Exhibition as media 2008「LOCUS」 |
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大阪/中井康之(国立国際美術館) |
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通常であれば、一回仕込んだ展覧会を巡回し始めれば手が離れるのが通常だが、今回の「アヴァンギャルド・チャイナ─〈中国当代美術二十年〉─」はそうはいかないようである。特にトラブルの多かった孫原・彭禹の作品を再調整するために、開催3週間前には再度作家を招聘し、作家とともに必要な資材と人材を求めるなど、さまざまな対応に迫られている。来週からは、オープニングに合わせて複数の作家と評論家が次々と来日する予定である。
先週はそれとわずかに重なりながら、アジア美術館館長会議(というものが国立新美術館を主会場に開かれた)のアテンドで時間が経過し、その前の週は日豪の研究者交流プログラムによって来日されたオーストラリア人のアテンドという日々であった。
相変わらず日常的なフィールド・ワークが欠けている理由を綴っている。実際、関西圏の新聞で社会面にまで掲載された京都に進出した画廊にも足を運べていないし、個人的に定点的に発表を見ることにしている作家の個展にも行けそうにもない。
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そのようななかでも確認する義務と必要性を感じて神戸アートヴィレッジセンターで開催されていた「Exhibition as media(メディアとしての展覧会)」には、参加作家と同世代の美術関係者がトークを行なうというイヴェント開催日に照準を合わせて訪問した。去年、その第一回展をこのコーナーで紹介したように、同機関がアニュアルで行なってきた展覧会に出品した作家を、再構成して、しかも作家たち自身に、そのコンセプトやタイトルその内容まで決めてもらうような展覧会である。最近は、多くの美術館で若手作家を取り上げる機会は増えてきていると思われるが、そのセカンド・ステージというか、その後の展開まで手を広げているところは少ないのではないだろうか。そのような意味でとても興味深い取り組みであると思う。実際、そこで行なわれていたアニュアル展の出品作家は少し若すぎる、と感じることも多々あったので、その動きにはごく自然な成り行きのようにも感じられるが、しかし、実際に一度取り上げた作家を、それほど長い時間を空けずに、再度再構成して取り上げるというのは、大胆かつ斬新な試みであると言えるだろう。
前回の「Exhibition as media(メディアとしての展覧会)」は出品作家が、それぞれ他の作家の作品に嵌入するようなかたちでコラボレートした作品を見せるなど、予想され得るあり方を示しながらも充実した空間をつくり出していた。はたして今回は、とある期待を持って訪れたわけであるが、予想を爽やかに裏切った、というか、なんら特別な仕組みもなく、それぞれの作家のスペースを確保しながら、それぞれの作品世界を見せているという穏やかな展示になっていた。もちろん、参加した作家たちは、当初、去年のようにコラボレートするような試みも考えたり、あるいはある一人の作家がキュレーションという役割に徹して展覧会を構成するなどのさまざまな意見を戦わしながら、最終的には穏当な個展形式に収まったようである。もちろん、そのような話し合いは無駄ではなかったろう。それぞれが他者を意識することによって自己の表現というものを見つめ直すような行為があったことと思われるからである。
田中秀和のグラス・ウォール・ペインティングは、猥雑な神戸アートヴィレッジセンターのアトリウム空間の特徴を、そのまま絵画として特化したような見事な行為であった。最近、作品の完成度が増してきた三宅砂織は、その特異とする造形手法ではなく、絵画空間というものに対して意識を持ち始めているようであった。特色のある物語絵画を描き続けている栗田咲子は最近の実験的な要素は控えて充実した世界を見せていた。ネオン管を空間に解き放つ事によって表現を重ねている国谷隆志はなにか抽象空間というものに思考を紡いでいるようだった。なにものかの気配のような実体のない世界を表現にすることに挑み続けている木藤純子は今回も危うげなところでなにかを見せていた。
このような展覧会の試みは、他者の眼を介在することによって自らの営為を検証するような機会となっているであろうことを改めて確認することとなった。 |
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左:田中秀和
右:三宅砂織 |
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左上:栗田咲子/左下:国谷隆志
右:木藤純子
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