前身となる旧・富山県立近代美術館(以下、富山近美)が開館した1981年から活動を終える2016年までの企画展ポスター、そして2017年に移転新築開館した富山県美術館のロゴマークのデザインをはじめとして、長いご縁が続いた。頻繁ではなかったが、来館される度にお見掛けする永井氏は、すっと背筋が伸びた立ち姿で、優しさのなかにどこか近寄り難い厳しさもある佇まい。私たち学芸員は遠巻きに、憧れと尊敬を込めて「永井先生」と呼んでいた。

永井一正(ながい・かずまさ)


グラフィックデザイナー。1929年大阪府生まれ。1960年日本デザインセンター創設に田中一光らとともに参加。1975年同社代表取締役社長就任。その後、最高顧問。札幌冬季オリンピック、沖縄海洋博、茨城県、新潟県、JA、アサヒビール、三菱UFJフィナンシャル・グループなどをはじめとしたロゴマーク、CI、ポスターを多数手がける。1980年代後半より、動植物をモチーフとした「LIFE」シリーズをつくりはじめ、2003年より銅版画へと展開する。東京ADCグランプリ、亀倉雄策賞、毎日デザイン賞、毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章、旭日小綬章、姫路市文化芸術大賞、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ金賞、ブルノ国際グラフィックビエンナーレグランプリなど国内外での受賞多数。また作品は、東京国立近代美術館、富山県美術館、ニューヨーク近代美術館、メトロポリタン美術館など世界20ヵ国以上の美術館に所蔵されている。2026年2月23日永眠。


当館のデザインコレクションの主軸は国内外の現代ポスターだ。取材の折などに、一言でポスターと言えば? と問われれば、何方かの受け売りで「ポスターという1枚の紙が開く、未知の世界への窓」と答えることがある。それになぞらえれば、永井先生は35年間にわたり、富山近美の企画展ポスターという窓を、訪れる人々に開き続けたということになる。


図1「富山県立近代美術館 開館」ポスター(1981)

その最初の1枚が、1981年の富山近美開館告知ポスターである[図1]。当時、私は富山県のとある街に住む中学生で、木造校舎の壁にB1サイズのそのポスターが貼られていた景色を覚えている。雲の上の広がる紺碧の空に、美術館の主要なコレクションであるピカソ、ミロなどの作品図版が浮かぶポスターは、校舎の壁に突然開いた窓のよう。学校や商店街に貼られる企画展ポスターが変わるたび、知らない世界への窓が街のあちこちで開いていった。国内外の現代美術、日本画の巨匠など企画展の内容は多種多様で、県内の子どもたちの制作展や現代美術展など作品図版を使用しないものもあった[図2]。作品の図版、展覧会タイトルの文字と、緻密な線や幾何学的な形態、80年代終盤からの動物や植物のような生命体のモチーフが織りなすポスターの数々。そのような永井先生による展覧会ポスターそのものが、富山近美の顔になっていた。


図2「みんなでつくろう’95」(1994)

35年間で約250点。届き続けたデザイン案

富山近美の開館10周年を目前に開催された「永井一正展」(1990)の翌年、私は当館に就職し、以降の展覧会ポスターができ上がるまでの過程を幾つも見てきた。永井先生への依頼や打ち合わせは、開館準備室時代からのポスターコレクションの担当学芸員であった片岸昭二さんが担っており、私たちは企画展の趣旨と作品図版の候補を用意して片岸さんに託していた。そこからアシスタントさんを介して、先生からは縮小版のデザイン案が、所属されていた日本デザインセンターの大きな封筒で届いた。後年、封筒から電子データで送られるようになったものの、その中身は変わらず、いくつもの案から絞られたのであろうデザイン案が、ひとつだけ収められていた。35年間を通して、その総数は約250点にも及ぶ。

2014年に開催した2度目の個展「永井一正 POSTER LIFE」の頃になると、永井先生との打ち合わせには片岸さんとともに後進の学芸員が同席することが増えた。先生の仕事場に私が初めてお伺いしたのは、この頃であっただろうか。整頓された白い事務所での図録制作打ち合わせで、永井先生と片岸さんが何を話していたかはまったく覚えておらず、ご本人の佇まいと、近代ポスターの父と呼ばれるカッサンドルのポスター《北方急行》(ETOILE DU NORD)が壁に架かっていたことしか思い出せない。とても緊張していたのだ。

新しい美術館への贈り物

年月を経た富山近美の建物に耐震の問題が浮上したことから、2016年にその活動を終え、富山県美術館として移転新築することが決まった。それと同時に、35年間続いた永井先生による企画展ポスターのデザインも区切りを迎えることとなる。先生は、富山のT、アートのA、デザインのDのシンプルな構成のなかに富山の海、山、空を内包した新しいロゴマークで私たちを送り出してくださった[図3]。富山近美のニュースレター「どおむ」最終号インタビューでの一節を抜粋する。

「富山近美が新しい名前でスタートを切るのですから、それにふさわしいロゴマークという贈り物で送り出したい。そして、過去は振り返らず、新しい視点に立って送り出したいという気持ちで、このロゴマークに取り組んだのです」。


図3 富山県美術館ロゴマーク

このような美術館活動を扱うクライアントワークとは別に、永井先生のライフワークとなった「LIFE」シリーズ。その新作の知らせは必ず、私たちのところに届けられた。移転新築開館の記念展「LIFE──生命をもとめて」(2017)では、直近の「LIFE」シリーズに描かれた、赤い毛むくじゃらの生き物[図4] が大きな目を見開いているポスターを展示した。そして教育普及の学芸員がこのポスターから着想した「ニコニコポンポンを作ろう」という工作プログラムを開催した。赤い毛糸のポンポンに子どもたちが思い思いに目と脚をつけた生き物めいたものたちが、館内のアトリエに棲み始めた[図5]

図4 「LIFE」シリーズ(3点組)より


図5 富山県美術館アトリエ、オープンラボでの「ニコニコポンポン」

ある週末、永井先生から突然、電話をいただいた。「私のポスターを見て、子供たちがつくってくれているのですか? それは本当に嬉しいです」と話す声はいつになく高揚していた。ご子息の永井一史さんがいつの間にか来館されており、ニコニコポンポンたちの写真を先生に送っていたのだ。

また2011年には、富山近美の開館30周年を機に、美術館のマスコットキャラクターのデザインまで永井先生にお願いすることになった。公募で「ミルゾー」と命名された緑の象のようなキャラクターは、富山県美術館となった今は青色に変わり、変わらずお客様に愛されている[図6]。私たちはよく、なぜ象のようなのだろうと話し、つい先日、この冬が春に向かう頃にもまた「永井先生にお訊きしよう。」と笑っていたのだが、その時にはもう、先生は旅立っていたことを私たちは知らなかった。永井先生はずっといてくださると、ふわふわと思っていたのだ。

図6 富山県美術館マスコットキャラクター「ミルゾー」

ポスターから伝わる「生命の光」

永井先生とお会いする機会が終ぞなかった若い学芸員が、ささやかな追悼展示として「ポスター・ライフ──追悼 永井一正 富山県立近代美術館・富山県美術館への仕事から」(2026)を企画した。本展を手伝いながら、随分前に聴講した先生と若いデザイナーの対談を思い出した。アイデアが出ないことはあるのですか、そのような時はどうするのですかという趣旨の問いに、先生は「アイデアがないなんてことはない。出てこないときは、自分の中に深く降りていく。暗闇が続く中を降りて、もう降りていけないところまでくると、やがて小さな光が見えてくる」というようなことを静かに重く話されていた。その言葉が浮かんだところで目の前のポスターを見ると、それらは永井先生が、人の中にある喜び以上に、弱さ、脆さ、痛み、悲しみといった重い感情を受け止め、真正面から向き合った果てに見つけた光なのだと気がついた。私たちが受けとってきた“35年間で約250点ものポスター”。それらは、永井先生の容易ではない生と思考の痕跡、そして手掛けてこられた夥しい数の仕事のほんの一部なのだ。

永井先生からの新しいポスターは、もう届かない。展示室の白い壁を眺めて茫洋とした気持ちになるが、「LIFE」シリーズのポスターが架けられていくと、その壁に一つ一つ窓が開いていく。私たちは、永井先生のポスターを展示するたび、開かれる窓のむこうには生命の光が灯っているのだと伝えていきたい。