
発行:白水社
発行日:2026/03/30
発行元ウェブサイト:https://www.hakusuisha.co.jp/book/b673712.html
白水Uブックスの新シリーズ「思想の地平線」の一冊として刊行された本書は、アンリ・ベルクソンによる1889年の著書の翻訳である。本書はベルクソンのいわゆる「四大主著」の第一のものとして知られ、一般に『時間と自由』というタイトルで世に知られてきた(フランス語の原題は『意識に直接与えられたものについての試論』だが、ポグソンによる英訳書以来、しばしばこの通称によって流通している)。なお、本訳書はフランス文学者の平井啓之(1921-1992)が1965年に「ベルグソン全集」の一巻として発表したものを親本としており、1990年の「イデー選書」に続き二度目の再版となる。
哲学書としての本書の魅力は、われわれが「感覚」や「感情」に対して抱く先入見を根本から払拭してくれることにある。例えば、わたしたちはよく喜びや痛みを比較可能なものとして扱う──「タンスに足の小指をぶつける」よりも「ドアに手の指を挟まれる」ほうが痛い、というふうに。しかし、この二つの痛みはほんとうに比較可能なのだろか。この二つの痛みは、本来それぞれに固有な「質」をもっているのであって、それを「どちらが痛いか」という「量」の問題に変換するとき、それぞれのもつ「質」は決定的に取り逃がされてしまうのではないだろうか。これは怒りや悲しみといった感情について考えてみるとき、よりいっそう納得できるものとなるだろう(日常的なやりとりにおいて、人は比較不可能な「怒り」や「悲しみ」をしばしば比較可能なものとして扱うが、それは端的に誤謬である)。本書が全篇にわたって問題とするのは、この「質」と「量」、さらには「時間」と「空間」の混同をはじめとするさまざまな取り違えである。
本書の(英語版の)表題が言わんとすることを端的に整理するなら、おおよそ次のようになるだろう。つまり、わたしたちが経験する(本当の意味での)時間を、その空間的な表象と混同してはならない。ベルクソンが「持続(durée)」と呼ぶところの真の時間を、空間的な語彙によって言い表わすことはできない。自由は、さながらゲームの選択肢のようにX or Y or Zという選択肢のなかから選び取られるものではなく、わたしたちの内的な自我から発する行為の連続のうちにある(X or Y or Zという選択肢は、いわばその「ありえた選択肢」を事後的に表象したものにすぎない)。わたしたちの自由は、持続という流れつつある時間のなかで実現される。人間に自由などないとする決定論も、それに反対する非決定論も、この単純な事実を取り逃がしている。本書の序文において、ベルクソンは「持続と延長」「継起と同時性」「質と量」等々の混同さえ一掃できれば、自由の存在に対する異論も、あるいは自由の問題そのものも、きれいに解消されると述べている(12頁)。そのうえでベルクソンは、決定論者と非決定論者の双方が拠って立つ前提を掘り崩しつつ、われわれの内奥にある深い自我の表現あるいは行為を「自由」と呼ぶことを提案するのである。
そんなふうに本書の内容の一端を要約してみたが、このような説明を繰り返すまでもなく、本書は古典的な哲学書の一冊として本邦でも広く読まれてきた。とりわけ今世紀に入ってからは、中村文郎(岩波文庫)、合田正人+平井靖史(ちくま学芸文庫)、竹内信夫(白水社)による三種類の翻訳が刊行されており、ここ20年ほどは日本語でも目をみはるような研究成果が続々と現われている。そのような状況のなか、ここであえて本書を取り上げるのは、平井啓之が1965年に上梓した本訳書の歴史的意義を考えたいからである。
本書には三浦信孝による解説「平井啓之先生の思い出」が収められているが、そこでは本書の訳者である平井を中心とする、戦後日本の知的状況の一幕が鮮やかに描き出されている。1990年の「イデー選書」に洒脱な解説を寄せた加藤典洋(1948-2019)しかり、平井の遺志を継いでベルクソンの個人全訳(未完)に取り組んだ竹内信夫(1945-2026)しかり、三浦も含めて戦後の一時期には「平井スクール」とでも呼びうるゆるやかな共同体が存在した。そして、表むきはサルトルやランボーを専門とするこのフランス文学者が「その全集にほぼ目を通したと言い得る唯一の思想家」(264頁)こそベルクソンであり、そうした思い入れあってこそ、あるところでは小林秀雄のベルクソン論に対して徹底的な批判を加えもしたのである(「小林秀雄の「ベルグソン論」について」[1987])。
以上を約言すれば、いまから半世紀以上前に世に出た本訳書の周囲には、戦後日本の思想・文学・批評を貫通する知られざる鉱脈が広がっているということだ。古典の新訳や解説ばかりが重宝される風潮のなかにあって、こうした先達の訳業がふたたび人目にふれる機会を得られたことを、心から喜ばしく思う。
執筆日:2026/07/31(金)