国際美術展・回想(6)

| | コメント(0)
2002年4月に山口大学へ着任して以降は、毎年、何らかの国際美術展を見に出掛けています。

研究テーマを国際美術展に絞ろうと考えたのは2003年秋頃です。2002年にドクメンタ11とマニフェスタ4、そしてカールスルーエのZKMで開催されていた「イコノクラッシュ(Iconoclash: 造語、Icon 偶像+clash 衝突)」展を見るためにドイツへ出掛けた時点では、デジタルカメラはまだビクターのGC-S1(98年3月発売)を使っていました。

当時のデジタルカメラの性能が格段に向上していることを認識できたのは、再び国際美術展のスライドレクチャーのおかげです。高価な電気製品は基本的に長く大切に使い続ける、という信条ですが、A.I.T.の主催で2002年7月に開催された「第11回ドクメンタを考える」(東京、スパイラル)で見た作品画像と、自分のカメラで撮影した画像の鮮明度の違いは悲しくなるほどに大きく、質素倹約の思想の一部を切り崩してでもデジタルカメラを買い換えねばならない、という気にさせられました。

それでもおそらく控え目と言えるニコンのCOOLPIX 3100を携えて出掛けた2003年の第50回ヴェネツィア・ビエンナーレを見終わった直後、私は、もうヴェネツィアに来るのはやめよう、と考えました。

第50回展の総合監督を務めたフランチェスコ・ボナーミは、「観客の専制」という副題を与えていましたが、アルセナーレの展示から受けた印象は、むしろ逆で、観客や出品作家をないがしろにし、展覧会の企画者の名前ばかりが飾り立てられているように思われました。同展の国際企画展部門は、複数の展覧会から構成されるオムニバス形式となっており、各会場の入口には、展覧会のタイトルとその展覧会を企画したキュレーターの名前が大きく表示されていました。言っていることとやっていることが違う。これではまるで「キュレーターの専制」だ、と腹立たしい気分になったのです。ボナーミには、「キュレーションのさまざまな方法論を比べる」という意図があったようです(『美術手帖』2003年9月号、42頁)。

そしてこの義憤に似た感情から、私は国際美術展を本格的に研究するための助成金申請書を書き始めました。

「国際美術展とグローバリゼーション―展覧会企画者の理論と実践」として財団法人花王芸術・科学財団の2004年度の芸術文化助成に応募し、幸いにも40万円の研究助成を得ることができました。

同研究課題につけた英語の副題が「Curator's Discourse and Audience's Experience(企画者の言説と鑑賞者の体験)」です。研究に取り組んだ1年のうちに、グローバリゼーションに関する基礎的な文献を読み、国際美術展図録の収集を拡充し、マニフェスタ5と光州ビエンナーレという欧州とアジアの国際美術展を比較しつつ、ビエンナーレ化現象(Biennalization)について考察することができました(マニフェスタと光州ビエンナーレは、ともに2004年に第5回展を迎え、それぞれ約10年の歴史を持っていました)。

また、あれこれ考察していく過程で、当初の怒りの矛先は、結局、展覧会企画者の意図というものは、展覧会の中にうまく実現できる場合もあれば、できない場合もある。思いが先走ることはむしろ多いのかも知れない、というごく当たり前の事実に思いが至って、随分と収まりました。「結果的な言行不一致」という理解です。

ところで、最近大阪でヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展のイスラエル館で見た作品と再会しました。ミシェル・ロブナーの《Order》と《More》で、出品されているのは新しく再編集されたものです。この作品のほかにも第48回展の日本館に出品された宮島達男の《MEGA DEATH》が展示されている「インシデンタル・アフェアーズ―うつろいゆく日常性の美学」(サントリーミュージアム[天保山]、5/11まで。企画・構成:大島賛都)は、国内の所蔵品をうまく活用しつつ、現代作家17名の質の高い作品を会場にバランス良く配した、とても好感度の高い企画でした。

20030918blog.jpg
カステッロ公園の並木道(画面左の椅子を乗せた木の切り株はクリストフ・シュリンゲンズィーフ《恐怖の教会》の部分。砂利道の中ほど右側の大きなパスポートはサンディ・ヒラル&アレサンドロ・ペティ《国境なき国家》) 2003年9月18日11時17分(晴れ)


ブロガー

月別アーカイブ