不完全なシェルター? |
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山口/阿部一直(山口情報芸術センター) |
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広島市現代美術館は、先頃チーフキュレータに、ニューヨークのニューミュージアム・オブ・コンテンポラリーアートから神谷幸江を迎えて新体制がスタートしたが、今後どのような展開を見せるのか、非常に期待したいところである。神谷の直接の企画ではないが、現在展示中の「シェルター×サバイバル」展は、大規模ではないものの、館が保持するコレクション作品をうまく取り混ぜながら、テーマをトレースしていくという、工夫を凝らした展示になっている(内容紹介は、すでに広島市現代美術館の角奈緒子さんが前号で掲載済み)。
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シェルター×サバイバル |
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「シェルター×サバイバル」のアクチュアリティとは、実際なにか。こうしたタイトルは、まずそれから考えざるを得ない。タイトルから来るリテラルな震度だけを考えると、まずサバイバルしなければならないシェルターは、まさに目の前の美術館そのものであるからだ。急速に制度変容を迫られている日本の公共文化機関は、存続の危機を迎えつつあることは、現場の関係者は皆わかっている。美術館がない世の中で人々はどのように暮らしていくのか、むしろ何事もなかったかのように平穏であり続けるのか。そうであれば美術館不要社会ということになる。そうした反面的想像力でさえ、立ち上げる必要がある。
昨今の日本独特の文化環境事情は、美術館業界がエスタブリッシュされているワールドアートシーンの共有言語とは別の、あるいは逆行しているともいえるような諸条件のなかで、このような問いと戦わないといけなくなっている。本展のリリースで語られている「予測不可能な危機的状況、または危険をはらむ日常に、アートはどのように対処することができるのだろうか」というフレーズは、外からの襲来する天災、人災への備えといった文脈であるが、その第一義的な見通しをスポイルして、まず見いだすべき課題は、グローバル、ローカルの狭間で中吊りとなった不可測な場=さまよえる美術館自体のサバイバルということである。
しかし、これは、ネガティヴなパラメータだけではないように思う。美術館とアートシーンの関係が、公共の当然として揺るがないヨーロッパ型のパターンより、不要性・不燃焼性をつねに問い続けることで、毎回存在意義の根元からモティーフを掘削していくほうが、巡回コピー型の展示コンテンツとは別種の、等身大のアクチュアルな発言や企画が生まれ出てくる期待がある。高速度消費摩耗型になりつつあるワールドアートシーンやアートマーケットに対してさえ、それこそポジティヴに不可測な新規のパラメータを付加しうるかもしれない。
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先日、東京都現代美術館で[通路]展を開催中の川俣正が、インタヴューで以下のようなことを語っていた。「現在は、やる側も見る側も物わかりがよすぎて、摩擦や干渉としてのアートの意義がほとんどない。現代美術は地域づくりのネタという認知に誰もが納得してしまっていて、もう日本ではやる気がしないのだ」と(『読売新聞』3月13日、『朝日新聞』3月27日)。美術館のサバイバルにおいて、まず向かった先が、サイトスペシフィックな個別性をサイン化し、その目的を取り込んだアートを通じて翻訳することで、場のシンボルとしての美術館やフェスティバルの蘇生のための人口呼吸としていくこと、であったのは確かである。
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川俣正[通路] |
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川俣の発言には、いつの間にか蔓延している、来客数唯一主義といった評価基準を粉砕する力があるし、本当に見たい、感じたい、十分に勉強して期待感を纏った客を限定招集する動機を布石しておきながら、しかしその連中をどこかで裏切ってやるのだ、という不敵な遠近法こそが、アートが何かを変える力があることを伝えられる構図であると、言っているようにも感じられる。やる側の期待と見る側の期待、さらには企画する側の期待の奇妙な視線の一致と閉塞空間に、ヌルさを感じとったニュアンスが明確に見て取れる。悪意や造反なきアートに意義があるのか。空間の爆発はあるのか。サバイバルマーケティング優位の世界に、アーティストが飽きてしまったのだ。 今回の川俣展も、見方によっては一種のシェルターともみなせるかもしれない。しかもそれらは、当初から不完全に設計された開放ヴェクトルのシェルターである。巨大な会場全体には、仮設用に設計された簡易でミニマルなベニヤユニット千枚分が並べてあり、壁による通路というか迂回路をフロアや野外すべてに設定してあるのだが、その壁自体は対象ではなく、そこに見るべき意味はない。これは緩衝材/干渉剤であって、切断され、捩じ曲げられるアノニマスな大量の視線が主役なのだ。刺激的に見えたのは、これら膨大なベニヤ通路とほほ平行して、川俣の過去のプロジェクトすべてのアーカイヴがきわめて緻密に整理され、それらドキュメントフォトが、仮設壁の外側にある本来の美術館の壁にびっちりと精確に並べてある。しかしこれらはスチル担当カメラマンが、オブジェクトとして、プロジェクトや、川俣自身や、スタッフを、そつなくフォトジェニックに撮影したものであって、これらを見続けるうちに溜まっていくストレスは、これらの各現場で川俣自身が、いったいどのような角度から物事を見て、実際にどんな状況的細部に視線を投げているのか、をどうしても知りたいという欲求である(このことは、映画に置き換えてみるとわかりやすい。あらゆるショットを自らがカメラファインダーを覗いて、完璧に決定しているタルコフスキーやアンゲロプロスのような作品は、映像化した対象=画面が確実に彼らの視線だが、ゴダールのような作家となると、自身でどれだけ覗いて指示しているかはまったく疑わしく、適当に撮ってこいと言って前後も決められずに溜められたフィルムフッテージから、強度のシークエンスを結果的に生み出してしまっており、どのショットがゴダール自身の視線を表象しているのかはまるでわからない)。が、川俣の展示では、やはり重層的な構造が用意しあって、すべてではないが、あるプロジェクトでは、自身が撮影した(かの)リサーチ用のフォトフッテージをミニマルに整理した展示ユニットを見いだすことができる(以前の水戸芸術館での展示においても、アクシデントをテーマにしたイメージコレクションに付随したフォトフッテージが映写されていたはずである)。シェルターとは、遮られた視線の空間であって、視線が存在しないデッドスペース=亜空間の生産でもあるが、その閉ざされ跳ね返される視線が、私的なのか、公共的なのか、あるいはそのどちらにも属さないものなのかが、この「通路」空間では、永久機関のように毎度問い直され、視線を更新するツールとして存在していく。瘡蓋を剥がしては、再生させていく欲望のように、だ。壁は、動かせそうなのである。 |
広島市現代美術館の「シェルター×サバイバル」に話を戻せば、そこでの非常時におけるサバイバルを想定したシェルターにまつわる大半の作品は、シェルターをオブジェクト化してしまって、われわれの視線の先に追いやってしまっている。そこに視線の変質や生産はない。視線にパラサイトする欲望の切断や裏切りへの展望がみられないのだ。というより、作品をそのように平均的にオブジェクトの方位に投げてしまう展示の一貫性、美術館におけるリスクレスな揺るがない視線の位置、といった定石こそが問題なのかもしれない(美術館には、メモリーオーバーな不遜がもっとあっていいのではないか) 。 そのなかで異彩を発していたのは、このフィーチャーも企画者としては確信犯だろうと思うが、もとみやかおるの作品である。もとみやは「金継ぎ」という手法に着目し、これはモトモト入ってしまった事後的なアクシデントとしてのヒビや亀裂を覆い隠すのではなく、あえて露出させ、そこに修復を目立つように接ぎ木のごとく施すというもので、その手法にまつわるさまざまな物質的日常品から生物、言語列までを用意してあるというものだ。しかも用意周到なのは、それをドメスティックな文脈だけに留まらせず、これから施されるかもしれないという、まだ手つかずのドイツから持ち込んだ壊れかけのオブジェのサンプルまでが設置してある。オリジナル〜修復/私的空間〜公共空間といった2項間の交換ではない第3のハイブリッドな視線の生産と運動がそこには明らかに導入されている。この運動は、柳幸典の旧作だが、戦艦「アキツシマ」を巨大なスチール製のプラモデル化して錆びつかせた作品の場合の、フレームと各パーツを繋ぐ無数のコラムの表象化にもいえることかもしれない。
今回の「シェルター×サバイバル」では、展示に参加した一般ボランティア80余名のクレジットがエントランスに明記されていた。これもまた、アノニマスな視線の錯綜が、実は痕跡として展示空間の中に、かつて充満していたことを想像させるものではある。川俣正[通路]展でも、多くのボランティアスタッフが、来客に混じって、連日会場空間内をうろうろして作業をしている。そのうちの何人かは、展示されたフォトアーカイヴそのものを、さらに再撮影してリアーカイヴ化しているという光景に出会った。これらは瘡蓋のように膨れ上がる、別の空間を作り出しているのだろうか。 |
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