アート・アーカイブ探求
フランシスコ・デ・ゴヤ《1808年5月3日、マドリード》──不条理な人間「木下 亮」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年06月15日号
※《1808年5月3日、マドリード》の画像は2023年6月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
人間の矛盾
2023年5月19日から21日に行なわれた「G7広島サミット」に、ロシア軍侵攻により戦禍のただ中にいるウクライナのゼレンスキー大統領が急遽ゲスト参加し、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序を守り抜く決意が確認された。原則を覆す事態が起きている状況下にあって、国連憲章に沿った原則を確認し続けることは重要であった。日本の岸田総理を議長に、イタリアのメローニ首相、カナダのトルドー首相、フランスのマクロン大統領、アメリカのバイデン大統領、イギリスのスナク首相、ドイツのショルツ首相、EUのミシェル欧州理事会議長とフォン・デア・ライエン欧州委員会委員長が、平和記念都市である広島で一堂に会した意義は深い。
新型コロナの感染法上の位置付けが2類から5類に変更されたなかで、世界平和を加速させていくために、また知らず知らず暴力行為に加担しないためにも自分自身の内なる混乱を整理しておきたい。力強い反戦のメッセージを発するフランシスコ・デ・ゴヤの《1808年5月3日、マドリード》(スペイン、プラド美術館蔵)を見てみたいと思う。
《1808年5月3日、マドリード》は、縦268×横347センチメートルの巨大画面で、暗闇に光る白いシャツの男性が目を引く。ひとり両手を挙げて降参するも、4人以上の兵隊から銃口を向けられて絶体絶命、地面には血に染まった死体が倒れている。緊迫感が高まるなか、次の一瞬、静寂が破られるのだろう。人間同士が向かい合い、強制的に敵と味方の集団に分けられ、生きたくても殺され、殺したくなくても殺す。お互いが傷つきながら、正義を主張しなければならない人間の矛盾がまざまざと描かれている。《1808年5月3日、マドリード》とはどのような絵画なのだろう。絵の見方を昭和女子大学特任教授の木下亮氏(以下、木下氏)に伺いたいと思った。
木下氏は、アルフォンソ・ペレス・サンチェス著『ゴヤ』(中央公論社、1994)の翻訳や、国立西洋美術館で開催された展覧会『プラド美術館展:スペイン王室コレクションの美と栄光』(2002)に関わるなど、長年ゴヤの研究に取り組んでいる。東京・三軒茶屋にある昭和女子大学へ向かった。
初めての国スペイン
その日は好天に恵まれ、三軒茶屋のキャンパスは思っていた以上に広かった。展覧会「与謝野晶子の世界」を開催していたキャンパス内の光葉博物館前で待ち合わせ、そして2階の演習室で話を伺うことができた。
木下氏は、1955年長崎県の大村市に生まれた。父の仕事の関係で幼いとき関西へ引っ越し、小学校2年生のときに東京へ転校して来たそうだ。子供の頃は、若いときに小学校の美術の先生をしていた母親が展覧会に連れて行ってくれたという。美術を学ぶといろんなことがわかる気がして、高校生になると銀座の画廊を巡っていた。美術に勢いがあった時代で、人文科学や自然科学を問わず、どの分野の知識へも美術からアクセスできる感覚を抱いていたという。
美術史を目指したが、結局、東京外国語大学に入学することになった。そして、話者が世界でもっとも多く、多様な地域の人々とコミュニケーションできそうなスペイン語を選び、大学3年の夏休みにアルバイトで貯めた資金で、スペイン、ヨーロッパを各1カ月ずつ旅行した。フランスやイタリアに比べ田舎ではあるが、スペインが面白かったという。初めて訪れた外国に惚れてしまうという現象だったのかもしれない。
1978年大学を卒業後、早稲田大学大学院へ進み、文学研究科の芸術学美術史を専攻した。西洋版画史の授業を担当していたお茶の水女子大学の坂本満先生が版画の魅力を教えてくれて、版画にも長じていたゴヤの銅版画集『ロス・カプリーチョス(気まぐれ)』を修論とした。ゴヤに特徴的なビジュアルの風刺と、キャプションにある言葉の風刺の関係に惹かれていた。1981年に大学院前期課程を修了、その年からスペイン政府給費留学生として1984年まで、マドリード・コンプルテンセ大学地理・歴史学部美術史学科博士課程へ留学した。帰国後、非常勤講師としていくつかの大学でスペイン語を教え、1987年には昭和女子大学でスペイン語と西洋美術史を担当する専任講師となった。助教授を経て2002年に教授となり、2022年に定年退職するまで人間文化学部歴史文化学科教授を務め、現在は特任教授として教鞭を執っている。
最初にスペインへ行ったことが、スペイン美術を研究するベースになったという木下氏は、「1970年代半ば頃、小説家の堀田善衛(1918-98)が雑誌『朝日ジャーナル』にゴヤの連載を書いており、スペインものといえば、堀田善衛という時代だった。初めてスペインへ旅した大学生の頃に読んでいて、プラド美術館でゴヤの作品は丁寧に見た。しかし《1808年5月3日、マドリード》の当時の印象はいま思い出せない。誰が見ても美しく、天才という一方向の価値観ではなく、またヨーロッパの美術の本流からも離れているが、ゴヤの総体を見ると、彼の生きた時代や表現者として、徹底的に仕事をするタイプという感じが伝わってきて興味が尽きない」と述べた。
独創性が真髄
スペインが生んだ画家フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスの生涯は、一大改革期と奇しくも一致する。ヨーロッパで築かれてきた専制的な絶対王制が崩壊し始め、封建制から資本主義的新体制の近代国家が生まれ出ようとする大変革期だった。
1746年ゴヤはスペイン北東部の荒野が広がるアラゴン地方の寒村フエンデトードスに生まれた。そこから北へ約45キロのサラゴサに父ジョセフ・ゴヤは鍍金(ときん)師として工房を構えており、母グラシア・ルシエンテスはフエンデトードスで農業を営む裕福な家の出身でゴヤは4男2女の次男だった。
ゴヤが7歳の頃、一家はフエンデトードスからサラゴサへ居を移す。ゴヤが13歳になると、イタリア帰りでバロックベラスケス(1599-1660)とレンブラント(1606-69)と自然を師と称したと後に伝えられるが、真実を求める写実的傾向を徐々に強めていった。
とロココ 様式を折衷した画風の画家ジョセフ・ルサーン(1710-85)のもとで絵の修行を始める。17歳と20歳のときに二度マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーの奨学生試験に失敗し、自費で1年ほどイタリアへ遊学。サラゴサに戻り聖堂のフレスコ画など宗教画を制作する。1773年27歳、画家一族で宮廷画家フランシスコ・バイェウ(1734-95)を兄に持つホセファと結婚。5男2女をもうけるも、末っ子フランシスコ・ハビエールひとりを残し、子供たちは亡くなってしまう。義理の兄を頼って1775年マドリードに移住し、王立タピスリー(綴れ織り)工場のためにタピスリーの原寸大下絵(カルトン)を制作する。1780年王立美術アカデミーに《十字架上のキリスト》を提出して正会員と認められ、サラゴサのエル・ピラール聖堂の天井画《殉教者の女王》に着手する。しかし、大胆な筆致は評価を得られなかった。作品の独創性を重要視していたゴヤは、仕事を放棄してマドリードに戻る。この頃から貴族の肖像画を手掛け、1785年に王立美術アカデミーの絵画助教授に任命される。翌年カルロス3世の王付き画家になり、1789年43歳で美術の擁護者でもあった新国王カルロス4世の宮廷画家に昇進した。1792年秋にアンダルシアを旅行中病に倒れ、翌年には聴力を完全に失ってしまったが、ゴヤは人間の内面への洞察を深めていく。
最初の近代画家
1795年王立美術アカデミーの絵画教授になるが、わずか2年で辞する。1798年王室のためにサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂のフレスコ画を驚異的な速さで完成させる。この頃、宰相ゴドイの注文により《裸のマハ》を制作したと考えられる。18世紀も終わる1799年にゴヤは、当時のスペインの問題を白昼にさらす80点の銅版画集『ロス・カプリーチョス』を発売。しかし、異端審問所の告発を恐れて自ら販売を2日で中止する。同年、画家の頂点である首席宮廷画家に、年長の画家マリアノ・サルバドール・マエーリャ(1739-1819)と共に任命される。1801年には集団肖像画の大作《カルロス4世の家族》を完成させた。
ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ポルトガルを征服するためにイベリア半島に侵入し、1808年スペインの要地も占領して戦争が始まった。1808年5月2日から3日の深夜にかけてマドリードの民衆が祖国と自由のために蜂起。蜂起に対する見せしめとして数百人ものスペイン人が銃殺された。ゴヤは、スペイン独立戦争(1808-14)をテーマに、このフランス兵の蛮行シーンを《1808年5月2日、マドリード》と《1808年5月3日、マドリード》として描いた。実際にゴヤが戦場に立ち会ったかは不明だが、《1808年5月2日、マドリード》は蜂起の動的な場面を、《1808年5月3日、マドリード》では銃殺の静的な場面が記録されている。
戦時中ナポレオンの兄ホセ1世(ジョゼフ・ボナパルト)への忠誠を宣誓し、王室勲章を受けたことがあるゴヤにとって、戦後の親仏派に対する粛清を見越し、予防線を張るという作品でもあった。スペイン美術史家の神吉敬三(1932-96)は「秒刻み分刻みで不可避な自分の死を、しかも病気でもなく法的な犯罪を犯したわけでもなく、ただ力に優る敵から与えられるという不条理な死を待つしかない人間の反応をこれほど生々しく描き出した例はないだろう」(『世界美術大全集 第19巻』p.396)と記している。
独立戦争中にプロパガンダ的な目的で版画が流通するなかで、ゴヤは版画のための素描を始め、銅版画集『戦争の惨禍』(1810-15頃制作)に着手していた。1812年に妻ホセファ・バイェウが亡くなり、翌年40歳以上年下のレオカディア・ウェイスと同棲し、娘ロサーリオが生まれた。1819年マドリード郊外の別荘「聾者の家」で隠遁生活を送り、食堂と居間に厭世的な壁画連作《黒い絵》を描く。自由派への弾圧を恐れ、1824年大赦令を機にレオカディアとロサーリオを伴い、78歳でフランス南西部のボルドーに亡命。ミニアチュールやリトグラフなど新たな技法や画風に挑みつつ、1828年4月16日ボルドーで82年間の波乱の生涯を閉じた。マドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に眠る。想像力と芸術家の意志を表現した「最初の近代画家」と呼ばれている。
【1808年5月3日、マドリードの見方】
(1)タイトル
1808年5月3日、マドリード(せんはっぴゃくはちねんごがつみっか、まどりーど)。英題:The 3rd of May 1808 in Madrid, or “The Executions”
(2)モチーフ
スペインの民衆、フランス兵、銃、死体、ランプ、丘、松明を持つ群衆、建物。
(3)制作年
1814年。ゴヤ68歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
268×347cm。
(6)構図
近景には左右に分かれ対峙する等身大の人物像を配して緊迫感を高め、遠景には大きな建物を闇の中に浮かび上がらせ、遠近感を出している。大きな丸い岩を背景に、両手を挙げた無抵抗な男にランプを照らし、影に立つ兵士たちは構えた銃身を水平に鋭く伸ばして整然と重なり、威圧的な立体感を形づくった。
(7)色彩
白、黒、黄、赤、茶、グレーなど多色。
(8)技法
油彩画。薄塗りで粗々しいタッチのマットな色面と、両手を挙げた男はひざまずき、立ち上がると大男となり、デフォルメの効果が見られる。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
画面右側にはフランス軍が背を向けて整然と立ち並び、ライフルを水平に構えて、ランプの光に照らし出されるスペイン人に、いままさに発砲するかのようだ。注目すべきは処刑される人物だ。普段着の白いシャツを着た男は、兵士をまっすぐに見つめ砂地にひざまずき、両腕を大きく広げて完全に降伏している。腕のV字型は地面に倒れる死者にも見られ、十字架上のキリストと同様の姿であり、白いシャツの男の右手には磔刑を象徴する聖痕が描かれ、理不尽な死の悲劇性を強く印象付ける。ゴヤは名もない市民が殉教者となり、救世主となるための記念碑性を与えた。画面左端の影の中には、幼い子供を抱いた悲しみに打ちひしがれる母親の姿がある。幼子イエスを案ずる聖母の姿に重なり、犠牲者たちの哀しみを一層際立たせている。地面に置かれたランプの光と影が、民衆と兵士の間に境界線をつくり出し、兵士たちは影の中で顔が見えず没個性的、処刑されて倒れた男は光に照らされて顔が血だらけである。遠く塔のある大きな建物の前には松明を持つ群衆が見える。処刑地は、プリンシペ・ピオの丘やプエルタ・デ・ラ・ベガ付近などの説があるが不明。歴史画が全盛だった当時は逸脱した表現に見えたが、現代ではプレ・ロマン主義のなかに位置づけられ、近代絵画の始まりとして評価されている。逃れ難い人間の運命を見つめ、普遍的な次元で宗教的な意味を帯びて訴えてくる。人間の非人間性を痛切に描写したゴヤの代表作である。
生々しい戦争画
木下氏は《1808年5月3日、マドリード》について、「スペイン独立戦争開始から200年にあたる2008年にプラド美術館でゴヤ展が開催され、そのとき本作は修復されてすごくきれいになった。白いシャツの男は顔を見るとアフリカ系とも考えられ、ほかの人間と比べると巨大に描かれている。そして、死を待つ恐怖、死の瞬間の絶望、物体と化した死体という未来・現在・過去を表わす三つの時間の層があり、ダイナミズムと決定的な瞬間が共存している。光源を足元に置き、色彩感覚を活かしてドラマチックに画面をつくろうとする力業や、人間が折り重なるような表現はゴヤ独特のものであり、死体や血の描き方はそれまでの神話画や歴史画にはない戦争画としての生々しさがある」と述べた。
また、この絵の構図に酷似した版画を研究者が見つけている。ミゲル・ガンボリーノ(1760-1828)の版画《ムルビエードロにおける聖職者の銃殺》(1813、アントニオ・コレア コレクション、マドリード、国立銅版画院蔵)である。修道士5人がフランス軍兵士に銃殺された事件に取材しており、画面左に銃殺を受けるスペイン人、右側に銃殺を執行するフランス軍が配置され、構図が共通する。「ゴヤがこの作品を見ていた可能性はあったかもしれず、ゴヤはほかの版画を見ながら本作の構図を検討していたのではないか。耳が聞こえないゴヤが60歳を過ぎて戦場へ行ったとは思えず、ゴヤはあたかも戦場を見たかのように描こうとした」と木下氏は推測している。
英雄不在の国王のための絵
ゴヤと同時代のジャック=ルイ・ダヴィッド(1748-1825)はナポレオンを英雄視してナポレオンを多数描いているが、同じ時期にゴヤは侵略を受けた側として英雄不在の本作を描いた。フランスのルーヴル美術館には皇帝ナポレオンの雄姿が残り、プラド美術館には絶望する民衆の姿が古びずに残った。戦争画は誰かを褒めるために描かれるが、本作ではヒーローが特定できないと木下氏。
「ナポレオンというヨーロッパの暴君に対する輝かしき反乱におけるスペイン人の英雄的な偉業を、絵筆をもって永遠化したい」と、ゴヤが自らスペイン政府にアイデアを提示して本作が実現したと伝わるが、プラド美術館の見解は、一介の絵描きが上に向かって描かせてくれというのは当時としてはありえないという。さらに、プラド美術館では当時の王宮の請求書やアーカイブズを確認したところ、この絵のための額縁を王宮が2点要求している資料が見つかり、そこに「国王のための絵」という記載があった。つまり帰国する国王のために、そして王宮に飾る前提で王宮側がゴヤに依頼したのではないかと変わってきたという。木下氏はここが近年明らかになったひとつのポイントだと強調する。
「本作は実際2枚ではなく4枚あったという研究者もいたが、もともと2枚だったことがわかり、屋外に飾る作品でないことも示された。ゴヤは国王のために国王を描かず、血まみれになった市民を描写した。そして2枚1組の作品というのが新鮮だ。スペイン人にとっては一日の昼と夜の出来事であり、スペインの歴史では5月2日がマドリード自治州の祝日記念日になっている。絵画では5月2日が戦闘の場面で、5月3日が処刑の場面。2日は画面が膨らんでおり、3日は凹んで見える。また2日は左から右へ動きがあり、3日は右から左への動きがある。プラド美術館では並べて展示されており、1組の絵画作品として鑑賞することをお薦めする」と木下氏は語った。
《1808年5月3日、マドリード》は、エドゥアール・マネ(1832-83)の《マクシミリアン皇帝の処刑》(1868-69)や、パブロ・ピカソ(1881-1973)の《ゲルニカ》(1937)など、戦争の悲劇を表わす絵画にインスピレーションを与えてきた。しかし、いまだ世界は争いが絶えず、人間の不条理が続いている。人の心に平和が定着するのはいつの日になるのだろうか。
木下 亮(きのした・あきら)
フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya)
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参考文献
2023年6月