神戸/木ノ下智恵子
|倉敷/柳沢秀行|
福岡/川浪千鶴
2004 第1期「水の国」特別展
「
−水際− 西 雅秋」展
倉敷/大原美術館 柳沢秀行
西雅秋は、土地の抱える記憶を巧みに造形化する作家である。
1987年に北九州市八幡地区を舞台に開催された「国際鉄鋼シンポジウム −YAHATA‘87」では、同型同素材のオブジェを海や川、あるいは市内各所の土中に数ヶ月間埋めた後に一堂に集めて展示した。各オブジェは錆や腐食あるいはフジツボの付着などによって異様な迫力を放ったが、同時にその異なる姿の対比がきわだち、それぞれが置かれた土地の状況が鮮やかに提示された。
西は彫刻家としての自己形成期において、作為に満ちた、いわば作りすぎてしまう造形のあり方に違和感を持ったという。そのため、どこかで人間の手を離し、あとは自然の力に委ねての完成というプロセスを選ぶこととなる。無論こうした彫刻制作のあり方は、西の手がけたオブジェが、土や水など自然の要素が織り成す時間の記憶を身に纏うことで、その土地に対するセンサーとして機能することともなる。
近年の西の仕事は、このセンサーの感度を上げるとともに、自然が織り成す時間の記憶から、その場に関わる人間達が成した出来事の記憶へ、その対象を広げている。
水の国ミュージアム104°で開催中の「−水際−」は、このミュージアムのすぐ近くを流れる江の川の流れに沿ってイマジネーションをつなぎ、西自身もその記憶を身に纏う広島・原爆を主題のうちに取り込んでいる。
もともと水の国ミュージアム104°には、『寂水の庭』と名づけられた、樹木の形状をそのままブロンズに鋳抜き、その固定化したブロンズ彫刻と成長を続ける樹木を対比的に見せる西の作品が設置されている。それに加え今回はイントロダクション的な位置にある二つの小展示スペースに、水中、土中に埋められていたと思しき錆を纏った円筒状の鉄板作品を設置。そしてメインとなるスペースでは、どこまでが元々の物で、どこに西の手が加えられたかが判然とはしない、建物の礎石のような6つのオブジェが設置されている。
展示物はこれだけである。会場には、それが何なのか、どのようにして現状となったのかの解説の類は一切提示されていない。
もっとも今回の企画では、チラシが展示物と同等以上の比重を持ち、この企画が持つ大きな射程を明らかにしている。そこには、署名こそないがおそらく西自身のコメントとして、次のような文章が掲載されている。
『分水嶺』
水の流れの始まりが2つに分かれる上根峠、1つの流れは根之谷川となり南へ下る。
しばらくして太田川にのみ込まれ、やがて幾つにも分かれて街を擦り抜けて海に溶ける。
1945年8月のある日、多くの少年達がこの水に沈んだ。
そして1人の少年が広島の街から太田川を遡り根之谷川に入り、夕方やっと可部町に辿り着いた。
3日後13才の時をとじた。
もう1つの流れがこの江の川。今年私はその風景と記憶の「水際」を横切ろうとしている。
文章の終わりの「その風景と記憶」の「その」は、おそらく直前の江の川だけでなく、この文章で語られる上根峠を分水嶺にした二つの川の流れという地勢的イメージと、その片方で繰り広げられた1945年の出来事という人間の営為のイメージを重ね合わせた広く複層的な風景と記録を指すのであろう。
この『分水嶺』の一文において、13歳の少年の被爆死にまつわる出来事は、強いリアリティーを持って立ち上がってくる。
『分水嶺』のすぐ下に掲げられた西の略歴冒頭に「1946年広島県可部町生まれ」とあるように、少年が死を迎えた時、西はまだこの世に生を受けていない。その西が「3日後に13才の時をとじた」とまで伝え聞かされた少年は、それだけ西の家にとって近しい者であったのだろうか。「辿り着いた」という表現には、その少年が原爆の災禍に見舞われた広島市内を逃れ、頼るべき者のいる場として可部町に「辿り着いた」とも読める。かえって西の家族構成を知らない者は、もしかしたら命を絶った少年は、西にとっても親しい間柄の親族(14才の年齢差からすれば、年の離れた兄か、それとも従兄弟か?)と想像することも出来るだろう。
ここまでの深読みは避けるとしても、『分水嶺』が持つ、読む者のイマジネーションを強く喚起する力は、もちろん西の記憶のうちに存在するリアリティーの強度に由来するのであろう。そしてそのリアリティーの強度は、略歴冒頭の記述「1946年広島県可部町生まれ」にも反映されている。
現在の地図を見渡しても広島県可部町はどこにも見当たらない。可部町は、現在では広島市に合併され同市安佐北区に組み込まれている。したがって通常なら「現在の広島市」なり「当時可部町」とする表記するはずであるが、それがあえて「1946年広島県可部町生まれ」とされているのである。
もしかしたら少年は、西の親族であり、虚ろな意識のうちにも通いなれた可部町の西の家を目指したのかもしれない。あるいは西家にも可部町にも、もともとはまるで関わりがないが、災禍の広島市街地を逃れ、唯一の脱出路のように太田川の水の連なりを遡り、そして可部町で息途切れたのかもしれない。そのデテールや、西家の血縁的なつながりへの関わりはけして定かなものとはならない。けれど1945年8月6日に広島市中心市街地に投下された原爆に見舞われ、太田川の水系に沿って可部町にまで辿り着きながら、その3日後に13才の命をとじた少年の存在とその出来事、そして水の流れと原爆をめぐる大きなドラマを見渡した時、そこに連なる者として、西は「当時の」「現在の」とは言わずに、まさにその時可部町に産まれたと言っているのである。
チラシに掲載された『分水嶺』が大きなドラマを強く喚起するのに対して、展示場にある6つのオブジェはひたすら重い沈黙を貫く。
オブジェ達の形状はその本来の用途を説明しない。半球、柱の台座状に立ち上がりのある円筒、同心円紋を持つ円筒とそれと組み合わされた長方形、段差をなす二つの直方体。
材質もどこが作家の手がけた部分かが俄かに分からないこともあって、やはりその本来の様子は判然としない。表面の一部に付加的に金属が付された部分は明らかに西の手によると思うが、それが施された意図も不明である。いったいこれらのオブジェは本来が石なのか金属なのかも、そしてどこで何に使われていたのかも、よほど注意深い観察をしてもわからないのである。
西は『その風景と記憶の「水際」を横切ろうとしている』その出来事として、これらのオブジェを用意した。その水際を横切ろうとする行為が具体的にいかなることなのかは、おそらくこのオブジェがいったい何であるのかと深い関わりをもつのであろうが、それは容易に説明されない。ただ、このオブジェ達が大きな意味と意図を持って整えられたであろうこと確かであろうし、そしてまたそれを語るのはやはりチラシである。
チラシの表には、これらのオブジェが西のアトリエにおいて、あたかも展示をシミュレーションするかのように置かれた写真が全面掲載されている。アーティストが作品を生み出す現場に置かれたオブジェ達は、製作に用いられた道具類と共に存在することによって、西の手技において作られたばかりの、ただのモノとして、そこにたたずんでいる。
この白日の下の光景が水の国ミュージアム104°の展示場に移されたことは、たんにモノがある場所からある場所へと移動しただけではない。この移動によって、このモノ達は原爆と少年と水の流れをめぐる大きな物語に組み込まれる。13才の少年の被爆死をめぐる出来事を片側に置き、ちょうど分水嶺の反対側の位置で、西雅秋が『その風景と記憶の「水際」を横切ろうとしている。』出来事のための大切なオブジェと化すのである。
現代美術は難解である。そのとおり、この西の作品「―水際―」には容易な図式的な答えなど用意されていない。しかし、西は丁寧にも観客のイマジネーションを強く喚起するテキストを用意し、その大きな物語の中での自分が据えたオブジェの居場所を教えてくれている。
短絡的な答えが用意されていないからこそ、見るもののイマジネーションは、このオブジェ達がすえられた島根県桜江町の江の川のほとりで、深く広がることもできるのではなかろうか。そうしたイマジネーションこそが、水際を横切るための大切なツールだと思う。
会期と内容
●「−水際− 西 雅秋 展」
会期:2004年4月29日(木)〜8月31日(火)
会場:
水の国ミュージアム104°
〒699-4505 島根県邑智郡桜江町坂本2025
TEL: 0855-93-0077
FAX: 0855-93-0078
●
学芸員レポート
実は、水の国ミュージアム104°では、「−水際− 西雅秋」と同じ、2004第1期「水の国」特別展として、「土と水の彫刻家 古郡弘」(4月25日(金)〜7月13日(日))をも開催している。
いささか続いた雨が去った快晴下、なかなか足を伸ばすことのないこのミュージアムを先般開催された眞板雅文展の時から半年と空けずに訪れてみた。
その時も、この度も、である。
出会った職員は、掃除の方1名に、チケット発券の方1名。他に来場者もいなかったので展示スペースは2回とも私だけの貸切であった。
そしてやはり前と同じように、チケット発券の方が声をかけてくださり、正面に据えられたオブジェのことや館内の順路のことを10分近くかけて説明してくださった。西展も古郡展もほとんど、そこに加えられることなく。
この出来事をどう受け止めるかは観客次第であろう。
また島根県内およそ隈なく、立ち寄った各所で県立美術館のチラシを目にして、その徹底ぶりに恐れ入ったが、そうした場所で西展や古郡展のチラシはまず見なかった。それに、西展のチラシの重要さを書き留めておいて、こうしたことを書くのもおかしいのかもしれないが、同じ時期に同じ格付けで二人の展覧会を開催しているのなら、それぞれのチラシに互いの展覧会が実施されていることを記載するぐらいはしてもよいのではないだろうか。
開館当初、岡本敦夫、遠藤利克、西雅秋、村岡三郎、薮内佐斗司といった作家に水に関わる作品を依頼して、勢いよく走り出した同館であったが、ここのところは、しばらく静かであった。また最近になって、生きのよい作家たちを取り上げるようになったが、作家達が力をいれた展観を見せているのだから、もうすこしそれに館側が応えても、よいのかな?と、思ったひと時であった。
もっともここは水の博物館。アートはその表現の一端で、実際の展示スペースも、ハンズオン系の水の学習がメイン。自然科学系体験学習型の施設にある意味で強い憧れをもっている身としては、そちらでもけっこう時間を費やさせてもらったが、日ごろの愛着抜きに、どうしても西雅秋のたったひとつの展示室の存在がずっと心に残るのはどうしてだろう。
今回は東京、京都でも、ご紹介したい展覧会もあり、また今号で同じく執筆する川浪さんが出演し、木ノ下さんが側で聞いていた(と、いうよりずいぶんと知った顔ばかりがありました)シンポジウム「美術館・博物館はなぜ必要か?」【主催】 美術史学会、文化資源学会、兵庫県立美術館(5月8日(土) 兵庫県立美術館)は誰かが触れるかと思ったこともあり、書きませんでしたが、水の国ミュージアムが、ふたつの点から、とても気にかかりましたので、単独でとりあげさせていただいたうえ、学芸員レポートも費やしました。会期は長いですから、よろしければ足をお運びを。
[やなぎさわ ひでゆき]
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