会期:2026/06/13~2026/06/14
会場:犀の角[長野県]
作:野田秀樹
演出:志賀亮史
公式サイト:http://www.hyakkeisya.org/works/archives/34
『売り言葉』(初演:2002)は、「純愛詩集として知られたこの作品(※編注:高村光太郎『智恵子抄』)を題材として、野田秀樹が“智恵子”側の目線から描いた」★1戯曲である。かつてパートナーでもあった大竹しのぶによる一人芝居のため野田が書き下ろした★2本作を、茨城県土浦市を拠点とする演劇カンパニー百景社は、三人の俳優(山本晃子、鬼頭愛、久保庭尚子)で上演した。潤色・演出は百景社の志賀亮史による。私が鑑賞したのは、宇都宮、津、長崎、上田の4都市ツアーの最終回である。
つい先ほどまで明るい声でまくしたてていた女学生が、しゃがれた声で福島の方言で語りかける、かと思えばもったいぶってキザな言葉を放つ……。『売り言葉』は複数の登場人物を主演女優がひとりで演じ分けることが前提の戯曲となっており、会話の場面において相手の台詞は空白として舞台上に置かれる。鑑賞者は返される言葉を自然と想像して聞き取るようになる。上演時間は約90分。奔放で「新しい女」★3であった智恵子が、やがて光太郎のテキストに囲い込まれ、詠まれるイメージに自身を合わせていくうち、さまざまな出来事が重なり「だめになる」過程が描かれる。一人芝居でダイアローグが不完全な序盤があるからこそ、役が混濁したようにも見える終盤の独語(独り言)の演技に鑑賞者は息を呑む。
大竹しのぶによる2002年の初演は、その演技が高く評価されたようだ。記録映像には、野田による高密度な言葉を高速で乗りこなしながらチャーミングな魅力をふりまく大竹、そのチャーミングさに影が落ちていく過程、呪詛のような言葉を吐きながら力を失っていくさまが映っている。演技の良し悪しなるものを質的に評価するのは難しいが、役から役へ乗り換える際に演技がどのように変化しているのかは誰の目にもわかりやすい。良し悪しとは異なる次元で、明らかにそこにある事実として変化が目に映るからだ★4。私はいま目の前で起きていることを見ながら、同時に先ほどまでの大竹を思い出す。その落差に私は役を観て、『売り言葉』という本の内容を読み取る。だが、役者の前後の変化から役を見ていくという鑑賞の構造は、物語がひとつの筋に乗っているということ──出来事がひとつの経緯、因果の連続によって引き起こされているという理解──を強く印象づけもする。
『売り言葉』は智恵子が統合失調症を発症するまでにしたさまざまな経験を組み合わせて物語ることで、『智恵子抄』に書かれた智恵子像を裏読みする。『智恵子抄』で描かれる美しさは、現実に起きたことの反転した端緒として読み取られる。「貧しさに驚くような女であってはいけないの」★5と言い聞かせることが光太郎の作家活動を生活面から支えることにつながり、アーティストとしての自身を抑圧していった可能性は否めないし、それが智恵子の発症につながったという見立ては通説となっている。
しかし『売り言葉』という戯曲の限界は、『智恵子抄』に基づかざるをえない点にある。そこに書かれたような女ではなかった、という見立ては、智恵子の自立性や反骨心を描いているようでいて、光太郎のテキストに抑圧された悲しい女性というキャラクターに智恵子を回収していく。智恵子の奔放さは、進学を訴える際のしたたかさや、光太郎との出会いを自己演出するおかしさといった、若い頃の行為に託されるのみだ。こうして『売り言葉』では、一人芝居──直前の演技との差分から役の変化を追い物語が理解される──の構造をなぞるように、在りし日の智恵子が現在と対比され続けることで、光太郎のテキストが彼女を追い込んでいったという悲劇の筋が示される。これはたしかに『智恵子抄』の反転ではあるが、智恵子を異なるキャラクターに狭く囲い込んでいるという意味では、『智恵子抄』の問題が再生産されている。
文化人類学のフィールドでは、例えば社会的に抑圧されている人々を記述する際、当事者を当事者たらしめている社会構造を分析するために、当事者を弱い立場の人として強調する危険性がたびたび取り上げられてきた。その人たちは決して無力な人ではない。社会構造のなかである能力を発揮できない立場に置かれていることは、その人たちが力を持たないということとは異なる。それでも発揮されようとしている力がいかにあらわれているかに目を向ける必要がある★6。この観点も補助線にすると、戯曲『売り言葉』における智恵子は、光太郎のテキストの罪を取り上げんがために無力化されている、と言えないだろうか?
しかし、一人芝居を三人で上演するという百景社の演出は、この問題を読み替えていくひとつの考え方のように思えた。
(後編へ)
★1──百景社の公演情報より。
★2──戯曲は『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社、2011)に収められている。
★3──智恵子は、平塚らいてうが主宰した『青鞜』の表紙絵を描いた。『青鞜』を端緒のひとつとして、日本における女性解放運動は立ち上がり、運動を通じて現われた女性像に既存のメディアは「新しい女」という言葉を充てた。スキャンダラスな取り上げ方で揶揄も込められた「新しい女」という言葉は、平塚らが自称することで彼女たちのものに変わっていった。
★4──カメレオンや憑依型といった形容が(特に映像作品に出演する)俳優につくのは、演技の評価指標のひとつに変化の度合があるからだと考えられる。演技の機微を細かに分析することができない私に可能なのは、その変化の具合や、役と俳優の構造的な関係を手がかりにすることである。
★5──『智恵子抄』内「鯰」の一節「智恵子は貧におどろかない。」を受けての台詞。
★6──例えば北川眞也『アンチ・ジオポリティクス:資本と国家に抗う移動の地理学』(青土社、2024)では、「不法移民」についてこのように引用している。「『ランペドゥーザ島に着岸する船に乗っている人は、どうにもならない状況にいる人間では断じてない。過去においても、そうであった試しは一度もないし、現在においてはなおさらそうだ』(Chilgnola eMezzadra 2011)。かれらは生き残った人びと、否、生き延びようとしている人びとだ。どれほど『悲惨』な生として描かれようと、死政治による恐怖に直面させられようと、ヨーロッパへと向かって逃亡しよう、わずかでも自主的に生き延びようとするときにはもう、おのれの自由の領域を拡大する運動がはじまっている(Raimondi e Ricciardi 2004)」(p.104、第2章「ヨーロッパ『市民』がいなくなった後で」)
鑑賞日:2026/06/14(日)