
会期:2026/08/05
会場:京都芸術センター 講堂[京都府]
公式サイト: https://www.kac.or.jp/events/260805/
(前編より)
すでに見たように、本作『ジェローム・ベル』の構造の肝は、メタ・ダンスである自作についてのレクチャー・パフォーマンスであり、さらにそれ自体が何重にもねじれたメタ・ダンス性をもつ点にある。パリ・オペラ座バレエ団のバレリーナやマース・カニングハム舞踊団のダンサー、タイ古典舞踊のダンサーなど、「多様なバックグラウンドをもつダンサーが自身について語るドキュメンタリー作品」を制作してきた振付家が、自分自身にそのメソッドを適用しつつ、「本人ではない他者に自伝を語らせる」というねじれや矛盾。ベル自身は、気候変動対策がきっかけであったと述べるが、ここでは、ダンス(舞台芸術)が反復性・再現可能性を前提とすることそれ自体が俎上に乗せられている。
冒頭、舞台に登場した川口隆夫は、前説を述べ、机に座ってノートパソコンを開けると、「私はジェローム・ベルです」とおもむろに自己紹介を始める。「16歳の娘がいます」「今57歳です」「振付家です」。川口自身も振付家としてダンス作品を創作しており(そのなかには、記録映像に基づいて大野一雄の舞踏を完コピする『大野一雄について』[2013]というメタ・ダンス的作品も含まれる)、年齢も近いが、川口は俳優のようにベルを演じているわけではなく、書かれたテキストを日本語で読み上げ、指定された箇所でパソコンを操作して映像を再生させている。舞台上で語られるのは、ダンスをめぐる自作の思索に加え、ダンスとの出会い、エイズによる親友の死、父親になった喜びなどの自伝的語りだが、ベル自身は舞台上には一切姿を現わさず、指定した台詞を他者にしゃべらせ、パソコンを操作させている。ここで顕現するのは、「他者の身体を遠隔操作する」というまさに振付の力学だ。観客は、振付家としてのベル自身についての語りを聞きながら、同時に「他者の身体に及ぼされている振付の作用」そのものを目撃する。
[Documentation Team © 2026 Hot Summer in Kyoto]
ベル自身、常に「振付(家)という権力性」についてラディカルかつ自己言及的に問うてきたが、本作のタイトル『ジェローム・ベル』は、作品名であると同時に振付家としての署名でもある。言い換えれば、この作品は『川口隆夫』ではない。出演者が「その人自身であること」は限りなく希薄化し、消去される。本作は、振付家としての成功も失敗も赤裸々に語られ、失恋や子どもの成長を見守る喜びなど私的な側面も率直に語る、一見誠実なドキュメンタリーでありつつ、完全に非ドキュメンタリーでもある。ここには、「ドキュメンタリー・シアターははたしてどこまで成立可能なのか?」という矛盾した問いも内包されている。一方、本作では、ベル/川口の境界線がわずかに揺らぐ瞬間もある。90年代初めにエイズで友人を亡くしたことが語られるシーンでは、「ダムタイプ」に参加した経歴をもつ川口が、自身の過去を重ね合わせているような沈黙の間があった。
本作はまた、舞台作品の基盤にある反復性や代演可能性を問うとともに、映像アーカイブと舞台芸術の一回性をめぐる問題も内包する。作中では、ダンス作品がスペクタクルな消費社会の速度に抗う抵抗として、繰り返し「今、ここ」にいることの重要性が説かれる。一方、作中で抜粋映像が紹介される自作について、「全編はYoutubeで見れます」と何度も述べられる。「自作についての解説が、それ自体を裏切り、新たな問いを派生させる」という構造がここにもある。
レクチャー・パフォーマンスであり、多層的なメタ・ダンス作品であり、「ドキュメンタリー」の成立(不)可能性をめぐる問いであり、映像アーカイブと舞台のライブ性に対する問いでもある本作。最後に、「クレジット」にも施された仕掛けについて触れたい。「出演」は、川口隆夫だけではなく、「記録映像」で紹介された過去の自作に出演した人物の名前がすべて列挙され、長大なリストをなしている。ここには、「作品の出演者」とは誰を指すのか? という問いかけとともに、「過去作品に出演した 彼ら全員とともにこの作品がある」という敬意と誠意が込められている。
鑑賞日:2026/08/05(水)
関連レビュー
未だ見ぬ身体へ──川口隆夫『大野一雄について』|岡村恵子:フォーカス(2017年11月15日号)
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