アート・アーカイブ探求
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《聖マタイの召命》──運命の岐路「宮下規久朗」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2022年08月01日号
※《聖マタイの召命》の画像は2022年8月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
光と闇のあわい
西洋美術史においてとても重要な画家であっても、意外と作品名が浮かんでこないのがカラヴァッジョであることに気が付いた。ベラスケス(1599-1660)やレンブラント(1606-69)、フェルメール(1632-75)らの巨匠は、カラヴァッジョがいなければ生まれなかったと言われている。いままでにないリアルでドラマティックなカラヴァッジョの描写力に衝撃を受けた人は多く、筆者ももちろんカラヴァッジョの絵は画集などで知っていたが、絵と作品名がしっくりと結び付いていなかった。実物を見た体験が少ないことが原因かもしれない。少しでもカラヴァッジョに近づくために代表作《聖マタイの召命(しょうめい)》(ローマ、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会蔵)を探求してみようと思う。
宗教画である《聖マタイの召命》は、教会の壁画であるため、実際には下から見上げるように鑑賞することになるのだろう。画像をよく見ると横長に見えた画面はほぼ正方形で、暗い部屋にシャープな光が射し込み7人の男たちがいる。演劇のワンシーンのように、一条の光を背景に二人の手が左方向を指差し、テーブル席に座った男たちに何かを呼びかけている。光源の方を見て驚いている者、熱心にコインを数えている者もいる。この光と闇のあわいで何が起きているのか。カラヴァッジョの代表作となっている理由は何なのだろう。神戸大学大学院人文学研究科教授の宮下規久朗氏(以下、宮下氏)に《聖マタイの召命》の見方を伺いたいと思った。
宮下氏は、イタリアを中心とする西洋美術史と日本近代美術史を専門とし、展覧会「カラヴァッジョ──光と影の巨匠 バロック絵画の先駆者たち」(東京都庭園美術館ほか、2001)の監修のほか、『カラヴァッジョ──聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会、2004)や『一枚の絵で学ぶ美術史 カラヴァッジョ 《聖マタイの召命》』(筑摩書房、2020)など、カラヴァッジョに関する著書を数多く執筆されている。兵庫県にある神戸大学へ向かった。
カラヴァッジョ体験
坂道を上り、高台にある神戸大学の六甲台キャンパスに着くと、眼下には大阪湾を望む絶景が広がっていた
。研究室の入口ドア一面にアートに関するさまざまな印刷物が貼られていて、迷うことなく宮下研究室を訪ねることができた。1963年名古屋市に生まれて瀬戸市で育った宮下氏は、物心ついた頃から絵が好きで、昆虫や恐竜の絵を描いていた。小学校の高学年になると図書室に入ったアーネスト・ラボフ編著の「少年少女世界の美術館シリーズ」を見て、アンリ・ルソー(1844-1910)など西洋の絵画を模写しながら画家を志した。日曜日の朝に映画監督の吉田喜重が手掛けたテレビ番組「美の美」で、カラヴァッジョが放映されて衝撃を受けた宮下氏は、すぐに瀬戸市立図書館へ行ってカラヴァッジョについて調べたが、本は一冊もなかった。あったのは美術全集のなかのカラヴァッジョの作品図版で、それを鉛筆で模写したそうだ。その頃、高階秀爾『名画を見る眼』(岩波新書)を読み、美術史という学問の存在を知って興奮し、画家志望を辞めた。中学生の頃、学芸員という職業を知って志望し、高校では現代アートに惹かれながらも本格的に美術史の勉強がしたくなり、高階先生のいる東京大学を目指した。
一浪後、東京大学に入学し、辻惟雄先生の影響で日本美術史を専門にしようと思った時期もあったが、卒業論文、修士論文ともにカラヴァッジョについて書いた。1989年同大学大学院人文科学研究科修士課程美術史学専攻を修了し、同年兵庫県立近代美術館(現兵庫県立美術館)の学芸員となる。最初の担当は世田谷美術館などに巡回した「シャガールのシャガール展」(1989)で、翌年は先輩学芸員の木下直之氏(現在、静岡県立美術館館長)の手掛けた「19世紀の日本美術」展の副担当をして日本近代美術史の面白さに目覚めた。1992年に東京都現代美術館の設立準備室へ転職。ロイ・リキテンスタイン(1923-97)の《ヘア・リボンの少女》の購入を推進するなど館蔵品のコレクションに関与し、また「アンディ・ウォーホル 1956-86:時代の鏡」展を担当するなど現代アートに深く関わった。しかし、改めてカラヴァッジョなどバロック美術をしっかり研究したいと思い、1995年公募のあった神戸大学へ転職し教鞭を執っている。神戸の町の開放的で猥雑な雰囲気はカラヴァッジョの放浪したナポリのような南イタリアに似ており、カラヴァッジョを研究するには最適の環境だという。
最初に《聖マタイの召命》を見たのは、子供の頃の印刷物だった。中学生時代には親が新聞の日曜版にカラーで取り上げられていたのを職場から持ってきてくれて、それをセロテープで貼って部屋に飾っていたという。実物を見たのは、大学3年生の春休みに初めてイタリアへ行ったときだった。「高くて大きい教会建築の空間と薄暗さが相まって、光とリアリティーにすごく感動した。私は“カラヴァッジョ体験”と名付けているが、カラヴァッジョの作品は作品と空間一体で味わうべきものであって、図版だけではなかなか説明がつきにくい。当時は真っ暗でコインを入れると照明が点いて絵を見ることができた。そのとき、研究する対象はカラヴァッジョ以外考えられないと思った」と宮下氏は語った。
バロック美術の幕開け
カラヴァッジョの通称で美術史に名を残したミケランジェロ・メリージは、1571年イタリア北部の商業地ミラノに父フェルモ・メリージと母ルチア・アラトーリの3人兄弟の長男として生まれた。父はミラノから東へ約50キロの地点にある信仰心の篤い人々が暮らす町カラヴァッジョに領地を持つカラヴァッジョ侯爵に仕える執事であった。しかし、1577年に流行したペストによって父と祖父、叔父を亡くし、一家は零落してしまいミラノからカラヴァッジョへ移住する。自立しなければならなくなった13歳のカラヴァッジョは、ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノ(1540-86)の見習いとして1584年から4年間の徒弟契約を結び、聖書の情景や静物画的な細部描写を学んだ。
カラヴァッジョには1588年から1595年頃まで約7年間の空白期間があり、ミラノで刑務所に入っていたという説もある。1590年に母が亡くなっている。1595年頃、文化芸術の中心地ローマへ出たカラヴァッジョは、画家の工房を転々とし、ローマで華々しく活躍していた画家カヴァリエール・ダルピーノ(1568-1640)の工房に1594年に入るも8カ月で辞めてしまう。ローマはカトリック改革が活発化しており、「イエスの奇跡」を明瞭に伝える手段として美術を重んじ、また1600年の聖年
に備え、建築・改修ラッシュがあり、ヨーロッパ中から芸術家が集まっていた。1595年24歳のときに描いた風俗画《いかさま師》が、ローマ教皇に次ぐ高位の聖職者フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿の目に止まり、カラヴァッジョは枢機卿の邸宅マダマ宮殿に移り住んだ。風俗画や静物画を描きながら写実力を身に付けて、1599年マダマ宮殿の隣に建つ、フランス人のための教会であるサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会の壁画「聖マタイ伝」2点の注文を受けた。カラヴァッジョにとって初めての公的な大きな仕事で、デル・モンテ枢機卿の口利きがあったと思われる。
カラヴァッジョは、大作《聖マタイの殉教》と《聖マタイの召命》を完成させて、1600年29歳でローマ画壇にデビューした。明暗法と写実性を兼ね備えた斬新な宗教画を描いて名声を得、バロック
美術の幕を開いた。しかし、1603年競合した画家ジョヴァンニ・バリオーネ(1566-1643)を誹謗中傷した卑猥な詩を流布させたとして訴えられた。このときカラヴァッジョは、優れた画家とは「自然の事物をうまく描き、うまく模倣することのできる画家だ」と写実主義のマニフェストとなる持論を述べている。1604年マダマ宮殿を出てひとり暮らしになるが、それ以前から生来の放蕩の血が騒ぎ出し、生活が乱れた。暴行傷害、武器不法所持、警官侮辱、名誉棄損、器物損壊、殺人未遂などで、何度も出入獄を繰り返し、1606年には以前から対立していたチンピラグループと4対4の決闘をして、その頭目の弟ラヌッチョ・トマッソーニを刺殺。自身も深手を負うがローマから逃亡、死刑宣告が出されたが、有力な支持者を得ながら絵を描いては南イタリアを転々とする。彼はまず、ローマ南東の山岳地帯にあるローマ随一の名門貴族コロンナ家の領地に匿われた。コロンナ家は、カラヴァッジョが幼少の頃から世話になったカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァの実家であった。そこで《エオマの晩餐》などを描き、逃亡資金を得てナポリへ移った。当時スペイン領のナポリは、人口30万人というヨーロッパ最大の都市で、活気に満ちていて逃亡者にはもってこいの場所だった。
逃亡と絵画制作
ナポリでは《慈悲の七つの行い》や《キリストの笞打ち》を描いた。1カ所に長居できないカラヴァッジョは1607年、突然マルタ島に渡り、島を治めていた聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団と呼ばれていた)の庇護のもとで作品を制作する。マルタ騎士団の一員になれば、殺人の汚名を返上できる可能性があったのだ。イタリア全土に名声を馳せていたカラヴァッジョは、畢生の大作《洗礼者ヨハネの斬首》を完成させて騎士団に奉納。それまでの様式とは異なり、闇を強めて怪しい輝きを帯びたカラヴァッジョ芸術の頂点をなすものであった。おそらくカラヴァッジョ侯爵夫人の縁戚からの働きかけもあり、「恩寵の騎士」として騎士団に入会することが認められた。
しかし、1608年にまたも仲間の騎士5人と高位の騎士を襲撃して重傷を負わせてしまう。すぐに逮捕され地下牢に収監、2週間あまり後、おそらく仲間の手引きで脱獄し、シチリア島シラクーザに渡った。騎士の称号は剥奪されたが、ローマ時代の弟分の画家マリオ・ミンニーティ(1577-1640)と再会。ミンニーティはカラヴァッジョを匿い、祭壇画《聖ルチアの埋葬》の仕事を紹介した。そして、マルタ騎士団の追手を逃れて人口10万人の港湾都市メッシーナへ移り、祭壇画《ラザロの復活》と《羊飼いの礼拝》を制作。1609年の夏にはシチリア島の中心都市パレルモに移ったとされるが、同年10月にメッシーナから直接ナポリへ戻ったとも考えられている。ナポリでは居酒屋チェリーリオの入口で何者かの手にかかり、顔面を傷つけられ瀕死の重傷を負った。
それでもカラヴァッジョ侯爵夫人コスタンツァ・コロンナの救援の手が差し伸べられ、ナポリ郊外のキアイアにある別荘のチェラマーレ宮殿に滞在し、療養しながら作品を描き続けた。恩赦を期待しつつローマへ帰る決意をしたカラヴァッジョは、1610年ナポリから帆船に乗ったが悪天候のためローマの北にあるパロに着いた。そこで山賊と間違えられて投獄され、数日後に釈放された。荷物と一緒に作品を積んだ帆船はすでに次の寄港地ポルト・エルコレに発っていた。カラヴァッジョはパロから北へ100キロほどにあるその港を目指して、7月の灼熱の海岸を歩き始める。ポルト・エルコレにたどり着いたが、船は見つからず、重い熱病に罹ってしまった。サンタ・クローチェ同信会の看護を受けたが、1610年7月18日帰らぬ人となった。享年38歳。同信会のサン・セバスティアーノ礼拝堂近くにある墓地に埋葬された。その直後、ローマ教皇により恩赦が出る。
カラヴァッジョの様式や影響を受けた画家は多く、カラヴァッジョの画風を追随する画家はカラヴァッジェスキと呼ばれた。ローマやナポリでも生前から模倣者が続出し、カラヴァッジョの絵は大流行した。粗野な自身に従った悪しき様式の創始者として一時は評価を落としたが、19世紀の自然主義者ギュスターヴ・クールベ(1819-77)らに見直され、20世紀にはイタリアの美術史家ロベルト・ロンギ(1890-1970)よって評価されて、バロック美術の創始者にして、西洋美術史上もっとも大胆な変革者となった。
【聖マタイの召命の見方】
(1)タイトル
聖マタイの召命(せいまたいのしょうめい)。英題:The Calling of Saint Matthew
(2)モチーフ
キリスト、使徒ペテロ、マタイ、徴税人、商人、紙のようなものが貼られた窓、テーブル、椅子、コイン、小袋、帳簿、インク壺、ペン、サーベル。
(3)制作年
1600年。カラヴァッジョ28歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
縦322×横340cm。教会建築の壁面サイズ。
(6)構図
板戸がこちらに開き、十字状の桟のある窓を背景にした水平の構図に、右上から左下へと斜光が射し込み、外光と室内の陰影との鋭いコントラストの空間に等身大の人物が浮かび上がる。
(7)色彩
黒、茶、黄、赤、白など多色。黒からグレーやアンバー(琥珀色)へのグラデーションにより、空間に深みを与えている。
(8)技法
油彩。キャンバスに褐色の下塗りを施し、その上にペンティングナイフや筆の柄で大まかな線を刻みつけ、それをもとに明暗法と写実的手法を用いて着彩した。X線画像で見ると、描き直しが多く、人物が大きくなるように描き直している。カラヴァッジョはデッサンをせず、キャンバスに直接描いた。明暗の対比や光の表現に不向きで、描き直しが利かないフレスコ画は手掛けなかった。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
居酒屋のように狭い収税所に当世風の服を身に着けた商人や徴税人たちが座っている。右上から一条の光が射し込み、布を巻き付けた古代風の衣をまとう裸足のキリストが、使徒ペテロとともに入ってきてマタイに呼びかける。「私について来なさい」。顔を上げた人々の顔が照らされた。テーブルの上には財布のような袋、開いた帳簿、インク壺とペンが置かれ、左端で徴税人が背を丸めてコインを数えている。頭上に光輪をのせたキリストがマタイに向かい差し出した力ない右手の表現は、ミケランジェロ(1475-1564)の有名な天井画《アダムの創造》(1510、ヴァティカン宮殿システィーナ礼拝堂蔵)のアダムの左手を右手に変えたもの。エデンの園から追放された最初の罪人アダムに対し、第二のアダムとして生まれたキリストは救世主であることを暗示している。キリスト教では罪人とされていた徴税人に対し、キリストが徴税人レヴィ(後のマタイ)に声を掛けた。レヴィは、すべてを捨てて立ち上がり、キリストの弟子となって福音書記者という仕事を得る。罪と闇が支配する底辺の社会で、中間搾取する卑しい徴税人をも弟子としたキリストの革新性を捉え、キリスト教の経典である『新約聖書』の運命の岐路を劇的に描いている。イタリアでは、一般的に帽子を被った髭の男がマタイとされているが、うつむいて一心にお金を勘定している若者こそがマタイであるという説が有力となっており、誰がマタイかはいまだ定かでなく、また絵の鑑賞者自身もマタイになり得るという可能性を残している。宗教画であるが、風俗画のような聖と俗の狭間を表わし、従来にない劇的な明暗効果と迫真性によって現実性を感じさせる。カラヴァッジョの画壇デビュー作であり、代表作でもある。バロック美術の扉を開いた記念碑的作品。
意志と行動
「召命」とは欧米で天職、あるいは職業や仕事という意味があるという。「マタイの召命」は「マタイの仕事」という意味にも取れ、仕事とは自分で選んで従事するものではなく、神から与えられた使命であるという考えが背景にあると宮下氏。「どんな職業であれ、自分の就いた仕事は天職であり、それは神の呼びかけにほかならない」と述べている。
宮下氏は《聖マタイの召命》の特徴は主に三つあるという。「ひとつはリアリズム。本物そっくりに表現する力。人や事物の質感に見られる写実主義、これがカラヴァッジョが強く押し出したもの。それまでのラファエロ(1483-1520)やミケランジェロにはなかったところ。二つ目は、光が主人公であるということ。ラファエロの絵はどれもが均等に光が当たっているが、カラヴァッジョの場合は一方向から光が当たって、光が画面の中心を占めている。光を重要視することがその後の西洋絵画の主流になって印象派まで続く流れとなっている。光がドラマの主人公になっている。三つ目が、宗教の現代的解釈。つまり過去に起こったキリストの時代の出来事がいまなお起こっていると思わせること。登場人物は当時のローマの同時代の人たち。キリストとペトロだけが裸足で古代風の格好をしている。だけど現代にも起こりうる。自分の仕事に夢中になっている人だって次の瞬間に救われるかもしれない。みんなが画面の登場人物に仮託できる。現代もこういうキリストはきているのではないかと。つまり聖書の物語は過去の物語ではなく、いまも起こりうる。宗教をアップデートし、刷新したというのがカラヴァッジョの一番の力。この三つの点で《聖マタイの召命》は、西洋美術を変えたと言える」と簡潔に語った。
また、マタイについては「サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会で《聖マタイの召命》を見ると若者の方が目立って見えることなどさまざまな要件から、いままでは左端の若者がマタイと主張してきたし、基本的にそう思っている。だが最近は髭の男でもいいのではないかと思う。要するにカラヴァッジョはわざと曖昧にしたのではないかという可能性もある。キリストがひとりだけ指名して、髭の男は自分だと思っている。だけどおそらくは左端のうつむく若者を指定している。キリストが来たのは罪人を招くためであり、誰もが意志と行動によって救われる。救済は誰にでも与えられるという、ひとつの宗教を越えた開かれた絵画になっている」と宮下氏は述べた。カラヴァッジョは美術史上、最初の写実主義者であり、イタリアの静物画や風俗画の創始者でもあった。その革新性は宗教画においてもっとも際立っており、それは《聖マタイの召命》に始まっている。
宮下規久朗(みやした・きくろう)
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2022年8月