宮城県南部、蔵王山脈のふもとの町に移住して一年が経とうとしている。2011年に仙台に引っ越し、震災後の時間の多くをおもに都市部で過ごしたが、2020年に一年半、メキシコのオアハカという町で暮らした。そして帰国後、子どもを授かったあと一人親となり、自然のなかでのびのびと、そして地域のコミュニティに関わり合いながら(助けてもらいながら)子育てしたいという思いが強くなっていった。
車窓から見える近隣の風景。田畑がどこまでも広がる
このあたりからの眺め
いま暮らしている町は人口7,000人ほどで、近所には、居酒屋一軒、八百屋一軒、酒屋一軒……という感じで、かつての賑わいを感じさせる路面沿いの店舗は軒並みシャッターがおりていて空き家も目立つ。大きな道路に面していないことや鉄道がないためにチェーン店などはなく、近くの公園に遊具はない。かわりに土管の埋まった小さな山がある。
ここに暮らしてみるまでは、正直なところ、少し寂しい空気を感じていた。しかし、晴れた日には遠くに蔵王山脈が見渡せて、草原には季節ごとにさまざまな野花や虫たちがあらわれる。お年寄りは、採れたての野菜を「食べて」と戸口までよく持ってきてくれる。周囲には、田畑がどこまでも広がり、空は高く、山間には公衆浴場や温泉がある。タクシー会社が撤退してからは、メキシコでよく乗ったコレクティーボのような乗合バンが町民の足となり走っている。2011年の震災よりももっと前から、この町の過疎は進んでいたのだと実感する。
このような風景のなかを歩いていると、繰り返し頭に浮かんでくるテキストがある。それは写真家の畠山直哉氏によって書かれた「地方のアクチュアリティ──このあたりからの眺め」だ。畠山氏は、関東から東北へと車を走らせながら、一見すると何もないように見える地方の風景のなかにも、人々の生の営みが確かにあることについて書いている。都会的な尺度から見ると、そこには分かりやすい産業も、華やかな文化もないように見える。けれど、人はそこで働き、家族を養い、記憶を積み重ね、日々を生きている。そして畠山氏は、このテキストの最後に芸術について、こんな問いを投げかける。
芸術作品とは「活発な生」に咲く花のようなものだ。その花を前にすると、心の中で何かが凝固し、その瞬間に僕たちの生がいっそう充実する。このあたりにも、そんな花が咲いていなかっただろうか。都会の人が思い描くような、分かりやすく派手な花に似ている必要はない。「これが花なのか」とかれらが勝手に驚くような、そんな花が咲いていなかっただろうか。
畠山直哉「地方のアクチュアリティ──このあたりからの眺め」(『つくる〈公共〉50のコンセプト』岩波書店、2023、p.83)
私は震災後、東北でどこかそのような表現を探し続けてきたような気がする。それは、何か特別な才能を持った人の作品だけではなく、誰かの日々の営みのなかにひっそりと存在し、その人の生を確実に支えているもの。そして、そうした生の土壌となるような場だ。
この町に移り住んで驚いたことがある。「自分たちのことは自分たちでやる」という自治の空気を感じることがたびたびあったからだ。年に二回ある町内一斉清掃で、町民全員が草取りや側溝の掃除を共同でやる。隣組で葬儀を手伝い合うこともある。ここに移住してから知った町民の役割も関係していると思うが、そればかりではない。
町内の廃校を利用したワイナリーやピザ屋など、役割を変えながら建物を利活用している場所もあれば、ここはなに? と思うような場所もある。移住して知った、驚きのある小さな場所について、今回はレポートしたい。
PIKO HOUSE
ひとつめは、「PIKO HOUSE」。町医者の目の前という立地から、かつては駄菓子や日用品を扱う商店で、病院の待合室の延長のような場所として機能していたそうだ。ガラス戸を開けると、コンクリートの土間が広がっている。商売を畳んだその建物を、10年前に借りて暮らし始めたのが、ニュイさんとリサさんだ。

ニュイさん(左)とリサさん(右)。「世間の“古民家”イメージから趣深さのようなものを取り去った、ただの古い家を空き家バンクで借りて、少しずつ適当に直しながら住んでいる」とリサさんは笑う

「PIKO HOUSE」の外観
日が暮れると真っ暗になるこの町で、ポツリと明かりが灯っていたのに驚き、足がとまった。初めて訪れた日は、町内のお祭りの打ち上げかなにかをやっていた日で、棚にたくさんの本が並んでいるのが印象的だった。本について尋ねると、売り物ではなくニュイさんがかつて仙台駅近くの学習塾や予備校で講師をしていた時期のものだと教えてくれた。比較的裕福な家庭の子たちに勉強を教えていたが、いじめや虐待、リストカットなど子どもたちをめぐるさまざまな問題に直面する日々だったという。
「学校自体が同情するほどにホワイト化していて、リスクヘッジばかりが強化されている。このまま行きすぎると社会が壊れると思ったし、白黒ばかりで判断して、社会にグレーゾーンがどんどんなくなっていると感じた」
そう話すニュイさんは、都市部での核家族の限界や、郊外の住宅地で子育てしていた自身の母親が家庭内で苦労していたことなどを思い返したという。
2011年の震災を経て、塾講師の立場としてできることが少ないと感じ、東北大学で建築を学びなおす過程で、文化人類学を学んでいたリサさんと出会った。震災後は、リサさんを含む仲間たちと宮城から福島まで片道5、6時間かけてコミュニティ再生の支援活動のために通っていたそうだ。道中、これまでの生活や社会の違和感についてとにかく仲間たちとたくさん話したという。そのような時間が、「PIKO HOUSE」のような場をつくることにつながっていった。
「PIKO HOUSE」には看板がなく、なにをする場所かということも説明されていない。ある人は、「たまにひらく食堂」だと言い、またある人は「勉強を教えてくれる私塾」だと言う。宮城県南という立地から震災後に、福島からの移住者や沿岸部からの移住者も増えた。またスリランカ人の家族や南アフリカ人の大工など、この町に暮らす外国籍の人たちも立ち寄る。町の寄り合い所のような雰囲気もあるが、ひとり、またひとりと集まってくる人たちは、言葉を選ばずに言えば、どこか「はぐれ者」の風情がある。そんなことを話していると、ニュイさんが言った。
「僕自身もよく引きこもっていたような弱い存在で、どこかはぐれて生きてきた。だから、自分でも行きたくなる場所をつくりたかった」
さらにこう続ける。
「震災復興の過程でも思い知ったことだけれど、問題に対してすぐに解決しようとしがち。でも、一緒にごはんを食べながら、ただ話すとか、ただ愚痴るとかがすごく大事で。そういう時間を過ごすことで、人も社会ももう少し多面的に見えてくるし、大きなことはできなくても、ちょっとずつ動かしていくことはできると思う」

若い農家の友人が「キャベツが寒さで凍みてしまいスーパーなどに出荷できず廃棄しなくちゃならない」とぼやくのを聞き、キャベツ100球を引き受け、お客さんに事情を説明しながら販売することを試みた。近所の友人の店の軒先を借りて、無事に完売
「PIKO HOUSE」は、1年ほど前から、「一七夜市」を始めた。毎月1日から7日までの夕刻に開き、日替わりの食事を出している。この町の農家から持ち寄られた食材や、スリランカ人家族から託されたスパイス、リサさんが仕込んだ保存食なども使った、子どもも大人も食べられる料理がとても良心的な価格で提供される。

妊婦さんから60代まで。近隣から子どもも大人も集まる一七夜市。テイクアウトする人も皿を片手に立ち寄る
「値段を高くしないのは、期間中、毎日来てほしいから。かといって行列のできるようなことは目指していないから、味もほどほどでいいと思ってる。といっても、近隣の顔見知りの人たちがつくった採れたての食材は最高だから、美味しいんだけどね」
とリサさん。
「農家など食糧をつくっている人から、いろんな知恵や技術を持っている人、さまざまなDIYの道具を持っている人など、いろんなつながりが生まれた。例えば、もしまた大きな災害がおきても、なんとかなるかもといまなら思える」
ニュイさんはそう語る。生きていくことの土台が、震災後の小さな工夫と生活の実践で少しずつ積みあげられていることを感じる。
絵本の広場
この町への移住を考えていたとき、大家さんに教えてもらったのが、「絵本の広場」だった。閉園した保育園を利活用している自主運営のこの図書館は、もとは、震災時に被災地の子どもたちに絵本を届ける活動のベースキャンプだった。震災の翌年からこの活動にボランティアとしてかかわるようになり、以後、この場所を切り盛りしているのが、マキさんだ。

秋田出身のマキさんは、山形での生活を経て、25年前にこの宮城県南のこの町に移住した
「震災当時は、2歳と5歳の子どもがいたのですが、翌年にこの場所がなくなるかもしれないと聞き、ボランティアとして運営にフルタイムでかかわるようになりました。以後、15年間この場を開け続けてきて、今年から自主運営に移行しました。といっても、外の人から見たら、ずーっと私が開け続けてるから、とくに変わったことはありません」そう言って笑う。周囲には、次第に運営を手伝ってくれる大人も増えていった。

部屋の真ん中には大きなソファがあり、炊飯器にはご飯が炊いてあり、ポットにはお湯が沸かしてある
絵本や児童書、漫画以外にも、おもちゃやドラムセット、色鉛筆やスケッチブック、卓球台などもあり、さまざまな年齢の子どもたちがやってくる。あいさつとあとかたづけをすることだけがルール。あとはなにをして過ごしてもいいので、子どもたちは思い思いにたのしみを見つけ、没頭している。
「広場にやってくるお母さんのなかには、疲れ切っていて、ちょっと昼寝させて……という人もいます。田舎は家出しても行く場所がありません。でも、子どもも大人もちょっと家出したいときってありますよね。だから、誰でも利用できて、いつでも開いていて、誰かがいて、暖かくて、ご飯が食べられて、本がたくさんあって、気が向いたら子どもも手伝える仕事がある場所でありたいです」
とマキさんは話す。入口にはマキさんの携帯番号が貼られている。
私自身、子どもが生まれてから児童館や公園などに出かけることはかなり増えたけれど、大人もくつろいでいいと言ってもらえる場所に出会えたことはほとんどない。
初めてここを訪れたとき、「まずは、ほっと一息」とマキさんのイラストが添えられた棚からインスタントコーヒーを淹れ、読む時間はないのに諦めきれずバッグにしまい込んでいた本を引っ張り出してソファに腰掛け、本のページをめくった。そのとき、大げさではなく涙が出た。
絵本の広場では、利用する人たちとマキさんの発案で、ときどきに部活もたちあがる。子どもたちを中心とした「工作部」や「野球部」などもあれば、「食堂部」では、小さなじゃがいもや採れすぎたキュウリや柿などが近隣から持ち寄られると、子どもも大人も一緒にそれをつかってみんなで料理したり保存食をつくったりする。

一人暮らしのおばあさんや、核家族の子どもたちなどが、家族の枠を超えて「美味しい干し柿をつくるため」に集まる
また、「夜なべ部」などもあり、入園・入学のシーズンに持ち物にたくさんの名前書きやゼッケン付けなど一人でやるとしんどくなる作業を、みんなでおしゃべりしながらやるというものまである。
マキさんはこの場所の運営費を捻出するために、「猫の手サービス」もおこなっている。小学校や保育園への「お迎え代行」や「犬のお散歩代行」、「引っ越し」、バッテリー上がりなどに対応する「ロードサービス」や「草刈り」「包丁研ぎ」など、そのサービス内容は痒い所に手の届くものばかりで、頼りにしている人は多い。私自身はまだ利用したことはないものの、こういうことをお願いできる人がいると知るだけで、肩の荷がだいぶ軽くなった。また、本以外にも、芋煮用の大鍋や炊飯器、かき氷機などの貸し出しもおこなっている。

「絵本の広場」の運営費に充てるため、射的屋として近隣のお祭りやマルシェなどに出店することもある。景品には、朝採れ野菜も並ぶ
「小さい頃から収集癖があり、『また物を拾ってきて!』と親に怒られたけど、大人になったいまは、集めてきたものでみんなが遊んだり、射的の景品にしたり……と愉しいです」と笑うマキさんは、自ら率先して子どもでいるようにも見える。
コロナ禍では、ほとんどの公共施設が閉まるなか、遊んだり集ったりする場がなくなり、マキさんにもたびたびその声が届いたという。それならば、と「出張 絵本の広場」を思い立ち、絵本だけでなく、カヌーやライフジャケット、キャンピングチェアなども運んで、川辺や森で場を開いたこともあるそうだ。

コロナ禍でひらかれた「出張 絵本の広場」
ここまで書いてきて、地域づくりや社会包摂、ケア、コンヴィヴィアリティ……などの切り口で語れることは多分にあるが、「PIKO HOUSE」でも「絵本の広場」でもそのような言葉遣いを聞いたことがない。どこまでも隣の人を助ける手つきで、個人から発想されたことを、地域で実践している。そして、ふたつの場に共通しているのは、人も時間もゆったりしていることと、SNSにはほとんど浮上してこないことだ。
ふたつの場でこのような言葉を聞くとき、メキシコ・オアハカのアーティストたちのことを思い出す。彼/彼女らは、アーティストとしての仕事以外にも、コミュニティのなかでさまざまな「働き」を担っていた。そして、外国人としてメキシコで暮らしていた、いわば、コミュニティの外にいる私にもたくさん手を貸してくれた。
オアハカのアーティストに、ある日、日本語を教えて欲しいと頼まれた。「なにしてるの?」と聞かれたら、「なにもしてない」と答えたいと言われたときは、笑ってしまったけれど、それが暇や怠惰を意味することではないことを暮らしを共にするなかで知っていった。そこには、「いつでもあなたに応じられるよ」という受け入れの姿勢があった。
はぐれ者たちのはたらき
震災後、PUMPQUAKESというコレクティブを仲間たちと仙台で立ち上げた。その根底にあったのは、震災の「揺れ(QUAKES)」を、別の「鼓動(PUMP)」に変えていきたいという願いだった。そのPUMPQUAKESから、今年は在野の民話採訪者・小野和子さんの『みちのく民話まんだら――民話のなかの女たち』(増補新装版)と『みちのく民話まんだら――民話のなかの男たち』(初版)を出版した。
完成した本は、「PIKO HOUSE」と「絵本の広場」にも寄贈させてもらった
とくに『――男たち』のほうは、家父長制のもとで土地や家を継ぐことができなかった農家の次三男などが、主人公に据えられる。彼らは寄る辺なくさまよい、寺の小僧や、猟師、博打打ち、芸術家など、はぐれながらもなんとか生き抜いていく。
と著者の小野さんは語る。しかし
と小野さんは言い添えることを忘れない。
考えてみると、「PIKO HOUSE」も「絵本の広場」もどこか既存の尺度からは、はみ出している。そして、畠山氏が書いた「都会的な尺度」という言葉を、私はいま、都市と地方の違いとしてではなく、私たちが何に目を向けようとしているのか、という問いとして読み返している。効率よく問題を解決すること。専門性を持つこと。名前のある仕事をすること。そうした尺度から少し外れたところに、誰かの生を支える営みがある。けれど、それらは必ずしも、何かの成果として数えられたり、名前を与えられたりするものではない。
例えば、「PIKO HOUSE」や「絵本の広場」で起きていることを、「ソーシャリー・エンゲージド・アート」と呼ぶこともできるだろう。けれど、ここにいる人たちは、そうした言葉を掲げるのではなく、目の前の誰かとごはんを食べ、話を聞き、手を貸しながら、それぞれのやり方で場を開いている。
オアハカで出会った「いつでもあなたに応じられるよ」という姿勢も、小野さんのいう「はぐれ者たちが居てこそ、世界はまわっている」という言葉も、どこかでつながっているように思う。既存の役割や尺度から少しはみ出した人たちがいて、その人たちが互いに応じられる余地があること。そこから生まれるものを、私たちはどのように見つけ、受け取り、応じることができるだろうか。
畠山氏は、「このあたりにも、そんな花が咲いていなかっただろうか」と書いていた。 その問いを思い出しながら、私はいまもこの町を歩いている。何を花と呼ぶのかは、まだよくわからない。ただ、ときどき、足を止めたくなるようなものに出会う。誰かが誰かに応じる、そのささやかな手つき。震災後の日々に問い直されてきたことが、そうした営みのなかに根づいているようで、うれしくなるのだ。