教育普及は今日も行くのだ。

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こんにちは。YCAMの会田です。

これまで僕の記事を読んで下さった皆さま。ありがとうございました。これが最後のアップロードになります。

最後に、これまでのまとめをしたかったな、と思い「最後に一本だけ書かせて」と編集部にお願いしながら、ぜんぜんアップできず。次のブログがスタートするギリギリ今日になって、書いています。定期的に面白い記事をアップしていくというのは癖づけないとなかなか出来ないですね。でも、書く機会があるというのは幸せなことだったなと思ってます。

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(画像は、「セミトラ インスタレーション展 tFont / fTime」のギャラリーツアーの様子。)
さて、これまで「教育普及」というあまりオモテに出てこない仕事を、artscapeブログを通じて少し紹介できたかな、と思っていますが、いかがだったでしょうか。日本には、文化施設という場所は沢山有り、僕と同じように教育普及の仕事に携わるひとも沢山居るのではないかなと思っています。

教育普及というのは、そのミュージアムが持っている作品や、コンテンツを、観客の皆さんがどのように楽しんだり味わったりしているのか、という、いわば化学反応のような「事件」が起きているもっとも先端の現場で、それをつぶさに見ることができる仕事です。企画を立ててコンテンツを生み出す仕事(つまりキュレーター)とタッグを組んで、時にその補助的な役割にまわったり、時にその企画を批評するような気構えで臨んだり、といった変幻自在な立場でもあります。

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僕自身は、自分で作品を制作することもあって、作品とそれを見る人(観客)が、どういった反応を起すのかに大変興味があります。「人それぞれ」と言えばそれまでですが、その人それぞれの中にも、共通するようなドラマもあり、変化もあります。作品を観る、という行為はもちろん、癒しを求めたり、週末のデートで気軽に立ち寄る、といったものかもしれないし、もしかしたら「人生を変えられるほどの衝撃」を与えられてしまう場であるのかもしれません。会場に立ち寄っているその場で完結してしまう短い反応もあるのかもしれないし、家にまで作品の印象を持って帰り、心のどこかに棘が刺さったように長年ずっと引っかかってしまうような出来事なのかもしれません。規模の変化にも富んでいます。観客個人の中での反応といったスケールから、そのミュージアムが置かれている都市や共同体との関わり、といったスケール。また日本の中での文化政策、その国に於ての文化の享受のしかたといった大きなスケールにまで立ち合うことが出来ます。僕の場合は、YCAMという、メディアを通じた表現の現場に立ち合っているので、「メディア社会」という状況にも同時に関わることになっていると思います。

それらすべての出来事に興味があります。ちょっとかっこよく言うと、「人はなぜ作品を観るのだろうか?」という事なのかもしれません(いや、当たり前過ぎてあまりかっこよく無いですね)。有史に残る「作品」と呼ばれるようなモノたち。それらは全て多くの観衆、観客とともに生き残ってきました。見る人がいなければそれは残ってこれなかった、ということです。そして関わる多くの人が、作品に触れることの喜び(楽しいだけじゃなく、厳しいことや辛いことも含めて)を味わいながら、関わってきているんですね。生産者(アーティストやキュレーター)と消費者(観客、ユーザー)をつなぐ、いわば「流通」を担当するかのようなこの教育普及という仕事は、まだまだ開拓の余地のある面白いジャンルだと思っています。

この先には、直感だけでは進めない、ある程度、分析的な目線も必要になってくるかな、とも思っています。観客に対する理解をより多角的に深めるため、YCAMの教育普及では「評価方法の研究」という新しい取り組みをスタートさせています。この先まだまだやるべきことは沢山あります。多くのミュージアムでより一層、コンテンツと観客の関係が考え抜かれていくことを期待したいな、と思います。

チャンスをくれた編集部の皆さま。本当にありがとうございました。
そして読者の皆さま!またどこかでお会いすることが出来れば幸いです。それまで、さようなら!

ブロガー

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