アート・アーカイブ探求
ルーチョ・フォンターナ《空間概念 期待》──視点を変えて見る「巖谷睦月」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年04月15日号
※《空間概念 期待》の画像は2023年4月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
高揚感と警戒心
桜の花を見上げることで、冬を越した春を実感する。全国的に桜の開花日が年々早くなってきて、今年は東京では3月14日に開花した。平年より10日、昨年より6日早かった。青空に咲く、薄いピンクの花は何かを予感させるものがある。絵筆の代わりに飛行機を飛ばし、空に絵を描く中国出身の詩人・芸術家、牛波(にゅうぽ。1960-)の《大空絵画》が浮かんできた。
30年ほど前、牛波は東京タワーの上空に飛行機から出したスモークで渦巻きを描いたり、無重力をつくり出す実験用の飛行機を使った《宇宙アトリエ》で絵を描いた。同世代ということもあってか、誘われて彼の自宅を訪れたことがある。玄関の飾り棚に小さな赤いキャンバスが置かれていた。よく見るとキャンバスはカッターナイフで縦に切ったような跡が3本あり、そのうちの1本の切り口は針と糸で縫い合わせている途中だった。フォンターナの作品を思い出したのと同時に、なんだか傷口を治療している感じに癒されもした。ルーチョ・フォンターナの代表作《空間概念 期待》(大原美術館蔵)を探求してみようと思う。
赤一面のキャンバスに刃物で縦に切り込みを入れた《空間概念 期待》。二次元の絵画を一挙に三次元へ転位したような佇まいで、不思議なマジックが始まる前の高揚感と、鋭い切り口から生じる警戒心が入り交じる。この絵画は何なのだろう。東北学院大学教養教育センター准教授の巖谷(いわや)睦月氏(以下、巖谷氏)に《空間概念 期待》の見方を伺いたいと思った。
巖谷氏は、この作品を絵画とは思っていないと言う。絵画でないならば何なのだろうか。イタリア近現代美術史を専門とされている巖谷氏は、共著『教養のイタリア近現代史』(ミネルヴァ書房、2017)のほか、フォンターナについて博士論文を書かれている。宮城県仙台市にある東北学院大学の新キャンパスへ向かった。
もっとも美しいもの
東京駅から東北新幹線に乗って約2時間、仙台駅直前の左手に高層ビルが見えた。4月から開学する東北学院大学五橋(いつつばし)キャンパスだった。仙台駅から徒歩で15分、まっさらな研究室で巖谷氏が迎えてくれた。窓からは仙台湾の海を望むことができる。
巖谷氏は、1982年東京に生まれた。子供の頃から絵を描くのも見るのも好きで、幼稚園児の頃は、画家か小説家になりたかったという。父はフランス文学者の巖谷國士(1943-)。母が小さい頃からよく美術館へ連れて行ってくれたそうだ。小学生のときには、家族3人で夕食の後にたびたびゲームをやった。父方の家に継承されているゲームで、紙とペンさえあればできる「山川市花鳥木獣人魚」というゲーム。例えば、今日は「あ」と言うと、全員で「あ」の付く山、川、市……を紙に書く。阿蘇山、阿武隈川、会津若松市などと書いて、正解数の多い人が勝者になる。巖谷氏は幼い頃は両親に勝てなかったが、小学校6年生くらいになるとまれに母に勝てるようになった。
父が若い頃に肺を患った関係で、小学校6年生頃まで巖谷氏は毎夏避暑に空気のよい軽井沢へ行っていた。知人の伝で借りた、持ち主の使わない別荘で過ごした。暑くなるたびに誰かの家に連れて行かれるようで、子供にとってはやや居心地が悪かったという。しかし、そんなある日、両親と訪れたセゾン現代美術館に行った良い思い出もある。水辺にクレソンが群生した美しい庭があった。「どの作品が好きか」と親に聞かれ、巖谷氏は「フォンターナの《空間概念》と、中西夏之(1935-2016)の《山頂の石蹴り》」を挙げたという。漢字がまだ読めない幼稚園か小学校の低学年のときだったので、こんな感じの絵と言って伝えたようだ。フォンターナの実物作品を見た記憶がはっきりと残っているのは、1992年の新宿・三越美術館で開催された「ルーチョ・フォンターナ展──切り開かれた空間」に母と出かけたときが最初だそうだ。
中学2年生になると、自分の部屋の壁に、夏休みに両親に初めて連れて行かれたヨーロッパ旅行土産のパウル・クレー(1879-1940)のポスターと、ハンガリーのムンカーチ・ミハーイ(1844-1900)の風景画ポスターを貼った。子供の頃から人が描かれていない絵が好きで、「お前は変わっている」と父に言われたことがあると笑う。
大学は、芸術関係で文章を書く仕事を目指して、東京藝術大学美術学部芸術学科へ入学した。修士、博士課程へと進み、2年間ボローニャ大学へ留学し、2014年博士号(美術)を取得し、博士後期課程を修了。卒業論文、修士論文、博士論文ともにテーマはフォンターナだった。その後、東京藝術大学の助手や同大学院の専門研究員、東京都庭園美術館の学芸員などを経て、2020年より東北学院大学の准教授として教鞭を執っている。
巖谷氏が岡山県にある大原美術館の《空間概念 期待》を初めて見たのは、「小6か中学に入ったくらいの頃、家族旅行で倉敷に寄ったとき」だった。大学入学前までフォンターナの作品といえば大原美術館の作品をイメージしていたという。藝大の学部入試を受けた際、二次試験の小論文のテーマが「あなたにとってもっとも美しいものについて800字で書け」で、巖谷氏はこのとき、フォンターナの赤いキャンバスに三つの切れ込みの入った《空間概念》について書いたそうだ。
芸術の融合『白の宣言』
ルーチョ・フォンターナは、1899年にアルゼンチンのロサリオ・デ・サンタ・フェで生まれた。父は商業彫刻の会社を営むイタリア人ルイージ・フォンターナ、母は小劇場の女優でスイス人の血を引くアルゼンチン人ルシア・ボッティーニとされる。両親はほどなくして離れ、1906年イタリアの親戚の家に預けられ、スイスと接するイタリア北部ヴァレーゼ県の寄宿学校に入学。1911年からはヴァレーゼ県に隣接するモンツァ・エ・ブリアンツァ県にある技術系の寄宿学校へ進学した。1914年父が来て、ミラノで一時同居し、父のアトリエで彫刻を学び始める。カルロ・カッタネオ工業専門学校に入り、同時にブレラ・アカデミー付属芸術高等学校へ通い、建築士を目指す。しかし、第一次世界大戦(1914-18)が勃発し、1916年志願して義勇兵となる。歩兵隊少尉にまでなったが、腕を負傷し除隊した。戦後には学業に復帰し、建築士の資格を得る。
1922年23歳、父方の家族とともにアルゼンチンへ移住。1924年独立し、初めてロサリオにアトリエを構えた。翌年、女性の頭部習作《メロディアス》を制作、彫刻家の第一歩を歩み出した。1926年アルゼンチンの芸術家集団「ネクサス」の展覧会「第1回ロサリオ芸術家サロン」展に《フアン・ソッチの肖像》を出品、奨励賞を受賞。
1927年再びイタリアへ向かい、ミラノのブレラ美術学校の彫刻科に入学、彫刻家アドルフォ・ヴィルト(1868-1931)の授業に通い、ディプロマ(学位免状)を取得して1930年に卒業する。同年第17回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品し、1931年にはミラノのミリオーネ画廊で初個展を開催。可能な限り質量を削った形態の《抽象彫刻》シリーズを始め、1935年パリで結成された芸術家集団「アプストラクシオン・クレアシオン」に参加する。1937年のパリ万博に出品し、銀メダルを受賞。1930年代にはセラミック作品をよく制作するようになり、セーブルなどフランスで活動する時期もあった。
1940年41歳、第二次世界大戦(1939-45)が勃発し、父の要請とコンペへの参加から再度アルゼンチンに戻った。美術学校の教師としても働きだし、1946年アルタミラ造形芸術自由学校を組織した。この時期に知り合った若い芸術家たちが、マニフェスト『白の宣言』を発表。フォンターナはこれに署名していないものの、アイデアを提供・共有したとされる。『白の宣言』には科学技術の時代を前向きに捉えたうえでの、人間の感覚や自然への信頼、潜在意識の礼賛があり、さまざまな既存の芸術の潮流や運動の融合が意図されている。
宇宙を志向する空間主義
『白の宣言』を踏まえた「空間主義(スパツィアリスモ)」の第一宣言『空間主義者たち』を、芸術家や文筆家の仲間たちと発表したのは、イタリアに帰った1947年48歳のときだった。複数の宣言によって示された空間主義運動の核になったのは、「目に見えない空間に形を与えるための試み」「空間をつらぬく形態、色彩を空中にとどめようとする試み」であった。
前者の実例は、1949年に開始した《空間概念》シリーズである。シリーズのなかには、穴、意志、バロック、チョーク、インク、油彩、紙、切り口(期待)、量、金属、神の終末、小劇場、楕円といったテーマがある。フォンターナは描かれるべきキャンバスに物理的な穴を開けた。絵画を支えてきたキャンバスの穴は表面に対する装飾となり、光の通り道ともなり、行為の痕跡にもなった。立体としてのキャンバスを取り戻し、画布の向こうにある空間を暴いて見せた。破壊行為ともとれるが、フォンターナの発見であり、創造であった。フォンターナは、「イタリアのような国では、カンヴァスに穴ひとつあけるのにも10年かかった」(岡田隆彦監修『フォンタナ展』図録[1984])と言っており、また「画家として、カンヴァスに穴を穿(うが)つ時、私は絵画を制作しようと思っているのではない。私は、それが絵画の閉鎖された平面をこえて無限に拡がるよう、空間をあけ、芸術に新しい次元を生みだし、宇宙に結びつくことを願っている」(図録『フォンタナ展』[1986]p.42)とも述べている。
後者の実例としては、1951年の第9回ミラノ・トリエンナーレ会場の天井に設置された《ネオンの構造体》がある。「空間をつらぬく形態、色彩」という空間主義の宣言文の内容にもっとも近く、フォンターナらしい表現。本展では第1回国際プロポーション会議も開催され、フォンターナは「空間主義」の第四宣言にあたる『技術宣言』を発表した。ミラノ・トリエンナーレは、フォンターナが本領を発揮した展覧会で7回参加している(第8回と第12回をのぞく第5回から第13回まで)。巖谷氏は「空間主義は、抽象芸術を経験した芸術家によって、未来派の影響下に生み出され、アンフォルメルと同調しながらも、独自性を失わなかった。これまでにない視点からものを見ることで、隠されていた真実にたどり着こうとする姿勢こそが、空間主義の基本的なあり方である」と述べた。
地球から自由にならねばならない
フォンターナは1949年、ミラノのナヴィーリオ画廊にて個展を開催、初めてブラックライトを使用した《ブラックライトの空間環境》を展示、1957年には親しいフランスの画家イヴ・クライン(1928-62)の青のモノクローム絵画をミラノのアポリネール画廊で購入した。
1958年59歳、第29回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、フォンターナの個人展示室が設けられた。《空間概念》シリーズにおける切り口をもった作品である《空間概念 期待》の制作が始まる。彩色したキャンバスに一筋や数本、または十数本の切れ目を入れたきわめて簡素な作品である。この《空間概念 期待》を研究するイタリアの美術評論家エンリコ・クリスポルティ(1933-2018)は、「広く故意にあいまいな意味をもち、未来の状況に対する仮説を含んでいると同時に、形而上的な黙考の意図、明らかな性的なほのめかしをもつ」(谷藤史彦『ルチオ・フォンタナとイタリア20世紀美術』p.294)と読み取る。
1959年には、第5回サンパウロ・ビエンナーレや第2回ドクメンタ、日本橋白木屋画廊での「今日のイタリアの画家たち」展などに出品。1966年には第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門で第1位を獲得する。1968年ミラノを去り、ミラノの北西約55キロ、イタリア北部の古都ヴァレーゼ市近郊のコマッビオへ移住し、同年9月7日、ヴァレーゼの病院にて心臓麻痺により死去。享年69歳だった。コマッビオの墓地に眠っている。
多作であると同時に石膏・テラコッタ・ブロンズ・セラミック・セメントなど、多彩な材料を用い、彫刻のほか陶芸・ドローイング・版画・絵画・照明デザインといった幅広い領域で制作する多面性のある芸術家だった。生まれ故郷のアルゼンチンとイタリアを行き来して、自らのアイデンティティが揺らぐなかで宇宙を含む「空間」をテーマに制作した。「人間は完全に地球から自由にならねばならない」(巖谷睦月『ルーチョ・フォンターナ:1946年から1958年までを中心に』p.119)という言葉を残し、ヌーヴォー・レアリスムやアルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)など、非伝統的な材料や技法による作品制作にヒントを与え、前衛芸術運動に多大な影響を与えた。
【空間概念 期待の見方】
(1)タイトル
空間概念 期待(くうかんがいねん きたい)。英題:Spatial Concept, Expectations
(2)モチーフ
空間。
(3)制作年
1961年。フォンターナ62歳。
(4)画材
キャンバス・水性絵具。額縁は美術館所有時からのもので取り付けた人は不明。
(5)サイズ
115.7×89.0㎝。
(6)構図
正面。
(7)色彩
赤、黒。
(8)技法
キャンバスに下地を塗った後、赤色を筆跡を残さず画面一面均一に塗る。そこに線状の少しカーブした切り裂きを3本入れ、再び着色したと思われる。キャンバスの裏側には、切り口に沿ってゆるく黒い紗があてがわれ、このため切り口が軽く内側にめくれ、黒い空間が見える。
(9)サイン
裏面に「l(エル).Fontana, concetto spaziale, 1+1‐00TA3, MT364」の署名がある。
(10)鑑賞のポイント
3,000点ほどある《空間概念》シリーズのなかでも、切り口のある作品はもっとも多く、1958年から最晩年の1968年の間に1,508点が制作された。作品タイトルにある「期待」のイタリア語は、カットが一条の場合は「期待」を意味する「attesa(アッテーザ)」、複数の場合は同じく「期待」を意味する「attese(アッテーゼ)」と原題ではなっている。この裂け目の一つひとつが、新たな次元への希望の表われであろう。フォンターナは伝統的な絵画やモダニズム美学を覆す試みを行なった。そして平面のキャンバスをカットし、三次元へと突き破ることで、絵画でも彫刻でもない空間を認識する新たな装置を生み出した。この装置によって、新たな視点がもたらされ、隠れていた真実に出会えるかもしれない。切り裂かれたものの不条理を訴え、赤い画面の鋭い切り口とその深淵に緊張感が高まる。鑑賞者はキャンバスの向こうの空間を意識し、その空間がこちらの空間ともつながっていることを感じ、空間や宇宙について思考するだろう。空間とは、そこに事物があり、人が存在することで初めて認識される準備が整うもので、フォンターナはその空間を人々に認識させ、また認識を期待し、鑑賞させるに至った。フォンターナの代表作であり、空間主義芸術の到達点のひとつである。
遠くまで行ける
《空間概念 期待》について巖谷氏は、「作品を見る者の視線は、切り口の開口部に吸い込まれるが、向こう側が見えず跳ね返されて見る人自身に戻ってくる。自分の立っている場所が、その作品の前にある現実の空間であることに気づき、その作品がはらんでいた空間と、自分の立っている空間がつながっていることにも気づかされてしまう。それは作品のある部屋の空間と、キャンバスの中の空間がつながる瞬間である。現実の空間は、例えば《空間概念 期待》が展示されている美術館が内包する空間。その箱のように四角く区切られた空間は、美術館の外部の空間ともつながっている。そこはどこであるにせよ地球上にあり、空を見上げるならば、その場所の空間は地球に存在しており、宇宙空間ともつながっている。人は普段、自分がある空間の中に存在していることを意識することはあまりない。しかし、《空間概念 期待》とは、それを認識させることを期待する作品である。この作品自体が含まれている巨大な空間そのものを見る者に認識させるための『装置』として働いている。フォンターナは、鑑賞者が自らの力で空間を捉えることを期待している。また、キャンバスの向こう側にある空間も意識させ、空間に多重の意味をもたらしている。スパツィアリスモ(空間主義)のスパツィオ(spazio)は、英語で言うとスペース(space)。スペースというのは空間、宇宙の両方を意味している。スパツィオと言う言葉は、空間でもあれば宇宙空間を含めた空間である」と語った。
また巖谷氏は、フォンターナの宇宙への視座について「第二次世界大戦後の1946年、アメリカ軍が打ち上げたドイツ製V2ロケットに搭載したカメラが、初めて地球の外から地球の姿を捉えた。その写真がアメリカの雑誌『LIFE』の表紙に載っている。この頃から一種の宇宙ブームが来た。おそらく当時アルゼンチンにいたフォンターナもスペイン語版の『LIFE』を見ていると思う。1947年から発表が続いた「空間主義」の宣言文には宇宙への言及が多い」と、重要な指摘をされている。
フォンターナは、アルゼンチンへの移民の子としてイタリアに移動したため、生まれながらのイタリア人ではなく、アルゼンチン人としてはスペイン語が自由に喋れなかった。「フォンターナは、自分のことをイタリア人とは言わないし、アルゼンチン人とも明言はしない。ただ故郷にはパンパ(大平原)があるという言い方をしたことはある。ひとつのところに自分の故郷がある人ではないから、「空間主義」の宣言文のなかでも地球全体が見える宇宙にフォーカスしているのだろう。その空間の概念は、広大で多義的で宇宙にもつながっている。フォンターナの空間とは、物体を介して見えてくる空間。現実空間や虚構空間、宇宙空間でもなく、何ものでもないが、そのすべてを含んだものである。その空間の中に自分が存在していると認識すると、人間の精神は遠くまで行けると知らせる作品だ」と巖谷氏は述べた。
巖谷睦月(いわや・むつき)
ルーチョ・フォンターナ(Lucio Fontana)
デジタル画像のメタデータ
【画像製作レポート】
参考文献
2023年4月