
会期:2026/04/25~2026/09/06
会場:金沢21世紀美術館[石川県]
公式サイト:https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=65&d=1852
本レビューは、「路上と表現・公共性」をテーマに、前編・中編・後編のシリーズで構成される。「路上、お邪魔ですか?」展を起点とし、同時期開催で相補的な内容のコレクション展を経由しながら、前者の根幹に関わる批判を元に、路上と表現・公共性についてジェンダーやセクシュアリティの視点から掘り下げて考える。
「路上、お邪魔ですか?」展は、1986年に赤瀬川原平や藤森照信らが結成した「路上観察学会」の創設40周年を記念し、開かれた公共空間における「自由」と、管理や排除の権力が共存・衝突する空間として「路上」を捉え直す企画展である。路上観察学会や日本最古とされる大正時代の道路標識といった資料展示に加え、現代美術、テレビゲーム、銭湯(廃業した銭湯の部材で再構成した山車)、大道芸人など、多面的なアプローチが特徴だ。

路上観察学会 「路上、お邪魔ですか?」展示風景 金沢21世紀美術館(2026)[撮影:森田兼次 写真提供:金沢21世紀美術館]
「路上は誰のものか?」という公共性の問題を、歴史的視座も含めて考える本展の姿勢は意義深く、示唆に富む(一方、後述するように、ホワイトキューブがはらむ構造的な困難とジレンマも露呈する)。山田脩二のモノクロ写真は、1969年、ヴェトナム反戦運動を訴える若者たちが集った新宿駅西口広場の熱狂を、まさに渦を巻くような広場の螺旋構造とともに写し取っている。だが、警察との衝突が相次いだため、行政はこの広場を「通路」と再定義して集会や抗議運動を排除した。1990年代、この「通路」の地下には、不況を受けて失業者が集まり、立ち並ぶダンボールハウスにアーティストが絵を描く活動も始まる。1998年の不審火による火災と再開発によって失われた路上生活者たちの光景を記録したのが、迫川尚子のモノクロ写真である。あるダンボールハウスの一面に書かれた抗議文を読むと、高度経済成長期からバブル期に建築業の労働者として働き、バブル崩壊後の不況の影響で路上生活を余儀なくされた人生には、戦後日本の構造的矛盾が圧縮されていることがわかる。

迫川尚子《お面をかぶっておどける新城さん。沖縄出身。右翼の街宣車だろうか。君が代が流れると頭をかかえてうずくまった。1996年8月》[© 迫川尚子 写真提供:金沢21世紀美術館]
路上は、デモや抗議活動、グラフィティ、ゲリラ的なパフォーマンスなどに開かれた空間である一方、交通ルールに加え、自由の拡張と権力による介入がせめぎ合う緩衝地帯でもある。こうした両義性に着目し、美術館における公共性と管理の権力を問い直したのが、Chim↑Pom from Smappa!Groupが2017年に台北の国立台湾美術館で行なった《道》である。美術館前の公道をアスファルトで200メートル延長し、敷地から美術館内の展示室まで貫通する一本の「道」をつくり、美術館では通常規制されるデモや飲食、パフォーマンスなどを行なえる空間とした。ただし本展では、金沢21世紀美術館内に新たな「道」は造成されず、模型、ステートメント、美術館と交渉した書類、記録映像などの資料が展示された。

Chim↑Pom from Smappa!Group《道/模型》(2017-2018) 「路上、お邪魔ですか?」展示風景 金沢21世紀美術館(2026)[撮影:森田兼次 写真提供:金沢21世紀美術館]
Chim↑Pom from Smappa!Groupが海外で行なった事例を紹介することの意義はある(ただし、2022年に森美術館で開催された彼らの個展でも紹介されている)。だが、なぜ、金沢21世紀美術館では「道をつくること」ができなかったのだろうか。ここに顕著なのは、「開かれた公共空間としての路上の自由さ」を提示しようとする展覧会それ自体が、規律や管理の場として立ち現われてしまっている、という矛盾や限界である。また、《道》の資料展示にとどまらず、本展が抱える構造的な問題として、そもそも「路上でなされた表現」をホワイトキューブに持ち込んで展示(再現)することの困難さやジレンマがある。美術館という制度への文脈の移し替えや、記録資料の形で見せることで、その表現が本来持っていたラディカルな姿勢が希薄化され、安全に鑑賞可能なものに飼い慣らされてしまう。
例えば、クシシュトフ・ヴォディチコの《ポリスカー》は、ニューヨークの路上生活者たちに戦車のような形の装置を提供し、エンパイア・ステート・ビルに立てた電波塔で互いに通信できるネットワークを備えることで、新たな「都市(ポリス)」を立ち上げようとする試みである。シェルター、移動装置、排除された者たちのネットワーク形成という多機能性を備えた《ポリスカー》は、戦車のキャタピラーのような形態や尖った通信塔をもつことで、「快適な都市生活のために誰が排除され、攻撃の対象となるのか」という力学を逆説的に可視化する。路上でこそ本来の機動性と批評性を発揮する本作だが、「ホワイトキューブの展示室」では、操縦者の身体は不在で、動かすことも禁じられ、記録写真とともに「彫刻」然として提示されてしまう。

クシシュトフ・ヴォディチコ《ポリスカー》(1991) 「路上、お邪魔ですか?」展示風景 金沢21世紀美術館 (2026)[撮影:森田兼次 写真提供:金沢21世紀美術館]
加えて、本展に通底するトーンとして、失われゆく(失われてしまった)昭和的な過去へのノスタルジーが濃厚に感じられた。路上観察学会のメンバーたちが「記録」「収集」した、効率性や合理性から逸脱したモノたちと、色あせた写真や手書きノート。かつて多くの公園に存在した遊具、グローブジャングル(回転する球形ジャングルジム)を映像投影装置に見立てた鈴木康広。創作舞踊を学び、昭和43(1968)年から「大道芸人」として路上で踊り続けるギリヤーク尼ヶ崎。登場人物2人の何気ない会話の背景に、店舗が移り変わり、郷愁あふれる街頭風景を緻密に描き込むpanpanyaの漫画。1970年代に、路上で遊ぶ子どもたちやたむろする若者をスナップで捉えた児玉房子のモノクロ写真。廃業した銭湯から、看板、のれん、ロッカー、カラン、煙突といった部材を譲り受けて山車に作り替え、《銭湯山車》として路上を練り歩く「銭湯山車巡行部」の活動。

鈴木康広《遊具の透視法》(2001) 「路上、お邪魔ですか?」展示風景 金沢21世紀美術館(2026)[撮影:森田兼次 写真提供:金沢21世紀美術館]

銭湯山車巡行部《銭湯山車》(2021-) 「路上、お邪魔ですか?」展示風景 金沢21世紀美術館(2026)[撮影:森田兼次 写真提供:金沢21世紀美術館]
「路上」および「歩行」という行為がはらむ政治性や批評性については、むしろ、同時期開催の「コレクション展 歩く、とどまる」の出品作を見ることで補完されていた。本シリーズの中編では、コレクション展に焦点を当てる。
また、本展のステートメントには、2020年に渋谷で起きた路上生活者殺害事件について、「彼女が邪魔だった」という加害者の言葉とともに言及されている。この発言には、路上生活者の排除に加えて、フェミサイドの側面も読み取られるべきだろう。だが、この発言を参照したタイトルを掲げた本展では、「路上」と深く関わるジェンダーの視点がまったく欠落しており、展示自体において「ホームレスの女性」は透明化・排除されている(後編で詳述するが、ホームレスの女性という何重にも周縁化された存在について、当事者が制作した現代美術作品は存在する)。路上は、自由や意思表明の象徴的空間であると同時に、管理や排除の権力が行使される場でもある。そして路上を取り締まる「管理や排除の権力」は、「ふさわしい」「あるべき」とされるジェンダー表現が、不特定多数の視線によって(ほぼ無意識に)厳しく監視される事態も含んでいる。シリーズの後編では、本展出品作以外の作品や論考にも射程を広げ、ジェンダーとセクシュアリティの視点から「路上」について考える。
鑑賞日:2026/06/20(土)
(中編へ)※8/6公開予定