山口情報芸術センター(YCAM)では、坂本龍一+高谷史郎による新作インスタレーション「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」がスタートした。これは音楽家の坂本龍一と、アートグループ「ダムタイプ」の中心メンバーである高谷史郎のコラボレーションによる新作を、YCAMが委嘱したものだ。ここ近年の坂本の活動は、従来の旺盛な音楽活動に加えて、論考集『非戦』の監修、自然エネルギー利用促進を提唱するアーティストの団体「artists' power」、六ヶ所村の放射能汚染を考えるサイト「stop rokkasho.org」、新たな音楽コミュニティの創出を目指す「commmons」の設立など、社会派としての側面も大きい。さらに、音楽の志向において、raster-notonレーベル主宰のalva notoことカールステン・ニコライとの「insen」や、ノイズレーベルmegoの看板アーティスト、fenneszとのコラボなど、ラップトップミュージックの可能性を見極める、電子音響実験的な音/音響デザインへの比重を、より大きくしていっているように見える(この共演を以前に誰が予想できただろうか)。その坂本が、本格的なサウンドインスタレーションに取り組んだら、いったいどうなるだろうか。音楽空間としてのこれほどのエキサイティングな期待はないだろう。
一方、ダムタイプのリーダーである高谷史郎とのコラボは、99年に初演された坂本龍一のオペラ「LIFE」において、映像監督を高谷が担当したことから、始まっているが、05年には、京都の法然院で方丈の庭を臨んだラップトップと映像による実験ライブがあり、また同年京都造形芸術大学でのスーザン・ソンタグ追悼ライブで再び共演している。このソンタグ追悼ライブは、A・ペルトの「Spiegel im Spiegel」に、坂本が様々な音を重ねながら、ソンタグのテキストの句読点のみを引用した映像が絡むというアイデアで、テキストの文意はほとんどオフになる黙示録的展開ながら、テキストの句読点による息使いだけが、視覚的リズムとして現前されるという、驚くべき洗練とそぎ落とされた透徹の美学が表現されていた。
今回の、YCAMの共演は、インスタレーションとして、音と映像が完全に対等に対峙する意図が図られ、その出発点として、オペラ「LIFE」が再び参照されることになった。オリジナルの「LIFE」は、数年にわたる地球各地の土地や都市のフィールドワークの後、文化と自然環境、生命とテクノロジーの共生は可能か、が問われる長大なスペクタクルであったが、坂本自身も述べているように、その土台構造としてリヒャルト・ワーグナーの舞台神聖祭典劇『パルジファル』が参照されるという(オペラという時代錯誤な形式が採用されることも含めて)野心的試みでもある。確かに、長大な3部構成であり、音楽史上のリニアな時間体験として、究極の持続がもたらされるというフィルターによって、「LIFE」と『パルジファル』の間の、音の限界思考としての共有点が生まれてくるだろう(「LIFE」の目論みは、20世紀の音楽創造の記憶を、すべて同時に書き出す試みでもあった訳であるから)。さらに、最終的に救済という主題が両者に顔をのぞかせるが、「LIFE」においては、ロスアラモスの科学者ロバート・オッペンハイマー(原爆の父と称される)と埴谷雄高の無神学的深淵の呟きの傍らで、ボブ・ウィルソンの「救済がないことを自覚することが救済なのだ」という台詞が現われるに至って、実はこれも、語り得ぬものこそに接近せんとする黙示録的トーンがすべてを貫いていることに気づかされる。しかも、東京(大阪)、フランクフルト、ニューヨークが同時に回線でネットワークされたパフォーマンスが現れ、あらゆる地球の表面から湧き出てくる音楽がサンプリングされ、交錯共鳴されようとするコンセプトは、球体的結晶状音楽(=『パルジファル』?)の構造解体の照査にあたるといえるだろう。YCAMでの今回の新作「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」は、この「LIFE」自体を膨大なデータベースと見なし、そのサンプリング&リミックス+ソースベンディングと位置づけられることが可能で、そうなるとインスタレーション空間は新たなプラットフォームと見なされ、音と映像がバラバラのパラメータを共有し合い、編成され直す形で現前されていくものになる。このコンピュータによる調合自体は開放的だ。音も映像もかなりの数のファイル数やカテゴリーから呼び出されるため、1日作品空間にいても同じミックスがおこるとは限らない。そうした意味では、これは時間と空間の狭間の界面としてわれわれの存在が動き巡っている感を与える。循環的、反復的だが、二度と同じ地平には戻らない生成だ。
インスタレーションは、1200mm四方300mm高のアクリル水槽が約2.5mの高さで、9個がグリッド状のフォーメーションで空中に吊られ、各水槽の両脇にスピーカーが吊られている。水槽内では、超音波によって人工的な霧を発生させ、霧の状態や流動する変化をコントロールすることができる。映像は、その霧をスクリーンとして天井から下に向けて投射されるが、霧の状態によって映像の再現性は大きく影響を受け、時にフォログラフィーのようにもなる。9個の霧スクリーンには、それぞれ全く別のコンテンツが出ているときもあれば、一斉に連動するときもあり、また映像と音は同期する時と同期しないときもあり、音だけの状態になるときもある。オリジナルの「LIFE」からの映像、また音のソースはデジタイズされ、コンピュータによるさまざまな細かい加工や処理が施されたものになっている。さらにそこに、今回制作された新たな素材がまた追加されている。作品において鑑賞の手順が決められているわけではなく、観客は、インスタレーション空間の中を自由に歩きながら、環境と知覚(聴覚、視覚)の関係が、複雑に流動(fluid)していく表現を感じとることができる。観客の僅か頭上に吊られたこの透明/半透明のスクリーンの存在と距離感は、単なる映像再現装置ではなく、近くにありながら遠くにあるべき界面の存在を強く意識させる。
不透明な映像とは、20世紀の映像の美学では解決処理されるべきパラメータだった。しかし今は、この不透明なリアリズム、閉鎖と開放の間に充満するアモルファスな気配こそが、別の存在平面の厚みなき厚みを生み出していることに気づかされる。この装置を発案・設計した高谷は、アーティストがアンコントローラブルな映像存在こそが、ここでは重要なのだ、と述べている。これは音あるいは音像によって生成される空間にもいえることだろう。このような生成される空間を生み出すことで、そこからフィードバックされる物理的、美学的可能性が、アーティストの思考やデータベースをさらに研ぎ澄ませていく。この関係こそが「流動的(fluid)」なのだともいえるだろう。オープニングにあたる初日には、このインスタレーション空間自体を使ったスペシャルコンサートが坂本+高谷によって行なわれ、1時間強を要した緻密かつ壮大な音と映像の展開に、観客はしばし呆然となっていた。
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