「手を動かせ。本物を見ろ。哲学しろ。」色に直接関係ない言葉が印象的だった。来年度から独立行政法人となる電気通信大学の小林光夫教授(以下、小林氏)は、計数工学の出身で色彩の研究者である。聞きなれない計数という単語を辞書で引くと計算することと出ていた。同じ項目にある計数型(数値を離散的な記号の列として表現し、これによって演算を行う方式)の説明にはdigitalの訳語とも書かれてあった。数理と物理を基礎として各現象を情報やシステムの観点から研究し、世の中に役立つ生産物を得る技術と捉えればよいだろうか。英語では計数工学をMathematical
Engineering and Information Physicsとあてている。研究の例としては、アルゴリズム、カオス、オブジェクト指向言語、脳機能計測、センサフュージョン、知能ロボット、バーチャルリアリティなど様々な分野が挙げられる。
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作品の色をデジタル化し、
数値に置き換えて研究を行う小林光夫氏 |
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この高度な専門的計算を相手にしていた小林氏が研究対象を色に集約したのは、コンピュータが色を扱えるようになったいまから15年ほど前からだ。子供のころから絵を習っていた小林氏は色の使い方を覚え、自由を感じた。この体験が色の研究をする決心に繋がった。マレーヴィッチ、ジャン・コクトー、ニコラ・プッサン、ジオット、モネなど絵が好きで、絵描きに対しても尊敬の念を抱いている。勤務する電気通信大学と資料の測定などに通う国立歴史民俗博物館で色彩学、色彩科学、色彩工学、色彩情報処理、色彩美学の研究に取り組んでいる。現在の研究は以下の5つに分類される。1.
コンピュータや種々のメディアで正しく色を取り扱うための色再現の研究 2. 種々の表色系間の関連付けの研究 3. 絵画やデザインの配色と色彩構成の科学的な分析(色彩分析)の研究 4.
色彩分析のためのソフトウェアの開発研究 5. 色彩情報の保存と活用の研究である。これらの研究により、人間の色に対する共通の感じ方を科学的に解明し、生活に役立たせることを可能にする。日本にはおよそ1,000くらいの色名があるらしいが、各民族の色名数には差がある。どの民族も色は見えているが、認識と言語表現は一致していないので、コミュニケーションが取れない場合があるという。さらに、同じ民族が同じ場所で同じ時刻に同じ色(例えば、桜の花の色は桃色、ピンク、薄赤紫、白など)を見ていても感じ方が異なる。人によって表現がかわり、本当に同じ色を見ているのか分からない状況が生まれる。そこで、色を数字に置き換えて科学的な分析を行ない標準化や表色系(色を定量的に表す体系)などの基準を設けて、正確なコミュニケーションを行えるように考えている。
私が小林氏と出会ったのは、2000年の情報処理学会「人文科学とコンピュータシンポジウム」での「復元染布による“江戸の色”の計量的色彩分析」を発表されているときが最初だったと思う。江戸時代の復元染布資料の調査から江戸の色の特徴をNCS表色系(Natural
Color System)*1などを用いて解説されていた。この色を判別するための表色系は色票に基づくマンセル表色系*2やPCCS(Practical Color
Co-ordinate System)*3などと、混色に基づく国際照明委員会(CIE:Commission
Internationale de l'Eclairage)によって定められたCIEXYZ表色系*4やCIELAB表色系*5など10種類以上あり、用途に応じて使い分けられている。また、他の分類として言語レベル(PCCSヒュー・トーン、JIS系統色名)、心理レベル(PCCS、マンセル、NCS)、物理レベル(NTSC-RGB、EBU-RGB、sRGB*6など)、心理物理レベル(CIELUV、CIELAB、OSA-UCS、CIEXYZ、CIECAM97s*7)というのもある。
色の世界は光の世界でもあり、物理(光の分光反射率など)、化学(顔料・染料の性質など)、心理(意識的側面を現象から読むなど)、生理(眼の構造など)など各分野でも論点が異なり、定義しづらい。アリストテレス、ニュートン、ゲーテ、シュヴルール、ヘルムホルツ、オストワルトなど歴史上の名だたる学者たちが長い時間をかけて研究しても、いまだ色の世界は完全に解明されてはいない。日本色彩学会を構成している研究者の専門分野を見てみると、その色の世界の多様さが実感できる。応用物理学(光学、照明学、測色学)、生理学(感覚生理学、大脳生理学)、化学、心理学(認知、応用心理学を含む)、電子工学、情報工学、印刷工学、映像工学、人間工学、建築工学、デザイン学、文化人類学、社会学、芸術学、文化財保存科学、教育学、生態学、環境学等に関わる色彩科学諸分野とその総合研究、及び実践活用における審美的、機能的色彩デザインの諸分野などである。
文化財などのデジタルアーカイブにおけるカラーマネジメントについて小林氏は、RGBで取得した画像をCIEXYZ表色系に変換して保存をしている。それは、RGBの値が機械に依存しているので、いつ使用不可能になるかわからず、国際標準になる可能性もないという理由からだ。このRGBからXYZへの変換ソフトは自作のものであるそうだ。計数工学を色の研究のため、とりわけ芸術・文化的資料に有効に活用している点が小林氏の特徴であろう。他方、写真撮影時の忠告として、作品や資料には標準の光D65*8など均一に光を当てて、デジタルカメラの場合は暗い色が出にくいため、特に絞りを変えて同じアングルでカラーガイド(GretagMacbethColorcheckerDCなど)とグレースケールも入れて数枚撮影し、記録する。CIECAM97sの色値を求めるために必要なパラメーターを合わせ記録し、添付するのが最良で、CIECAM97sの色値に変換しないのはこの規格が暫定版で安定していないためという。理想としては、10ビット以上で保存したいというが、活用条件に合わせ、または人間が十分知覚できる範囲であれば解像度などは高精細でなくともよいとしている。小林氏は物の保存より技芸の保存、デジタルでの保存はむしろ活用が大事と語る。
コンピュータによる色の解析が進歩することは、色の世界がより開けてくるのと同時に、デジタルアーカイブにとっては、正確な色の再現や色の管理といった課題が解決に向かうことになる。作品や資料の色は経年変化による退色が避けられないため、可能であれば測色機などで記録しておかなければならないが、大量の作品などの場合は写真撮影した画像が上記にある小林氏の忠告のように正確に記録され、かつ使用目的に対応しているのであれば、撮影記録時間が大幅に短縮されるなど効果がある。また、正しく色情報を取得できれば、モニタやプリンタなどを用いて、正しく色再現された画像を得られ、展示など利用範囲が広がるはずだ。問題は、この「正しく」とは何かである。現在、私の知る限りではデジタルアーカイブの写真撮影基準や標準化などは規定されていない。各自、各社、各プロジェクトごと、作品や資料に応じてその都度工夫を凝らして写真撮影を行っている。ポジフィルムなどの二次資料のスキャニングにしても同様である。永続性のある保存を目指しているデジタルアーカイブとしては、これらの標準化規定が望まれるところではあるが、アーカイブする対象が一様でないうえ、活用目的も異なり、さらにコンピュータの更新が速いこともあり、思うようにことが進まない。また、信頼あるどこの機関が規定するのか国際的な問題でもある。デジタルアーカイブ実施者は活用目的に応じた汎用性のあるものを選択し、既にデジタルアーカイブを行った類似機関を参照にして、ISOなどの国際標準の動向を見ながら判断、実行して行くほかいまはない。
色は直接精神に作用するエネルギーを持っていると思う。眼に見える色(可視光線:波長範囲は380nm〜780nm程度)を正確に知ると共に、音楽を聴いたり、詩を読んで見えていない色を想像することが重要だろう。たぶん見えていない色の方が圧倒的に数は多く、私たちによいエネルギーを与えてくれる。研究室で小林氏の研究方法を伺いながらそう感じた。小林氏は色の研究に客観的調査分析手法を取る。誰が調査分析を行っても同じ結果を導き出すことができる。そして、一方では実物を前にしてよく見て考える。この手法に批判もあると聞いたが、コンピュータと数学を活用し想像しながら考え抜いた結果には感動が潜む。いつの日か小林氏がまだ着手していない日本画の領域で、私が最近感銘を受けた長谷川等伯の国宝「松林図屏風」を解明していただきたい。水墨画の単色から何万色もの色が発光しているに違いない。
*1:黄、青、赤、緑、白、黒の6色で心理測定したデータに基づき、色知覚全体を100として黒み量、白み量、色み量の構成比率を表したスウェーデンで開発された表色系。
*2:色相、明度、彩度の三属性で記述され、HVC表記という場合もある。各国の産業基準など世界で最も広く使われている表色系。
*3:色相、明度、彩度の三属性表記と色相・トーン表記する2種類がある。明度と彩度の複合概念であるトーンがあるのが特徴。国内の教育、産業界で活用されており日本色研配色体系ともいう。
*4:CIERGB表色系が改良されたのがCIEXYZ表色系。略してXYZ表色系ともいう。CIERGB表色系はNTSC-RGBやEBU-RGBなどのRGB表色系とは異なる。三刺激値(色を知覚する3つの光刺激:X,Y,Z)を色空間の一点に対応させて色同士の相互関係を示す。2°視野の等色実験による1°〜4°の視野にはCIE1931表色系であるXYZ表色系。10°視野で等色実験を行い、4°を超す観察視野に適応するCIE1964表色系はX10Y10Z10表色系として区別がある。
*5:CIEが推奨した数学的に作られた均等色空間。座標上で示される2色の一定距離が、どの色領域でも、一定の知覚的な色差をもたらす。主に工業界で使われている。他に均等色空間にはマンセル、CIELUV、
OSA-UCS(Optical Society of America-Uniform Color Scales)がある。
*6:国際電気標準会議(IEC)がPCの普及に伴い、標準モニタのRGB色空間とモニタを観察する場合の観察条件としてsRGB規格として規定。
*7:CIEの発表した色の見えモデル暫定版。観察者の順応状況や観察環境の違いなどの要因による色の知覚変化を考慮して作られたカラーアピアランスモデル。
*8:CIE測色用標準イルミナント。平均昼光を代表する光。Daylightの頭文字Dと色温度6500Kを表す略号である。
■こばやし みつお 略歴
電気通信大学電気通信学部情報通信工学科教授・国立歴史民俗博物館教授(併任教授)。1941年京城(現 ソウル)生まれ。東京大学工学部計数工学科卒、東京大学大学院工学系研究科計数工学専攻修士課程修了。工学博士。担当授業科目[学部:アルゴリズム基礎論、アルゴリズム基礎論演習、画像処理工学、基礎プログラミング及び演習。大学院:画像処理学特論]。研究テーマ:色彩学における数理的研究、色彩情報処理システムの開発、絵画芸術の情報美学的研究。日本色彩学会理事など務める。解説論文:『日本色彩学会誌』「シリーズ解説
表色系」(2001.3〜, 日本色彩学会)など。
■参考文献
日本色彩学会 編『色彩用語事典』2003.3. 東京大学出版会
Margaret Livingstone『Vision and art:the biology of seeing』2002. Harry N. Abrams,Inc.
鈴木卓治・小林光夫『人文科学とコンピュータシンポジウム論文集』「市販ディジタルカメラによる資料撮影と色彩推定の試み―ディジタルアーカイビングに耐える色彩画像を考える―」Vol.2001,No.18,
p.235-242, 2001.12. 情報処理学会
小林光夫『日本色彩学会誌』「シリーズ解説 表色系 第1回〜第9回」2001.3〜2003.3, 日本色彩学会
J.W.V.ゲーテ著 木村直司訳『色彩論』2001.3. 筑摩書房
小林光夫・鄭 興蕾・鈴木卓治『人文科学とコンピュータシンポジウム論文集』「復元染布による“江戸の色”の計量的色彩分析」Vol.2000,No.17, p.57-64,
2000.12. 情報処理学会
大田 登『色再現工学の基礎』1997.9. コロナ社
金子隆芳『色彩科学選書1 色の科学―その心理と生理と物理』1995.4. 朝倉書店
小林光夫・武市正人・鈴木卓治『UNIXワークステーション入門』1992.5. 東京大学出版会 |