会期:2026/06/13~2026/06/14
会場:犀の角[長野県]
作:野田秀樹
演出:志賀亮史
公式サイト:http://www.hyakkeisya.org/works/archives/34
(前編より)
智恵子をはじめ各登場人物を分担するのでなく、台詞の途中途中で演者が変わったり、同じ台詞が繰り返されたり、三人で同時に語られたり……。三人はそれぞれが特定の役を担うのではなく、ひとりの俳優がするはずだったことを三人でやるのである。不思議なことに、ひとりを三人でやるということの違和感は初めから終わりまで生じない。初演におけるひとりで役を演じ分けることは、終盤の統合失調症の発症に向けた幻聴や妄想の一端として意味されてもいたが、本演出においてはその印象は強くない。むしろ、それぞれに異なる印象を持つ三人が代わる代わる演じ続けることで、物語のリニアな進行とは裏腹に智恵子の印象が軽やかに変化し続けていくことが印象に残る。戯曲が持つ一本道の因果の道筋は変わらないが、ひとつの枠に収まることを拒むように智恵子はくるくると変わり続ける。そのために、終盤の智恵子がひとりの俳優に20分ほど連続して演じられ、残りの二人が舞台に現われないパートが演出としてよく効いている。自身のイメージが囲われることに抗うような三人芝居もむなしく、取り返しのつかないところまで追い込まれての言葉は、ひとりの声で振り絞られる……。
また、私が思わず息を呑んだのは、縁談を反故にして光太郎と劇的に再会する場面に一抹の不穏さを残す「今川焼のおばちゃん」との出会いである。理想的な人生を想像する若き智恵子は、「芸術家」を名乗りながら観光客相手の商売を行なうおばちゃんと、大切なアトリエがなぜか近隣の老人たちの通り道になってしまっている様子を俗世的だと軽蔑している。そんな智恵子におばちゃんは呪いのような言葉を吐くのだが、このシーンは三人が舞台裏を通りながら次々と演者を入れ替え長台詞をつないで語り、最後には三人が輪になって歩きながら同じ台詞を繰り返す。万華鏡を覗くように頭がくらくらする。テキスト上は目の前にひとりしかいないはずなのに、三人の歩行と言葉が不穏にエコーしながら空間を満たす。智恵子がこのように感じたのかはわからない。しかし、このように言葉が届いたことがある、と嫌な実感とともに何かの味が思い出される。戯曲の上演とは、ある場面が視覚的に再現されているのではない。そこに書かれていることが、どのような実感により書かれた人──演じられている役──のなかに立ち上がったと思われるのかをやってみせる行為なのかもしれない★7。
百景社は、この戯曲のリニアな語りの構造に抗う時空間の演出──三人の役者の配置──を導入し、『智恵子抄』を裏返した(ようでいてその枠を強化してもいる)『売り言葉』をさらに裏返そうとしている。
重要なのは「“智恵子”側の目線から描いた物語」という説明がもはや不適当である点である。『智恵子抄』の描写を起点とする『売り言葉』は、どこまでいっても光太郎の側から見えた世界の延長でしかない。語られるのはその世界の裏側に過ぎず、智恵子の側からの眺めではない。
プロジェクションによる演出を意欲的に組み込んだ本上演では、智恵子の死──退場──ののち、独自の演出として光太郎が書いた戦争協力詩の抜粋が壁面を覆っていく。そして壁面に残るのは「わが詩をよみて、人死に就けり」という一文である。1947年に光太郎が発表した詩のタイトルでもあるこの文は、自身の戦争協力詩の執筆に向けたものだとされているが、本上演はその射程を『智恵子抄』にも向けている。
この一文が上演の全体にかぶさることで、戯曲『売り言葉』は光太郎が『智恵子抄』の裏を想像し、反省的に智恵子の側を想像した物語である、という解釈が可能となる。そのような解釈を伝える読みが、本上演の端々に実現している★8。
同時にこの解釈は、智恵子の側からの眺めが依然として私たちにはわかりえないということを示してもいる。それでも想像し続けることを、テキストは私たちに繰り返し要請する。
★7──鑑賞前日、松本市で開催された「第100回 大人のためのおはなし会」にたまたま参加していた。同会は「1981年に東京子ども図書館にてお話の講習を受けた第6期生の方からストーリーテリングの講習を受け、1996年5月より定期的に大人のためのおはなし会を開催」している(公式Instagramのプロフィールより)。私の参加した回では約2時間のうちに10を超える国内外の物語が語られた。話者が入れ替わりながら暗誦される物語を聞いているうちに、演劇の上演もまたテキストの読み上げが基本であることに思い当たった。上演に役の存在を見出すことは可能だが、役というものもまたテキスト上の文字情報のひとつである。
★8──太陽を緑色に描こうとも構わない、という光太郎の芸術論「緑色の太陽」(初出:1910)に智恵子が感銘を受けた場面は、直前の智恵子が色盲であることに言及する場面とともに、プロジェクションの文字演出により明らかに強調されていた。光太郎が智恵子のデッサンを褒めるのみで色彩を褒めなかったという終盤の一人問答と対であることを意識づける演出だろうが、智恵子が「だめになる」経緯をひとつにまとめ、過剰にドラマチックにしてしまう恐れがあると鑑賞直後は感じていた。しかし本稿で記した解釈に基づき振り返ると、この演出は光太郎の(仮想された)反省が短絡している可能性を暗示しているとも受け取れる。本上演をあくまで光太郎の側から裏読みした物語であると解釈しなければ、智恵子は何度でも囲い込まれてしまうことに留意したい。なおアフタートークの際、過去の上演で「(このように智恵子を抑圧した)光太郎憎し」といった感想が寄せられ困惑した、という俳優のコメントがあったことを書き添えておく。智恵子の側から考えるなら、抑圧が事実そうであったとしても、智恵子とはただ抑圧され囲い込まれていただけの人間ではないはずなのだ。俳優は『売り言葉』の台詞のうえだからこそ、そうではない智恵子の姿を演じようと試みていた。
鑑賞日:2026/06/14(日)