掲載/歌田明弘|
掲載/影山幸一
機械を並べるだけで「デジタル科学」?
──国立科学博物館「テレビゲームとデジタル科学展」
歌田明弘
いつどこででもバーチャル・リアリティ
国立科学博物館で10月11日まで「
テレビゲームとデジタル科学展
」をやっている。独立行政法人になった国立のミュージアムが来館者を増やすために一般受けのする企画をやっていることは明白だし、夏休みにぶつけて子供たちで溢れかえっていることが想像されて行く気が失せていたが、夏休みも終わり、近くへ行くついでもあって寄ってみた。
この展覧会は「テレビゲームの歴史」とでも名づけたほうが内容にあっていたように思われる。草創期のコンピュータ「ENIAC」からゼロックス・パロアルト研究所のパーソナル・コンピュータ「ALTO」、アップルのコンピュータなど「ゲームマシン誕生前史」に始まり、日米のゲームマシンやコンピュータが並び、終わりのほうには石井裕氏のアート作品「ピンポンプラス」が置かれるなど、さまざまな「ゲームマシン」が集められている。マサチューセッツ工科大学メディアラボの研究者・石井裕氏は、デジタル技術を使ってロマンチックとさえいえる叙情的な作品を提示してきたが、「ピンポンプラス」もまた、ピンポン球が落ちたところに波紋が広がり魚が泳ぐ、バーチャルな映像投影と本物のピンポン台を使った幻想的な作品である。
国立科学博物館のこの展示は、「一般受けのする企画」を夏休みにぶつけてやったのは確かだとしても、少々意外なことに、かならずしも子供たちだけをねらったわけではなさそうだった。もちろん、展示の最後のほうには、さまざまなゲームが並んでいて子供たちが群れていたし、入場前に石状のペンダントをもらって首にかけて歩けば、会場の場所ごとに来場者の動きにあわせてクイズなどが現れるというユビキタス環境でのゲーム体験ができるようになっていたりもした。
この「ユビキタス・ゲーミング」は、バーチャル・リアリティ研究の第一人者・廣瀬通孝東大教授の研究「スケーラブル・バーチャル・リアリティ・プロジェクト」の企画である。このプロジェクトは、コンピュータ環境や通信環境を問わずバーチャル・リアリティ体験をできるようにするというもので、今回のような携帯端末なども使い、いつどこでもバーチャル・リアリティにアクセスできるようにする技術を研究している。
国立科学博物館でこの技術が使われるのは初めてではない。昨年春の「
神秘の王朝──マヤ文明展
」でも使われていた。このときには、大型スクリーンのVRシアターが設置されたが、シアター外のパソコンでもマヤの遺跡を見れるようにした。さらにインターネットなどネットワークを介せば、ミュージアムの外、家庭や学校でもコンテンツを見せることができる。さまざまなスケールで、またウェアラブル・コンピュータの技術を使って動き回ったりもしながらバーチャル世界とふれあうという廣瀬氏のこうした研究は、来年開かれる愛知万博などでも公開されるようだ。
テレビゲームが街を浸食して
会場は、子供受けするような実際に遊べるゲーム以外の展示がかなりの部分を占めていた。それらの展示は、子供よりもむしろその親たちのほうが興味を持つのではなかろうか。私は1958年生まれだが、私ぐらいの年齢の親たちは、20歳頃にスペース・インベーダーが全盛になり、喫茶店など街のいたるところがこのマシンに浸食され、機械音が鳴り響いた光景を目にした。また、もっと若い世代はまさにコンピュータ・ゲームとともに育ったことになる。人によって程度の差はあれ、会場に並んでいるアーケード・ゲームなどテレビゲームの歴史的な装置の数々には懐かしさも感じるはずだ。
私の生まれた1958年というのはまさにコンピュータ・ゲームが生まれた年である。この年、米国ブルックヘイブン国立研究所にいたウィリー・ビギンボーサムという人物がオシロスコープを使ったテニス・ゲームを作った。これがテレビゲームの幕開けだった。会場に展示してあるこの装置の小さな画面を覗きこむと、テレビゲームというよりやはりオシロスコープで、ボールが飛ぶ軌跡もどう見てもオシロスコープが描くグラフだが、複雑精妙になった現在のゲームマシンのもとがこれだったと知ると、なんとなくしみじみしてくる。
1962年になると、マサチューセッツ工科大学のコンピュータ・オタクの学生たちがDEC社のPDP-1というコンピュータを使って「スペース・ウォー」を作った。これはオシロスコープ・ゲームとは格段の違いで、のちのインベーダー・ゲームをも彷彿とさせるものになっている。「スペース・ウォー」の制作をめぐる顛末は、スティーヴン・レビーの『ハッカーズ』という本に描かれているが、このゲームを作った学生は、物を動かしているという実感によって自分の能力を感じることができることからコンピュータに夢中になったという。コンピュータでの計算などに比べて、ゲームはまさに「物を動かしている」気分にさせるソフトである。作り手の意欲も湧くわけで、ゲームがパーソナル・コンピュータの発展と密接にかかわってきたのは当然だろう。
1968年には、テレビをゲームのモニターにするという「発明」があり、こうしたコペルニクス的展開が、のちの任天堂のファミコン大流行へとつながっていく経過もこの展示からうかがえる。テレビを本来の用途とはちがうゲームのモニターにするというのは、いまとなっては当たり前のことだが、こうした「発明」がなければ、コンピュータ・ゲームが各家庭に入りこみ、爆発的に普及することはありえなかったわけで、そういう意味ではやはりコペルニクス的発明といえるだろう。
ゲームによって一時代をなしたアタリ社は、70年代アメリカのコンピュータ・カルチャーを形作った。72年にアタリ社が発売した第一号テレビゲーム「PONG(ポン)」も置かれているが、これはその名のとおりのピンポン・ゲームで、日本でも馴染みのゲームである。「ATARI VCS(Video Computer System)」はROMカートリッジを挿す方式を使い、これもまた任天堂のファミコン・ゲームマシンの源流となった。78年に日本で制作された「スペース・インベーダー」はアメリカでも人気を呼び、アタリ社のこのパソコンでアメリカの家庭に入りこんでいったなどというテレビゲームの歴史も見てとれる。
ゲームマシン文化
一方、70年代後半の日本では、先に書いたように、インベーダー・ゲームがアーケード・ゲームとして広まり、アーケード・ゲーム文化が形作られることになる。国立科学博物館にずらっと並んだ日米のアーケード・ゲーム・マシンを眺めると、そのデザインが明らかにある種の文化を形作っているのを感じられる。
こうしたアーケード・マシンを見ていると、時代やその国のポップ・カルチャーがデザインにどういう影響をおよぼしたかなど、もう一歩突っこんだ説明があればおもしろかっただろうに、という気がしてくる。科学博物館だからそれは管轄外のテーマだろうが、実際のところ、テレビゲームの歴史をたどり、一通り懐かしがったりヘエッと思ったあとに、ではいったいこの展示からなにが残るのだろうかという思いはぬぐえない。
肝心の「科学」にしても、ディスプレイの構造についてゲーム的な展示があったり、「プレイステーション2」の内部構造が見れたり、実写をいかにとりこんでソフト化しているかといったゲームマシンやソフトについての一応の説明はあるものの、通り一遍の感じがする。独立行政法人になって採算を求められる状況になり、実際のところ解説に手間ひまをかけても来館者を増やすことにはつながらないのかもしれないが、マシンを集めたあとの「編集」がもうちょっとあれば、と残念な気がした。
[ うただ あきひろ ]
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