アートと日本語環境

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韓国から戻ってきた後、週末の東京出張が続きました。会議や研究会に出席する合間に、先々週は、「VOCA展2009」(上野の森美術館)を見て、Port Bの「サンシャイン63」に参加しました。先週は、「アーティスト・ファイル2009」(国立新美術館)や「ジム・ランビー」(原美術館)を見る一方、ギャラリー等を回って、「田中功起」(青山|目黒)や「ジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー」(メゾンエルメス)、Chim↑Pomの「広島!」(VACANT)等を見ました。

それぞれに興味深い発見があったのですが、今回はChim↑Pomの「広島!」を見て考えたことを書きます。

ご存知の方も多いと思いますが、Chim↑Pomは、昨年秋に広島市現代美術館で個展を開催する予定でしたが、作品制作のため広島の上空に飛行機で「ピカッ」の文字を書いて問題となり、展覧会が中止になりました。今回の「広島!」は、そこで展示される予定だった《リアル千羽鶴》や、中止の原因となった映像作品《ヒロシマの空をピカッとさせる》を展示する企画でした。

《ヒロシマの空をピカッとさせる》は、広島の上空に「ピカッ」という文字を書いた5分ほどの映像作品で、原爆ドームが入った映像と文字にクローズアップした映像がセットになっています。ともに、街を行く人々のオフの声が入っています。

この作品については、今回出版された書籍を始めとしてさまざまな議論が展開されましたが、その中でも興味を引いたのは椹木野衣さんの文章でした。椹木さんは、この作品は、その「薄っぺらさ」において、アウシュヴィッツ以後の芸術がもつ「暴力」(アドルノの意味における)の問題を回避し得ること、「ピカッ」という文字は、原爆を表象するよりも、こうした行為が可能な戦後日本の平和を表象すること、上空に文字を書いて一方的に地上の人に見せるという、非対称な関係に基づく行為は、想像力が欠如している点で、加害者としてのアメリカ人的な感性に基づいていること、そして、その感性は、Chim↑Pomだけのものでなく、アメリカ化しフラット化した戦後日本の感性であること、などを指摘しています。

実際の作品を見た印象も、こうした指摘に違うところはほとんどありませんでしたが、それに一点付け加えるとすれば、文字が、スチル写真でみるほど鮮明ではなく、書いたうちから文字どおり雲散霧消していくということの意味です。

描いたものが消えていくという点で想起したのが、表現方法も主題も全く異なりますが、オスカル・ムニョスの《あるメモリアルのためのプロジェクト》です。この作品は、路上のコンクリートの上に水で肖像画を描いていくけれど、日に照らされてたちまち消えていくのを収めた映像作品で、行方不明になる人々が後を絶たないコロンビアの政治的・社会的な状況を浮かび上がらせたものとされています。絵が完成しないうちに、最初に描いた部分が薄れていく様子は、Chim↑Pomの作品にも見られる特徴で、ともに、記憶というよりもその忘却を強く感じさせる表現だと思います。

「忘却」を意識したのは、それが日本語で書かれていたこととも関係しています。水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』が指摘しているように、近代の日本においては、西洋語を読みながら日本語で書くことに一定の意味があったとしても、英語のグローバル化が進む今日、日本語で論文を書くことの虚しさを感じたことがない研究者は、おそらくほとんどいないでしょう。「ピカッ」という文字はやはり日本語で書かれなくてはならなかったと思いながらも、この3文字のもつ意味合いが、日本語を超えた世界でどのように伝わるのか、考えさせられました。そしてそれは、単に日本語を使っているというだけの問題ではなく、日本語環境の経験によって作られた表現そのものが直面する問題であるように思います。

雲間に薄れてゆく「ピカッ」の文字に、戦争の記憶が失われ、戦後日本の平和が基づいてきたものが見えなくなる様子を重ね合わせながらも、それと同時に、私たちが用いている日本語が、そしてそれが可能にした経験や表現が、英語のグローバル化が進むなかで、どのような意味を担っていくのか、他の日本の作品も参照しながら、考えていく必要があると思いました。

ブロガー

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