劇場公開日:2026/06/05
会場:TOHOシネマズ日本橋ほか[全国]
監督:オリベル・ラシェ
プロデューサー:ペドロ・アルモドバル
公式サイト:https://transformer.co.jp/m/sirat/
(前編より)
人は人をつい見てしまう。
縦構図においては、余計なものが映らないことがコンテンツの内容に引き込む力を強め、またそこに比較的縦長の人の顔や姿が映ることで、スマートフォンの画面の外の世界以上に私たちの耳目を向けさせる。ワイド化した横構図においても、見るべきものに迷う私たちの目が思わず奪われるのは人の姿だ。
このように、私たちは映像の内で語られる内容だけを受け取ることに慣れ過ぎてしまっている。何を見聞きしているのか、すなわち物語内容を含む全体の何を受け取っているのかは実感の俎上に上がらない。
本作はどうだったろうか。
画面比はアメリカンビスタである。私たちが手元や家庭で見るのに近しい比率だ。比率は馴染み深いが、はるかに大きな光と音が流れる映画館の一室で、スクリーン上に大勢の人々が踊る姿を見る★6。
ルイスとエステバンが、娘を知らないかとビラを片手に訪ねてまわる。その登場以前、いったいこの大勢のなかの誰が二人と旅を共にするかはわからないし、そもそもその予感もまだない。カメラの撮り方も、俳優の動きも、特定の人を浮かび上がらせるために作用しない。ただその場にある音楽に踊っている人々が見えているだけだ。では、カメラを向けられた踊る人々は何を見ていたのだろう。正面には横長に配置された巨大なサウンドシステムがあり、音楽を奏でるDJや音響スタッフは背後に控えている。見た目には不動の、積み上げられた黒いスピーカー。見る対象は存在しているが、そこから発される音を聞いているのだし、それを見ている、ということでもなさそうだ。「見ている人を見ることはできるが、聞く人を聞くことはできない」★7。左右に延々と平らさの続く土地で、レイバーが何を見聞きしているのか、レイブに惹かれていなくなった娘の見聞きしたものが、ルイスにはわからない。わからないと思っている人の姿がスクリーンには映っている。だが私たち鑑賞者には、そこに主人公たる親子がいることで画面のどこを見るべきなのかがわかる。劇映画を鑑賞する際の慣習は、このように劇中登場人物と鑑賞者の異なる立場を維持し続ける。
序盤はまだ、その人がいるからそこを見ていた。
だが、私たちの鑑賞は少しずつ変化していく。ルイス親子とジェイドらは長い車列から外れ、広大な砂漠の中へ飛び出していくと、彼ら彼女らが私たちの見るべき対象であることは自明になる。画面に映るなかで、動いているのはこの人たちだけだ★8。
砂漠の中央を車がひた走る。
画面いっぱいに3台が映り続けるよう並走する。
正面から撮っていたのが後方へぐるりと回り込む。
カメラは車に追い越されるのではなく、共に走り、つねにスクリーンの中央にそれらを映し続けようとする。映像は登場人物の主観映像ではないが、第三者目線の映像のまま、ルイスたちがそこにいることの実感に迫っていく。広大な自然の中にいながら自分たちにフォーカスすること。(レイブ経験のない私が想像するに)レイブの恍惚はこのようなものなのかもしれない。大音量のレイブシーン以上に、そう思わされる。物語の内容もスクリーン上の現象も、同じように作用してくる。
人がいるからそこを見てしまうのではなく、画面の中央だからそこを見てしまう。中盤、画面の中央に砂漠を慟哭しながら歩くルイスの姿が映り、沈む太陽が重ねられる(海外予告編 1:04)。疾走する車たちと対照的な、遅くて心もとない歩行を目にしたこのとき、私たちの鑑賞の仕方はもう変わってしまっている。
後半にあるトラックが爆発するシーンの緊張感が、物語内ですでに発生した爆発の経験からもたらされるのか、それとも画面中央に車がじりじりと向かっていくという映像の状況によるものか、もはや分けられない(日本語予告編0:41~0:45→海外予告編1:24)。後に続く出来事もまた、この映像の構図が最大限に活かされているだろう。この構図が、物語の内にいる登場人物たちと、スクリーンの手前にいる私たちの体験をつないでいる。
これら鑑賞経験の積み重ねがあってこそ、本作のエンディングがエンディングたりえることは言うまでもない。一点透視でまっすぐと伸びる線路、線路が行く砂漠の広がり、列車に乗り合わせる大勢の人々……。客席からスクリーンを眺めること、鑑賞行為の存在がこの映画には含まれている。
思い返せば、劇中、スマートフォンでレイブの様子を撮る人も、砂漠の道中をGoogleマップで確かめる人もいない。このことは、年代や世界情勢を抽象的にする演出意図の一部だが、鑑賞者が映画を鑑賞することへのノイズとして取り除かれたのだと言ってもいいだろう。そのように世界を見ること、あるいは見たことにすることは本作の目指す経験ではない。本作で登場人物がスマートフォンを見る場面は一度きりだ。大勢の見知らぬ人々に一枚のビラで娘の失踪について尋ねてきたルイスは、親交が深まったジェイドたちに何枚かの写真をスワイプして見せる。画面の方──向けられたカメラを見返す娘がそこには映っている。
その、こちらを見ている娘には何が見えていたのか。
画面の向こう側を、こちら側から想像することをルイスは試み、それは見るのでも聞くのでもなく、踊ることにより達成された。その変化を私たちは追い、ときに重なったのかもしれない。
しかし、線路の先に何が待ち受けているのかはわからない。まだ起きていないことを、私たちは振り返れない。
画面比の存在しない、ただ広がっているだけの世界が映画館の外にはいまもあり、歩んでいくほかないこともまた、映画の終わりにはわかっている。
★6──想定されている上映館のサウンドシステムはドルビーアトモスである。上映館が増えてきたが、同仕様の館は少ない。筆者の鑑賞した館も通常のサウンドシステムである。スマートフォンで鑑賞することが本作にとって理想的でないのは想像に難くないが、監督や製作チームがどこまでの仕様を本作の上映環境として許容できるのかは気になるところだ。鑑賞者への影響は物語の内容と同じかそれ以上に大きく、鑑賞者のすべてに対して同一の物理環境が用意しえないからである。
★7──本作についてではないが、ここ数カ月内にSNSかnote上で見かけた文言だと記憶している。出典が思い出せず調べても不明なため、そのことを記しておく。もし当該内容に類する投稿や著作物をご存じの方がいらっしゃれば筆者までお知らせください。
★8──登場人物が画面の左右いずれから現われるかや、どのように運動していくかには定型の意味があるとされている。例として、左→右=過去→未来、左=悪役で右=味方、など。慣習的なそれらを私たちは無意識に受け取っているかもしれないが、より確かに受け取っているのは即物的な事実である。つまり、カメラあるいは対象が動いていること/止まっていることである。
鑑賞日:2026/07/23(木)