国際美術展・回想(5)

| | コメント(0)
前回紹介した通り、2001年の第49回展にゼーマンは伊・英・独・仏の併記で「人類の舞台:プラテア・デル・ウマニタ/プラトー・オブ・ヒューマンカインド/プラトー・デア・メンシュハイト/プラトー・ド・ルマニテ(Platea dell'Umanità / Plateau of Humankind / Plateau der Menschheit / Plateau de l'humanité)」というタイトルを与えました。

もしこれに漢字やアラビア文字などアルファベット以外の表記も加わっていれば、より一層国際性や地球時代性を表現できたかも知れませんし、かえって「鼻につく」という批判を浴びたかも知れません。

スイス人のゼーマンは複数の欧州語に通じていました。伊英独仏の4言語に限ったのは、自らの守備範囲に自覚的な態度だと思えます。前回も引いたインタヴューで「アフリカ現代美術の動向を展覧会に反映できているか」という質問に、「アフリカについては、まだ一度も訪ねたことがないから作家を選出するのは難しい。ジュネーヴの現代美術館で見たキンゲレーズなどには関心を持っている」と答えていたくだりが思い出されます(『アートプレス』1999年6月号)。こうしたやりとりから類推されるゼーマン像は、自分の拠って立つところを的確に分析した上で行動の指針を決めていく人物です。

2001年の「人類のプラトー」という表題は、私にとって悩ましいものでした。先に耳に入っていた『千のプラトー』が意識にまとわりついていたためです。調べてみれば、「『人類のプラトー』はドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』が霊感源の一つだ、とゼーマンが冗談交じりに語った」という証言もありました(『アートフォーラム』2001年5月号、ダニエル・バーンバウムによる記事)。

ゼーマン自身は同展の図録の中で「この概念は多くの概念を内包している。それはプラトー(plateau)であり、基礎(basis)であり、土台(foundation)であり、プラットフォーム(platform)である」と述べていました(xviii頁)。さっぱり正体がつかめない、といった印象を持ったものです。

「人類の舞台」という訳は、『美術手帖』2001年9月号の小倉正史さんの記事に倣っています。ドゥルーズ+ガタリの「リゾーム」の邦訳からは「台地」という訳語も導かれるため、当初私は「人類の台地」の方が適切とも考えていたのですが、ある朝、ふとゼーマンが展覧会を「舞台」になぞらえるのには相応の理由がある、と腑に落ちました。

ゼーマンの生涯に関する記事の多くは、彼がベルンのクンストハレの館長に就任し、1969年に「態度が形になるとき」展を企画した辺りから書き起こして、同展の前衛性が問題となって、組織から独立した展覧会企画者の先駆けとなる、という流れでまとめられることが多いため、私自身、意識の表面に引っ張り出すのに時間がかかったように思えるのですが、ゼーマンは彼の経歴を演劇から始めた人でした。

詳しくは、同じスイス人でもあるハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタヴューに書かれていますが、ゼーマンは18歳の頃、友人の役者2人と音楽家1人と一緒にキャバレーを始め、そこで人間関係に嫌気がさして、1955年頃から結局一人芝居を始めた、と語っています(『アートフォーラム』1996年11月号)。

ゼーマンの言葉の中でも特に印象的だったのが「構想から釘まで(From Vision to Nail)」(前出の『アートフォーラム』、112頁)です。思い描いた仕事を実現するために釘を打つことも含めて全部独力でやる取り組みの姿勢として解釈されます。インディペンデント・キュレーターという肩書きと、一人芝居をやっていた経歴は、うまく符合しているようにも思われます。

語の多義性を活かすために「人類のプラトー」と敢えてカタカナ表記することも考えられるのですが、「人類の舞台」とした方が、私は命名者の人生―温もり―が感じられてより良い、と思えるのです。

20050615-2blog.jpg
リアルト橋から大運河を望む 2005年6月15日20時26分(晴れ)

ブロガー

月別アーカイブ