ピョン・ウォルリョン《板門店での北朝鮮捕虜送還》
1953年、キャンバス・油彩、51.5×71.0cm、韓国・国立現代美術館蔵
無許可転載・転用を禁止

 

開放的な記録画

国境とは何か。戦争がなかなか止まらない。「地球は青かった」と言われた唯一無二の美しい地球を破壊することになる。戦争行為を始めた国を負けとし、国境を変更して領土を狭くする国際規則を作ってはいかがか。

日本では祖霊来訪のお盆(8/13-16)と、8月15日の終戦記念日が重なり、日本人の祖先供養の文化が合わさる盛夏。太陽が眩しい時期に、毎年振り返る戦争であるが、平和への願いは届いているのだろうか。そんな折、インターネットを見ていて捕虜を解放する絵に目が留まった。ピョン・ウォルリョン(변월룡)の《板門店での北朝鮮捕虜送還(판문점에서의 북한 포로 송환)》(1953、韓国・国立現代美術館蔵)である。

韓国と北朝鮮を分ける軍事境界線上の板門店にて、雲ひとつない快晴の下、北朝鮮の捕虜たちがトラックに載せられて次々と送還される様子が描かれている。強い日差しなのだろう。サングラスをした兵士やトラックの濃い影が夏の暑さを伝え、同時に戦争が終わった開放感を漂わせている。ピョン・ウォルリョンは、この現場を取材し、記録画として歴史化した。

8月15日は大韓民国では光復節、朝鮮民主主義人民共和国では祖国解放記念日として、日本の植民地支配からの解放を記念する祝日となっている。周知のとおり日本は、1910(明治43)年から1945(昭和20)年まで、朝鮮半島を35年間、植民地として支配していた。《板門店での北朝鮮捕虜送還》を見たとき、日本人とは無縁ではないと感じたのはそうした歴史があったからかもしれない。

《板門店での北朝鮮捕虜送還》の見方を大谷大学教授の喜多恵美子氏(以下、喜多氏)に伺いたいと思った。喜多氏は、朝鮮近現代美術史を専門とし、論文「朝鮮美術展覧会と朝鮮における「美術」受容」(『大谷学報 第八十八巻第一号』大谷学会、2008)「新しい「朝鮮画」 主体美論の実践」(『北朝鮮を知るための55章』明石書店、2019)など、朝鮮美術に詳しい。京都の大谷大学へ向かった


喜多恵美子氏


文字を介さない哲学

喜多氏は、1966年大阪府に生まれた。父は生家が農地改革で没落したため、戦後、滋賀県から大阪へ出て酒屋を営むこととなり、大陸生まれの母は引き揚げ後、広島の島で育ち大阪の父の家へ嫁いだ。家族は両親と兄の4人家族。子供の頃は、祖母とアメリカへ留学した叔父も同居していたという。父は弟たちや家族を養うために苦労を重ね、学業を諦めた人だったが、弟や子どもたちを全員大学院に進ませた。裕福さとは縁がなかったものの、母が実家から持ってきた講談社の『世界美術大系』を読むのが幼い頃の楽しみだったり、家族で合唱をするなど、文化的には楽しい思い出のある家であったという。

1986年大阪大学の人間科学部に入学し、文化人類学を専攻。世界の貧困地域に対する援助問題に関する卒業論文を書いたが、在学中に外務省による学生派遣で韓国を訪れたことをきっかけとして朝鮮半島に関わるさまざまなことに興味をもつようになった。また、もともと美術が好きで美術館や画廊に通うなか、現代美術が好きになったことで大学院は現代美術の研究ができる京都大学大学院の人間・環境学研究科へ進学した。

1996年京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程を修了。博士課程へ進学後、韓国政府の奨学金を得て、1996年韓国に留学、名門私立の弘益大学校大学院美術史学科博士課程に学んだ。「韓国の美術史は、文化史的な側面が強く、ハイアートだけでなく視覚芸術を全般的に扱い、享楽的な作品よりも思想性のある作品を評価する傾向にある」と言い、現代美術研究を希望していた喜多氏に対し韓国の教授陣は、現代美術はまだ歴史に組み込まれていないから朝鮮の近代美術、なかでもプロレタリア美術について研究をすることを勧めた。2001年帰国後は京都大学大学院へ復学。2005年大谷大学文学部の専任講師に着任し、現在に至っている。

喜多氏の美術への関心は子供の頃からあったが、学生時代に大阪と京都の画廊を巡るなかで、現代美術との出会いが大きかったという。喜多氏にとって現代美術とは「文字を介さない哲学」のイメージで、文字を使わなくても多くのことを訴えられる美術作品に惹かれていった。また、修士課程在学時に韓国の現代美術がまとまって日本に紹介されたことで、もともと関心のあった韓国と美術との間に接点が生まれ、それが留学を決意することにつながった。ピョン・ウォルリョンの実物作品を初めて見たのは、2016年ソウルにある国立現代美術館の徳寿宮館で開催された「변월룡(Пен Варлен) 1916~1990(ピョン・ウォルリョン1916~1990)」展だった。《板門店での北朝鮮捕虜送還》の印象は、「光の扱い方が特徴的で、絵具が分厚くなく装飾性もなく報道性が高い作品だなと思った」と述べた

恩師オスミョルキンとイオガンソン

ピョン・ウォルリョンは、ロシア名をペン・ヴァーレン(Пен Варлен)という。朝鮮半島が日本に併合されていた当時、日本による重税や飢饉に苦しんだ朝鮮人農民たちは土地を探して中国やソ連へ越境した。ピョンは、1916年日本海に面するソ連(現ロシア)のウラジオストクがある沿海地方シュコトフスキーにあった朝鮮人村で生まれた。ソ連は国際主義によって多民族を受け入れ、ピョンは移民の子として民族学校へ通い朝鮮語を使った教育を受けた。

1936年絵が好きだったピョンは、ウラジオストクで中等教育を終えた後、アジアとヨーロッパの境界になるウラル山脈麓にあるスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)美術学校に転入した。同年スターリンが新憲法を制定し、共産党による一党独裁体制を確立。1937年ソ連の政策が突然転換したため、朝鮮人は中央アジアへ強制移送となってしまう。ピョンは美術学校に在学中であり間一髪で連行されずにすんだが、ピョンの母と姉はウズベキスタンのタシュケントへ連行された。1940年レニングラード(現サンクトペテルブルク)にある全ロシア美術アカデミー(後のイリヤ・レーピン名称サンクトペテルブルク国立絵画・彫刻・建築アカデミー、通称サンクトペテルブルク芸術アカデミー)の絵画科に入学する。絵画に加え、銅版画やリトグラフの研鑽にも励んだ。1942年独ソ戦が激しくなり、美術アカデミーの教授や学生とともにウズベキスタンのタシュケントへ疎開した。1944年美術アカデミーの同級生ゼルビゾワと結婚。息子アレクサンドル、セルゲイ、娘オルガが生まれた。

前衛芸術家グループ「ダイヤのジャック」のメンバーである美術アカデミーのアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・オスミョルキン(1892-1953)教授の指導の下、モダニズム作品などを学び、1947年美術アカデミーを首席で卒業。その後、大学院へ進学。大学院では社会主義リアリズムの巨匠ボリス・ウラジーミロヴィチ・イオガンソン(1893-1973)教授から学び、肖像画や風景画を制作し、1950年に美術アカデミーの大学院を修了した。定期的に展覧会へ出品し始め、1951年には美術アカデミーの素描科助手に就任し、素描の指導を開始。芸術学の博士号を取得し、1953年に素描科准教授となる


東アジアとロシアの地図
(By NormanEinstein – Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=385863

 

 

人間とは何か

ピョン・ウォルリョンは、ソ連文化省の指示により1953年6月から翌年9月まで、「故郷」でもある朝鮮民主主義人民共和国を初めて訪問。そして朝鮮戦争(1950-1953)で甚大な被害を受けた平壌(ピョンヤン)美術大学の復興支援に従事し、学部長および顧問を務めて、社会主義リアリズムの理論とデッサンや描写技法を指導した。その美術の理論と実践は、北朝鮮絵画の基礎として現代にも引き継がれている。ピョンは滞在中、北朝鮮の風景を多く描き、その1点が《板門店での北朝鮮捕虜送還》である。

喜多氏は、ピョンの北朝鮮派遣について、「日本による植民地主義の克服、日本の影響を洗い流す大きなきっかけとなった」という。日本式の「洋画」などではない「本物」の美術を同胞の画家から学べるということで画家たちはピョンの美術指導に心酔し、派遣期間が終わる際は当局からも慰留を受けたらしい。しかし、何の準備もせずに北朝鮮へやってきたピョンはこの遺留を断った。折しも北朝鮮では中ソ対立の煽りを受けてソ連との関係が見直され、ソ連の影響のあるものはすべて締め出されていった。その結果、北朝鮮でピョン・ウォルリョンは粛清され、忘れ去られた画家となる。韓国では2016年まで存在すら知られていなかった。

1954年ピョンは、北朝鮮からソ連に帰国後、レニングラードの美術アカデミーで再び講義を​​続けるとともに、数多くの展覧会へ出品し、精力的に活動した。1961年にはヨーロッパや極東地域へ旅行に出かけ、1977年には美術アカデミーの素描科教授に昇進、朝鮮人としては初めての教授となった。1985年に美術アカデミーを退職。1990年5月25日、脳卒中を患いレニングラードにて亡くなった。享年74歳。レニングラードの北部墓地の墓碑にはハングルで名前が刻まれた。

画家として長く埋もれた存在だったピョン・ウォルリョンだが、韓国の美術評論家であるムン・ヨンデ(文永大。1960-)氏が1994年ロシアへ留学していたときに、国立ロシア美術館で、ピョンの絵画を偶然発見したという。特異な朝鮮の情緒や色づかいに惹きつけられたそうだ。そして、ピョンの生誕100年にあたる2016年に、韓国の国立現代美術館で大規模な回顧展が開催された。南北統一の実現に対し、想像力を呼び覚まして大きな注目を集めた。芸術家としてだけでなく、研究者、教育者としても大きな足跡を残したピョン・ウォルリョンの人生は、朝鮮半島の植民地化、戦争、分断、移民、イデオロギー対立など、複雑な人生で激動の20世紀の歴史と重なる。歴史に翻弄されながらも、芸術と人間性への信念を貫き、民族とは、アイデンティティとは、人間とは何かを問い続けた一生だった。

 

板門店での北朝鮮捕虜送還の見方

①タイトル
板門店での北朝鮮捕虜送還(はんもんてんでのきたちょうせんほりょそうかん)。原題:판문점에서의 북한 포로 송환。英題:Repatriation of North Korean Prisoners of War at Panmunjom (JSA: Joint Security Area)


②モチーフ
停戦協定を結んだ板門店、北朝鮮の捕虜、国連軍(アメリカ軍)、トラック、道、北朝鮮の国旗、標識、机、椅子、山、空。

 

③制作年
1953年。ピョン37歳。

 

④画材
キャンバス・油彩。

 

⑤サイズ
縦51.5×横71.0cm。

 

⑥構図
水平線の構図によって近景・中景・遠景と三分割の景色を描き、安定した奥行感のある構図を作っている。

 

⑦色彩
青、緑、茶、赤、灰、黒、白など多色。彩度の高い色彩と明暗のコントラストによって透明感を出している。

 

⑧技法
フランスの印象派の影響を受け、色彩と光の表現を重視しながら、ロシア特有の叙情性やリアリズムを加えたロシア印象主義の傾向が見られる。下地が見えている部分があり、スピード感のあるタッチが特徴的[図1]。社会の現実を描くレニングラード派★1 の理念に基づき、忠実な写実的手法と自由でダイナミックな表現を両立させている。

 

⑨サイン
画面右下に「Панмынчжон КНДР / Сентябрь 1953」(板門店 朝鮮民主主義人民共和国 / 9月 1953)と黒で署名。

 

⑩鑑賞のポイント
第二次世界大戦後のアメリカ・ソ連の対立を背景として、韓国と北朝鮮が1950年6月25日に衝突した朝鮮戦争は、1953年7月に休戦し、8月初旬には韓国と北朝鮮との共同警備区域、板門店で国連軍(アメリカ軍)と人民軍の捕虜交換が行なわれた。本作品はそれを取材した記録絵画である。当時「リトル・スイッチ」や「ビッグ・スイッチ」といった捕虜交換が行なわれ、数万人もの北朝鮮捕虜が国連軍の身元確認などの手続きを経て、北緯38度線★2 に近い軍事緩衝地帯を越えて送還された。朝鮮戦争の現実を間近で体験したピョン・ウォルリョンは、板門店へ出向き、休戦協定調印時に主要な争点となった捕虜交換の様子を、郷愁の念を抱きながら真摯なまなざしでリアルに描写した。対立から和解へ。夏の太陽が生み出す強い明暗と鮮やかな色彩が、歴史の悲劇とアイロニーを際立たせている。トラックで運ばれてきた北朝鮮の捕虜たちは「アメリカ(国連軍)からもらった服を着て祖国に帰れない」と言って、衣服を脱ぎ捨てた[図2]。その様子がはっきりと描かれている。戦争とは何か、国境とは何か。単なる記録画ではなく、民族分断による時代の痛みや人間の尊厳を表現したピョン・ウォルリョンの代表作のひとつである。

 

★1──ソ連時代(主に1930年代以降)にレニングラードで発展。19世紀ロシアの伝統的な写実主義の堅固なデッサン力や構成力をベースに、フランス印象派やポスト印象派に由来する明るい色彩、外光の表現、自由で力強いタッチを取り入れた点に大きな特徴がある。

★2──1945年の第二次世界大戦終結時、米ソが占領地域を分けるために引いた直線。1953年の朝鮮戦争の休戦協定によって新たに引き直された軍事境界線とは異なる。両線は交差する部分があり、現在の境界は軍事境界線となっている。

 

 


図1 スピード感のあるタッチ(《板門店での北朝鮮捕虜送還》部分)

 


図2 裸になった北朝鮮の捕虜たち(《板門店での北朝鮮捕虜送還》部分)

イデオロギー性の証明

喜多氏は《板門店での北朝鮮捕虜送還》の見どころは、「捕虜を乗せたトラックの流れ。向こうからこちらへ送られてきて、こっちはこっちで出発しようとしている。国連軍(韓国・アメリカなど)と人民軍(北朝鮮・中国など)の捕虜交換の絵だが、捕虜というのは必ず等価交換で、向こうから戻ってくるから、こちらも返すという決まりがある。しかし、ここには共和国旗しか見えないのが不思議。そして光の表現。眩しい光は北朝鮮の風土を意識していると思うが、戦争が終わった安堵感を感じさせてもいる。また板門店から見える山は、北朝鮮開城市(ケソンシ)のシンボル松岳山(ソンアクサン。標高約489m)かもしれない。あまり読み込み過ぎてもいけないが、故郷に対する画家の強い思いを感じる」と述べた。

また、ピョン・ウォルリョンは、国連軍と人民軍の代表が板門店で休戦署名をした会場として、《1953年の板門店休戦会談場》(1953、韓国・国立現代美術館蔵)という作品を描いている。誰もいない荒涼とした室内と、窓から差し込む明るい外光との対比の中に、その場の悲劇的な状況が感じられる。喜多氏は、この休戦調印をした会談場へ実際に行ってきたという。「絵のように窓があって広い会議室にテーブルが並び、テーブルクロスが掛けられて、その上に共和国旗と国連旗が並んでいた。国連軍は最初、調印式をテント内ですることを想定していたが、大事な調印事業をするこの場所を歴史的に残さないといけないと、人民軍は突貫工事で会談場を作ってしまった。ピョン・ウォルリョンは、その会談場を朝鮮戦争終結の場として描き残した。《板門店での北朝鮮捕虜送還》とセットで見ると現実味が増してくる」。

そして捕虜について、「裸でいるのは国連軍に捕まっていた人民軍の人たちで、ようはアメリカ軍に捕まっていて、捕虜収容所で支給されたものがアメリカのものだから全部脱ぎ捨てて、裸で帰ってきたという逸話がある。それを証明するかのような絵だと解説されているが、実際のところは人民軍だけでなく、国連軍も捕虜収容所から出てくるときに、全部服を脱ぎ捨てて帰ってきた。その映像も残っている。お互いが自分のイデオロギー性を証明するためにそうせざるを得なかったと思う。望ましい捕虜の在り方は何なのかを見せた姿でもある。世界で戦争が起こっている今の状況のなかで、先入観にとらわれずに《板門店での北朝鮮捕虜送還》から何を読み取るのかは、大切なことだと思う」と喜多氏は語った

 

喜多恵美子(きだ・えみこ)

大谷大学国際学部国際文化学科教授。1966年大阪府生まれ。1991年大阪大学人間科学部人間科学科卒業、1996年京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了、同大学院博士課程在学中に大韓民国政府招請奨学生として大韓民国弘益大学校大学院美術史学科に留学、2002年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位取得退学。2005年大谷大学文学部国際文化学科専任講師、のち現職。専門:朝鮮近現代美術史。所属学会:美術史学会、民族芸術学会、国際高麗学会、朝鮮史研究会、韓国近現代美術史学会(韓国)、美術史研究会(韓国)。主な賞歴:金復鎮美術理論賞受賞(韓国、2015 )。主な論文:「朝鮮民主主義人民共和国美術における女性表象——朝鮮女性をめぐる構造と権力関係:近現代を中心に」(『朝鮮史研究会論文集』第59集、朝鮮史研究会、2021)、「DPRKの朝鮮少年団表象研究(朝鮮語)」『人文科学研究』Vol.34、徳城女子大学人文科学研究所、2022)。主な著書・訳書:『「帝国」と美術——1930年代日本の対外美術戦略』(共著、国書刊行会、2010)、鄭炳模『KoreanArt Book 韓国の絵画』(共訳、藝耕、2011)など。

 

ピョン・ウォルリョン(변월룡・邊月龍・Pyŏn Wŏlryong:Пен Варлен・Pen Varlen)

ロシアの画家。1916~1990年。1916年9月29日、ソ連(現ロシア)の沿海地方シュコトフスキーにある朝鮮人集落の村で生まれる。1936年ウラジオストクで中等教育を終えた後、ウラル山脈近くのスヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)美術学校に転入。1940年レニングラードの全ロシア美術アカデミー(現イリヤ・レーピン名称サンクトペテルブルク国立絵画・彫刻・建築アカデミー)の絵画科に入学し、銅版画やリトグラフにも取り組む。1942-44年独ソ戦の影響により、美術アカデミーの教員や学生と共にウズベキスタンへ疎開、タシュケント国立出版社で政治ポスターを制作した。1944年同級生のゼルビゾワと結婚。1947年ソビエト連邦芸術家同盟の会員に選出される。オスミョルキン教授の指導の下、美術アカデミーを首席で卒業し、大学院へ進学。1950年イオガンソン教授に学び、美術アカデミーの大学院を修了。定期的に展覧会へ出品し始める。1951年美術アカデミーの素描科助手に就任し、素描の指導を開始。芸術学の博士号を取得。1953年素描科准教授となる。1953年6月から翌年9月まで、ソ連文化省の指示により北朝鮮を訪問し、平壌美術大学にて学部長および顧問を務めた。《板門店での北朝鮮捕虜送還》を制作。1954年北朝鮮から帰国後、美術アカデミーでの講義を​​続けるとともに、数多く展覧会へ出品し、精力的に活動した。1961年ヨーロッパや極東地域への旅行を開始。1977年美術アカデミーの素描科教授に昇進。1985年美術アカデミーを退職。1990年5月25日、レニングラードにて脳卒中のため死去。享年74歳。代表作:《板門店での北朝鮮捕虜送還》《舞踊家・崔承喜の肖像》《自画像》。《北朝鮮 金剛山(万物相)》など銅版画に優品が多い。

 

デジタル画像のメタデータ

タイトル:板門店での北朝鮮捕虜送還。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:ピョン・ウォルリョン《板門店での北朝鮮捕虜送還》1953年、キャンバス・油彩、51.5×71.0cm、韓国・国立現代美術館蔵。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:ピョン・ウォルリョン遺族、韓国・国立現代美術館、文永大、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Jpeg形式58.7MB、240dpi、8bit、RGB。資源識別子:PA-07916 변월룡 판문점에서의 북한 포로 송환(Jpeg形式58.7MB、240dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:韓国・国立現代美術館。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:ピョン・ウォルリョン遺族、韓国・国立現代美術館、(株)DNPアートコミュニケーションズ。

 

画像製作レポート

《板門店での北朝鮮捕虜送還》の画像は、作品を所蔵する韓国の国立現代美術館(MMCA)へメールで依頼した。画像の申請用紙と共に、著作権者の連絡先が返送されてきた。著作権者へ早々にメールで許諾依頼を送信する。著作権者の代理として、ピョン・ウォルリョンを発掘したとされる韓国の美術評論家・文永大氏より、著作権者との仲介をする旨の返信が届く。文氏へ企画概要と申請用紙を送信。しばらくして、著作権者から直接署名の入った申請用紙が送られてきた。その申請用紙をMMCAへ送り、1週間ほどで作品画像使用許諾書と一緒に画像が添付されてきた(Jpeg形式58.7MB、240dpi、8bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。無料、掲載期限なし。
Eye-One Display2(X-Rite)によって、iMac 21インチモニターを調整する。MMCAのWebサイトの画像を参考に、作品の色味を確認。とくに操作することはなかった(Jpeg形式58.7MB、240dpi、8bit、RGB)。また、MMCAの作品画像貸出しの窓口は、対応がスムーズで良かった。MMCAと著作権者とのコミュニケーションが密接に取れていると推察した。貸出条件は「作品の所蔵館名(MMCA)を明記し、目的外利用や第三者への譲渡を禁止、成果物を美術館へ提出する。」。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。 

 

参考文献

・喜多恵美子「朝鮮美術展覧会と朝鮮における「美術」受容」(『大谷学報 第八十八巻第一号』、大谷学会、2008.12.10、pp.30-54)
・図録『PEN VARLEN 1916-1990』(National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea、2016.3.11)
・Mok Soo-hyun「KOREAN-RUSSIAN ARTIST BYUN WOL-RYONG」(『Koreana KOREAN CULTURE & ARTS』Vol30,No.2、KOREA FOUNDATION、2016 summer、pp.44-49)
・喜多恵美子「南北分断と朝鮮民主主義人民共和国の美術」(『東京大学コリア・コロキュアム講演記録』、東京大学大学院人文社会系研究科韓国朝鮮文化研究室、2019.3.31、pp.115-128)
・喜多恵美子「新しい「朝鮮画」 主体美論の実践」(『エリア・スタディーズ53 北朝鮮を知るための55章【第2版】』、明石書店、2019.4.25、pp.237-241)
・洪善杓著、稲葉真以・米津篤八訳『韓国近代美術史 甲午改革から1950年代まで』(東京大学出版会、2019.9.26)
・文凡綱著、白凛訳『平壌美術 朝鮮画の正体』(青土社、2021.2.25)
・文永大『변월룡(芸術家の肖像 2:邊月龍)』(Ahn Graphics、2021.4.29)
・喜多恵美子「朝鮮美術展覧会と在朝鮮日本人美術家」(『「いつもとなりにいるから:日本と韓国、アートの80年」関連シンポジウム記録集』、横浜美術館、2026.3.31、pp.4-16)
・喜多恵美子「韓国・朝鮮美術史 「視覚」と「思索」のはざまで」(『シリーズ地域研究のすすめ⑤ ようこそ韓国・朝鮮世界へ』、昭和堂、2026.5.1、pp.201-213)
・Webサイト:「Varlen Pen」(『Wikipedia』)2026.8.5閲覧(https://en.wikipedia.org/wiki/Varlen_Pen
・Webサイト:「The Reclaimed Genius Artist, Byun Wol-ryong (Pen Varlen)」(『Hakgojae Gallery』))2026.8.5閲覧(http://www.hakgojae.com/page/1-3-view.php?exhibition_num=346
・Webサイト:「辺月竜(ピョン・ウォルリョン) 1916~1990」(『National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea』))2026.8.5閲覧(https://www.mmca.go.kr/jpn/exhibitions/exhibitionsDetail.do?menuId=1030000000&exhId=201603090000400
・Webサイト:「Byun Wol-ryong (Пен Варлен) 1916~1990」(『National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea』)2026.8.5閲覧(https://www.mmca.go.kr/exhibitions/exhibitionsDetail.do?menuId=1030000000&exhId=201602040000391&exhFlag=2

 

2026年8月