国際美術展・回想(4)

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1999年は、ハラルド・ゼーマンがヴェネツィア・ビエンナーレ第48回国際美術展の総合監督を務めた年です。

ゼーマンは、2001年の第49回展も続投しました。雑誌『アートプレス』の99年6月号に掲載されたインタヴューで、「今後、監督の任期は4年になった」と述べていますから、最初から続投の予定だったようですが、第50回展以降の総合監督は毎回異なるので、4年任期制はゼーマン一代限りとなったと考えられます。

第48回展を、ゼーマンは「全解放:ダペルトゥット/アペルト・オーヴァー・オール/アペルト・パル・トゥ/アペルト・ユーバー・アル(dAPERTutto / APERTO overAII / APERTO parTOUT / APERTO überALL)」と題しました。伊・英・仏・独の4言語表記は、第49回展「人類の舞台(プラテア・デル・ウマニタ...)」にも引き継がれます。

「展覧会はキュレーターの作品か?」といった議論がありますが、最近講義の関係で読み直した佐々木健一さんの『タイトルの魔力』(中公新書)には、「名づけ」という行為そのものが、ひとつのものの見方の提示である、と書かれていました(121頁)。展覧会の題名が、その全体像をうまく言い表していることもあれば、逆に裏切っていることもあるように思いますが、展覧会に題名を与える立場の人は、少なくともその展覧会の作者的な役割を担っている、と言えるでしょう。展覧会がキュレーターの作品化することの善し悪しを別として、キュレーターが展覧会の「タイトルづけ」を介して、そうした立ち位置にあることを論及していくことには意義があると思います。

ドクメンタ(72年)、リヨン、光州(97年)、シドニー(00年)、セビーリャ(04年)など、ヴェネツィア(80, 99/01年)以外にも数々の国際美術展の企画に携わったゼーマンは、2005年2月18日に71歳で亡くなりました。

2005年6月に開幕した第51回展以降、ヴェネツィア・ビエンナーレの主会場にあるスイス館(ゼーマンはベルン生まれ)の外壁には、「ゼーマン通り」という表示が掲げられています。

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カステッロ公園のスイス館 2005年6月15日12時55分(晴れ)

ブロガー

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