2004年に研究助成が得られことが決まって、先ず行ったのはマニフェスタ5の記者登録でした。プレス・プレヴューとも呼ばれる内覧会・開会式に参加するためです。記者登録は、ほとんどの国際美術展で、公式サイトから行えます。「Press accreditation(記者認定)」をクリックし、申込フォームに必要事項を入力。後日電子メールで送付されてくる書式を返送します。
かつて、国際美術展の展覧会場での撮影は大らかなものだったと記憶します。記者登録の必要性を感じたのは、2003年の第7回リヨン・ビエンナーレで会期中の撮影許可が下りなかった経験からです。会場撮影は内覧会の日のみに限定する、という方針です。一方、同じ調査旅行で回ったヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展では、そうしたことはありませんでした。
リヨン・ビエンナーレの事務局は、代わりに記者資料として作品画像の入ったCD-Rをくれました。しかし、日本に帰って中を見てみると、出品作家の過去の作品が中心で、展示されていた作品とは異なる写真が随分ありました。設営美術を中心とする現代美術展において、開幕と同時に発売される展覧会図録には、実際に会場で見ることのできた作品ではなく、図録刊行に間に合わせられた過去の作品写真が用いられるのが一般的です。リヨンの記者用CDは、図録に掲載されている図版とほぼ同一でした。
しかしながら、第7回リヨン・ビエンナーレでは2種類の図録が刊行されることになっていました。「アヴァン(事前)」と「アプレ(事後)」と題され、「アプレ」の方に会場写真が収録されています。展覧会終了後や会期中に、こうした記録集が刊行される例はいくつかあります。リヨンの第7回展のほか、ドクメンタ11、横浜トリエンナーレの第2回展(2005)年と第3回展(2008年)が、私の知っている例です。国際美術展の全体数に比して、ごく少数と言えます。
そうした中で、国際美術展の開催に合わせて、ふんだんに作品図版を掲載して特集号を組んでいるドイツの美術雑誌『クンストフォルム(Kunstforum)』や日本の『美術手帖』は貴重な情報源です。しかし、こうした雑誌でさえ、すべての出品作品を網羅してはいないのです。自分で撮影できなかった分については、各作家やその扱い画廊、そして展覧会主催者が蓄積しているであろう記録写真が最後の拠り所になります。
2004年のマニフェスタ5はバスク地方の観光都市ドノスティア=サン・セバスティアンで開催されました。内覧会は6月10日に行われ、翌11日午前中に記者会見、夕方には討論会、夜7-8時頃にジェレミー・デラーの企画による開幕パレードが行われました。
このうち、記者会見では「スペイン人作家がバスク出身のイニャキ・バルトロメ、アシエル・メンディサバル、D.A.E.の2人と1組、およびガリシア州出身でロンドン在住のアンヘラ・デ・ラ・クルスだけだったのには、政治的配慮があるのか」という質問に企画者の1人マッシミリアーノ・ジオーニが「国籍はまったく顧慮していない」とかわし、その直後に「王に死を(¡MUERTE AL REY!)」と書いたボードを掲げた女性が立ち上がり、液体の入ったペットボトルを主催者席に投げつけようとした男性が取り押さえられる、という顛末を目撃しました。
この2004年6月、バスク地方へ列車で乗り入れるための基点としてマドリードに滞在したのですが、同地のプラド美術館では、三脚を使わずフラッシュを焚かなければ作品の撮影ができましたが、2006年10月からは展示室内の写真撮影が禁止となりました。
デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、フィルムの残量を気にせず、持ち運びにも気にならない機器を使って大変気軽に写真撮影を楽しめるようになってきた一方で、撮影禁止区域の設定や許可制度の徹底もまた広がりつつあるように思います。
マニフェスタ5記者会見での一幕 2004年6月11日11時58分(外は曇り)
かつて、国際美術展の展覧会場での撮影は大らかなものだったと記憶します。記者登録の必要性を感じたのは、2003年の第7回リヨン・ビエンナーレで会期中の撮影許可が下りなかった経験からです。会場撮影は内覧会の日のみに限定する、という方針です。一方、同じ調査旅行で回ったヴェネツィア・ビエンナーレ第50回国際美術展では、そうしたことはありませんでした。
リヨン・ビエンナーレの事務局は、代わりに記者資料として作品画像の入ったCD-Rをくれました。しかし、日本に帰って中を見てみると、出品作家の過去の作品が中心で、展示されていた作品とは異なる写真が随分ありました。設営美術を中心とする現代美術展において、開幕と同時に発売される展覧会図録には、実際に会場で見ることのできた作品ではなく、図録刊行に間に合わせられた過去の作品写真が用いられるのが一般的です。リヨンの記者用CDは、図録に掲載されている図版とほぼ同一でした。
しかしながら、第7回リヨン・ビエンナーレでは2種類の図録が刊行されることになっていました。「アヴァン(事前)」と「アプレ(事後)」と題され、「アプレ」の方に会場写真が収録されています。展覧会終了後や会期中に、こうした記録集が刊行される例はいくつかあります。リヨンの第7回展のほか、ドクメンタ11、横浜トリエンナーレの第2回展(2005)年と第3回展(2008年)が、私の知っている例です。国際美術展の全体数に比して、ごく少数と言えます。
そうした中で、国際美術展の開催に合わせて、ふんだんに作品図版を掲載して特集号を組んでいるドイツの美術雑誌『クンストフォルム(Kunstforum)』や日本の『美術手帖』は貴重な情報源です。しかし、こうした雑誌でさえ、すべての出品作品を網羅してはいないのです。自分で撮影できなかった分については、各作家やその扱い画廊、そして展覧会主催者が蓄積しているであろう記録写真が最後の拠り所になります。
2004年のマニフェスタ5はバスク地方の観光都市ドノスティア=サン・セバスティアンで開催されました。内覧会は6月10日に行われ、翌11日午前中に記者会見、夕方には討論会、夜7-8時頃にジェレミー・デラーの企画による開幕パレードが行われました。
このうち、記者会見では「スペイン人作家がバスク出身のイニャキ・バルトロメ、アシエル・メンディサバル、D.A.E.の2人と1組、およびガリシア州出身でロンドン在住のアンヘラ・デ・ラ・クルスだけだったのには、政治的配慮があるのか」という質問に企画者の1人マッシミリアーノ・ジオーニが「国籍はまったく顧慮していない」とかわし、その直後に「王に死を(¡MUERTE AL REY!)」と書いたボードを掲げた女性が立ち上がり、液体の入ったペットボトルを主催者席に投げつけようとした男性が取り押さえられる、という顛末を目撃しました。
この2004年6月、バスク地方へ列車で乗り入れるための基点としてマドリードに滞在したのですが、同地のプラド美術館では、三脚を使わずフラッシュを焚かなければ作品の撮影ができましたが、2006年10月からは展示室内の写真撮影が禁止となりました。
デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及で、フィルムの残量を気にせず、持ち運びにも気にならない機器を使って大変気軽に写真撮影を楽しめるようになってきた一方で、撮影禁止区域の設定や許可制度の徹底もまた広がりつつあるように思います。
マニフェスタ5記者会見での一幕 2004年6月11日11時58分(外は曇り)