広島アートプロジェクトについて(1)

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このブログも今月で終わりですので、最後に私が関わっている広島アートプロジェクトについて書きます。

これまで書いてきたエントリーから分かりますように、私は、アメリカを中心とする近現代美術史、とりわけ美術批評史を主な研究対象としている研究者です。30代半ばまでは、主に英語の文献を読んでアメリカの美術と美術批評について考えてきました。

ところが、2007年4月に広島市立大学芸術学部に赴任して、状況が大きく変わりました。現代表現研究室の柳幸典さんがディレクターを務める「広島アートプロジェクト」という地域展開型のアートプロジェクトに携わることになったのです。赴任直後に開催された「旧中工場アートプロジェクト」には関わりませんでしたが、2008年2月にベルリンで開催した「CAMPベルリン」と、同年11月に広島で開催した「広島アートプロジェクト2008「汽水域」」には企画・運営に関わりました。

広島アートプロジェクトは、大学が中心となって企画・運営しているアートプロジェクトです。大学が中心のアートプロジェクトと言えば、取手アートプロジェクトが思い浮かぶ人が多いかもしれません。しかし、最近刊行された『アートイニシアティブ リレーする構造』(BankART1929、2009年)で東京藝術大学の渡辺好明さんが書いているように(この本では私も広島アートプロジェクトについて書いています)、取手アートプロジェクトは、最初の4年間は先端芸術表現科のプロジェクトとして行われたものの、次第に運営体制を学外・市民側に移していきました。それに対して、広島アートプロジェクトは、大学の教育の一環であることにこだわっていこうと考えています(註)。

それはなぜでしょうか。まずアートプロジェクトの担い手の問題があります。広島には、取手のように、20代後半の若い作家が近くに多くいるわけではありません。作家を志す者の多くは、大学を卒業すると、東京や京都などの大都市、あるいは海外に移り住んでしまいます。したがって、広島のような地方都市でアートプロジェクトをやる場合、担い手の中心は、現在大学で美術を学んでいる人たちになります。

そして、私たちには、アートプロジェクトを通して、大学の美術教育を変えていきたいという思いもあります。本学の芸術学部は、他の多くの大学と同様、技術の習得を重視してきましたが、その技術を社会の中でどのように活かすのか十分に教育してきませんでしたし、学生も自分たちの社会的な意味を考える必要がありませんでした。広島アートプロジェクトは、作品の制作や展示だけでなく、そのために必要な財政的な準備、地域住民や行政との交渉や調整なども学ぶ機会を提供し、アートマネジメントの能力育成と同時に、学生のシチズンシップ教育という側面も有した活動を行っています。私自身は、大学内の各種委員会で、芸術学部の教務や社会連携、中期計画作成等に関わって、教育体制の整備に向けて努力しています。

アートプロジェクトとは、「美術とは何か」という問いを生み出し続ける場だと私は考えています。この問いは、「美術館に置かれたものが美術作品となる」というデュシャン的な図式のために、長い間、美術館という制度と密接に関係してきましたが、今日、状況は大きく変わりつつあります。美術館とは無関係の場で制作される美術作品はますます増えています。その一つの場がアートプロジェクトです。街なかの展示では、作品と物体を区別する仕組みがあまり機能しませんし、アートプロジェクトは作品を購入しません。まちづくりを目指す行政中心のアートプロジェクトと違って、大学が中心となるアートプロジェクトにおいては、「美術とは何か」という問いはより根源的になり、作品はより実験的になります。学生の中で作家になれる者がごくわずかであるという事実は、その問いをさらに切実なものにします。大学主体のアートプロジェクトは、「美術とは何か」という問いを最も深刻に受け止めて、美術を前に進めていく重要な役割を担っていると思います。

なお、広島アートプロジェクト2009は、今年の9月半ばに予定しています。ぜひご来場いただければと思います。


広島アートプロジェクト実行委員会は、広島市、広島市文化財団、広島市現代美術館の職員、広島市立大学の教職員、広島市民等からなる非営利団体です。本文は、あくまでも広島市立大学の教員としての立場に基づいた意見を述べたものであって、実行委員会自体が大学の教育をもっぱらに考えているわけでは必ずしもないことをお断りしておきます。

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