artscapeレビュー

川口隆夫ソロダンスパフォーマンス『大野一雄について』

2015年12月15日号

会期:2015/11/28

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

故・大野一雄の残された公演の記録映像から、川口隆夫が動きを分析して再現し、「完全コピー」を試みるという公演。土方巽の演出による大野の代表的な3作品、『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)、『私のお母さん』(1981年)、『死海、ウィンナーワルツと幽霊』(1985年)、そして1969年の映画『O氏の肖像』が参照された。
冒頭、劇場のバックステージに通された観客は、ブルーシートや木の枝、ホースや脚立、ペットボトルや雑多なゴミと戯れる川口の姿を目撃する。観客も巻き込んで無邪気にゴミと戯れる川口は、突然、服を脱ぐとゴミを身にまとい、着ぶくれしたホームレスのような奇怪な姿で劇場の中へ姿を消した。鳴り響くバッハのオルガン曲と「『ラ・アルヘンチーナ頌』 1977年 死と誕生」という字幕。観客は舞台上に仮設された席に案内され、空っぽの劇場の客席に向かい合う。その闇の中から、ゴミを脱ぎ捨て、生の身体を露わにした川口が現われる。『ラ・アルヘンチーナ頌』が約10年間、舞台公演から遠ざかっていた大野の「復帰」公演であったこと、ジュネの戯曲を参照して土方が与えた「年老いて病んだ男娼」という役柄、そして川口の身体へと再び召喚される大野……複数の「復活」の意味が重層的にはらまれた、印象的な幕開けだ。舞台上には、ラックに掛けられたさまざまな舞台衣裳、帽子や靴などの小道具、全身を映すスタンドミラーが用意されている。川口は、舞台上で着替えやメイクを行ないながら、各10分ほどの抜粋されたシーンを次々と踊っていく。手に持った一輪の花を力強く天に捧げる、磔刑のようなポーズでグランドピアノにもたれかかり、息絶え絶えに肺を上下させる、哀愁を帯びたタンゴの調べとともに無邪気な幼女のように軽やかに舞いながら、何かを探し求めるかのように両手を震わせる……。
ここで、「大野一雄の完全コピー」という企てに挑む川口は、それが単なる「精巧なモノマネ」の域に堕さぬよう、「作品」として成立させるために、いくつかのメタ的な仕掛けを戦略的に展開している。まず、観客自身を舞台に上げ、空っぽの客席に相対させることで、劇場という空間の虚構性を否応なしに意識させる。また、「冒頭で川口自身の肉体を観客の目にさらす」「衣装の着替えやメイクという変身のプロセスを舞台上で見せる」ことによって、「ここで踊っているのは大野一雄です(ということにしてあります)」と記号的に了解することを妨げる。つまり、「川口隆夫」という身体の固有性を消去して見るのではなく、「川口隆夫」という身体の肉体的現前とここにはいない不在の大野とを常に二重写しになった状態で見るように要請するのだ。だがそれは完全に一致することはない。大野という強烈な個性を持った肉体の特異性に加えて、即興性や「加齢・老齢」というファクターも存在するからだ。したがって川口の試みは、大野一雄という固有の強烈な肉体を離れても、その「振付」の強度の持続は可能かという問いへと向かう。そのエッセンスを抽出するために、記録映像から川口が描き起こした、ポーズのデッサンに詳細なメモが付された舞踏譜も展示された。
振付の強度を抽出する川口の実験的な試みは、「大野一雄」を脱神話化しつつ、現実の時空間の中に再び受肉化するという両義的な性格をはらんでいる。本人からの「振り写し」ではなく、記録映像という媒体を通した客観化・解体の作業は、「魂」「宇宙」といった内面論・精神論や「大野自身の語った言葉」の呪縛からダンスを解き放つ試みでもある。それはまた、オリジナル/コピーという二元論(およびそこに付随する質的判断)を超えて、もはや映像の中にしか存在しない大野の踊りを、ふたたび今・ここへと受肉化する試みであり、生身の肉体的現前によってその都度命を吹き込まれる舞台芸術の原理性そのものを照らし出す。さらには、「型の反復や身体的トレースによる本質の会得」という点では、コンテンポラリーダンスと古典芸能の隔たりを架橋する観点を提出するものと言えるだろう。
このように、川口の作品は、「オリジナルとコピー」「型の反復、身体的トレース」「コンテンポラリーダンスと古典芸能」「振付という概念」「舞台芸術とアーカイブ(映像)」「一回性と複製」など、身体的パフォーマンスに関する広大な問題圏を提示するという意味で、優れてメタダンス的な作品である。

2015/11/28(土)(高嶋慈)

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