アート・アーカイブ探求
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《氷海》──精神と自然「仲間裕子」
影山幸一(ア-トプランナー、デジタルアーカイブ研究)
2023年11月15日号
※《氷海》の画像は2023年11月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
疑問をつくるための作品
近年の気候変動は多くの人が実感しているだろう。東京都心の夏日(25℃を超えた日)は11月7日で今月3日目になり、1875(明治8)年の気象統計以来、11月の最多記録を更新、これで今年は143日目、1年の3分の1以上が夏日となり、春と秋が短くなってきている。日本人の感性を育んできた四季折々の風景をどれほど残せるだろうか。陰暦11月の霜月という異称が懐かしい。そんな折、凍てつく海に盛り上がった氷塊の絵が目に留まった。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの代表作のひとつ《氷海》(ハンブルク美術館蔵)である。
静寂で幻想的な風景だが、よく見ると船が沈んでいる。生存者は見えない。自然に負けた人間が表わされているのだろうか。船のマストも、中央の大きな氷塊も、左後方の氷山も相似形になって左上の空を指している。近景の破壊された氷は茶や黄色などの色彩でリアルに描かれ、遠景の海と空は青色のトーンで霞み、全体的に立体感がある。
フリードリヒ生誕250年を来年(2024)に控え、ドイツのハンブルク美術館では「カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ:新しい時代の芸術」展(2023.12.15~2024.4.1)が開催される。フリードリヒの作品は答えを与えるものではなく、疑問をつくるための作品といわれ、多くの美術家がインスピレーションを得ている。日本では日本画家の東山魁夷(1908-99)が影響を受けている。葛飾北斎(1760-1849)や歌川国政(1773-1810)など、浮世絵師が活躍した江戸時代の人、フリードリヒとはどんな画家なのか。《氷海》とはどのような絵画なのか。ドイツ美術史が専門の立命館大学名誉教授の仲間裕子氏(以下、仲間氏)に話を伺いたいと思った。
仲間氏は長年フリードリヒを研究され、論文「カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ──調和と乖離の自然観」(『シェリング年報』第21巻、2013)や「C.D.フリードリヒのロマン主義的風景と文学」(『立命館言語文化研究』29[4]、2018)、著書『C.D.フリードリヒ 《画家のアトリエからの眺め》──視覚と思考の近代』(三元社、2007)など、フリードリヒに関する著書を多数執筆されている。京都の珈琲店で話を伺った。
現代美術とC.D.フリードリヒ
仲間氏は、子供時代を父親の仕事の関係でポップアート全盛の華やかな米国ニューヨークで過ごした。帰国後は、東京・小平市にある津田塾大学の学芸学部国際関係学科へ入学。第二次大戦中の抵抗運動に参加したフランスの哲学者サルトルとカミュを学び、1977年の卒業論文では不条理の哲学を追求し、『異邦人』を書いたフランスのノーベル賞作家カミュについて書いた。
大学を卒業後、東西ドイツがまだ統一されていなかったベルリンへ留学する。ベルリン自由大学美術史研究所へ入り、授業の美術館見学で訪れたベルリン新国立美術館で見たジャクソン・ポロック(1912-56)の作品に仲間氏は圧倒されたという。そして1982年に新表現主義の名声を高めたと言われる歴史に残る展覧会「ツァイトガイスト(時代精神)」展をベルリンで鑑賞した。展示されていた作品はヨーゼフ・ボイス(1921-86)、ゲルハルト・リヒター(1932-)、アンゼルム・キーファー(1945-)らの作品で、新しいドイツの風に触れた仲間氏は、現代美術に強く関心をもった。「ドイツの美術は、イデオロギーや思想を表わしていて、作品の社会的観点に興味を抱いた。ドイツの現代美術家たちは否定的であれ、肯定的であれ、フリードリヒのロマン主義に影響を受けていることがわかり、フリードリヒの研究を始めようと決心した」という。
1984年ドイツから帰国した仲間氏は、大阪大学の大学院文学研究科へ進学し、生命観を実感したジャクソン・ポロックの《ナンバー32, 1950》(ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館蔵)で修士論文を書いた。その後、大阪大学文学部の助手となり、翌年大谷女子短期大学の専任講師に着任、1994年立命館大学産業社会学部に就職した。2006年にはフリードリヒの博士論文を書き上げ、その成果は単著『C.D.フリードリヒ 《画家のアトリエからの眺め》』となり、これに新たな章を加筆したドイツ語版がフリードリヒの母国で出版されている。ドイツでの出版を機にフリードリヒ研究の拠点であるアルフレート・クルップ高等研究所(グライフスヴァルト)で講演を行なった。立命館大学の助教授、教授を務めて2019年に退職。その後3年間の特任教授を経て、2022年から客員研究員として米国ハーバード大学のライシャワー日本研究所に在籍、調査研究を終えて今年(2023)の5月末に帰国した。
仲間氏が《氷海》の実物を見たのは、ドイツへ留学していた1980年頃だったという。「美しい。身震いをするような冷たい、青いクリスタルのイメージです。フリードリヒ自身は美しい絵画よりも、精神に訴える絵画と述べていますが」と語った。
ラムドーア論争
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは、1774年ドイツの北方、当時はスウェーデン領だったバルト海沿岸の港町グライフスヴァルトに生まれた。石鹸とロウソクの製造業を営む父アドルフ・ゴットリープ・フリードリヒと、母ゾフィー・ドロテアの10人兄弟の6番目(四男)で厳格なプロテスタントとして育った。「フリードリヒの思想体験は、詩人で宗教学者であったコーゼガルテンによるものが大きい。汎神論者のコーゼガルテンは自然体験が神の礼拝であり、神的体験へ直接つながると説き、オシアン
やスコットランドの旅行記に刺激されて、リューゲン島に神秘的な風景を探し求めている。また根源的な美は芸術作品に体現され、芸術を享受する礼拝的態度は同時に宗教的高揚であるとみなし、神と人間の仲介者として芸術を位置づけた」(『ドイツ・ロマン派風景画論』p.183)と仲間氏は記す。1790年16歳のフリードリヒは、地元にあるグライフスヴァルト大学の素描教師クヴィシュトルプに師事し、線描の手ほどきを受ける。1794年から4年間、デンマークのコペンハーゲン芸術アカデミーで学び、1798年には生涯の居住地となった美しい芸術の都ドレスデンに赴いた。1799年に初めてドレスデン芸術アカデミーへ風景素描を、1803年にはセピア画
を出品した。1805年31歳のとき、小説『若きウェルテルの悩み』(1774)により、18世紀後半にドイツで起こった革命的文学運動「疾風怒涛(Sturm und Drang)」の時代を先導してきた文豪ゲーテ(1749-1832)が主催したヴァイマール芸術コンクールに出品し、初受賞する。この頃、フリードリヒは北ボヘミア、ノイブランデンブルク、バルト海に浮かぶリューゲン島などたびたび旅行をしている。1806年ナポレオンが、プロイセン軍とロシア軍を破り、ドレスデンは間もなくフランス軍に占領されてしまう。フリードリヒ周辺では独裁色を強めたナポレオンに批判的な空気が広まり、フリードリヒは油彩画を開始し、1808年新しい祈りのイメージともいえる油彩画《テッチェンの祭壇画(山上の十字架)》をアトリエに展示した。この宗教画としての風景画は、観衆から評価されたが、美術批評家のラムドーアは「風景画を教会の中に忍び込ませ、祭壇に這い上がってよいものか」と論争を引き起こした。
プロイセン王室の買い上げ
36歳になったフリードリヒは、1810年ゲーテの訪問を受ける。ベルリンの展覧会に《海辺の修道士》と対をなす《オークの森の修道院》を出品する。精神的、宗教的意味を含むこの作品をプロイセン王室が買い上げ、フリードリヒはプロシア芸術アカデミーの会員に選出された。1814年フランス軍からのドレスデン解放を祝う愛国美術展に参加。1816年にはドレスデン芸術アカデミーの会員に任命され、150ターレルの年俸を受け家庭を築くことを考える。
1818年19歳年下のカロリーネ・ボーマと結婚し、翌年長女エマが誕生した。1823年には次女アグネス・アーデルハイト、1824年にはのちに動物画家として名声を得る長男グスタフ・アドルフが生まれた。1819年デンマークの皇太子クリスチャン・フリードリヒがアトリエを訪れたのに続き、1820年にもロシアのニコライ大公(後のロシア皇帝ニコライ1世)がアトリエを訪れた。その年親友だった画家のゲルハルト・フォン・キューゲルゲンが殺害され、フリードリヒはショックを受ける。
1823年ノルウェーの画家で、仲の良かった友人のクリスチャン・ダールが自宅の1階上に入居し、フリードリヒはこの頃《氷海》を制作している。1824年ドレスデン芸術アカデミー員外教授に任命されたが、風景画の教授の地位は与えられなかった。1826年に重い病を患い、湯治のためリューゲン島に滞在する。経済的に苦しい状況になり、フリードリヒは次第に世間から隔絶して、自我のなかに引きこもっていった。しかし、1830年プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルムの訪問を受ける。1835年脳卒中の発作が起きて手足が麻痺、チェコの温泉地テプリツェに6週間の療養滞在をする。1840年5月7日ドレスデンにて死去。享年65歳。ドレスデンのトリニタティス墓地に埋葬されている。
自然と人間との交信
フリードリヒの有名な言葉に「二つの眼」がある、と仲間氏は言う。「ひとつは対象を観察する『肉体の眼』。もうひとつは心で捉える『精神の眼』。二つの眼で絵を描く。だからフリードリヒの絵は現実の写生のようでそうではない。また、面白いことにフリードリヒの作品傾向を見ていくと、二つの系統がある。『人間が畏怖するもの』と『人間が平和なもの』。つまり『自然の驚異』と『自然と一体』の二つの系統がある。《氷海》は人間を寄せ付けない『自然の驚異』の系統に入る」。
当時のアカデミーを支配していた絵画ジャンルの価値序列からすれば、もっとも高いところに位置づけられていたのは、神話や聖なる物語を題材にした歴史画であり、風景画と静物画は最下位であった。ドイツのロマン派の画家たちは、この状況を変えるために近代性を取り入れていった。合理主義と知性の啓蒙思想を拒否し、宗教、感情、文化を支持し、主要なテーマを自然に当てた。「フリードリヒのロマン主義は、批判精神が強く、しかも内面性や精神的なものに重きを置いている。そして現実を見て、内面から込み上げてくるものを、現実と精神的なもので構成していく。強調したいのは、フリードリヒの表現は決してセンチメンタルでもメランコリー的な現実逃避でもないということ。一般的にロマン主義は夢や空想の世界に憧れ、甘い情緒や感傷を好む傾向にあるが、フリードリヒには独自のロマン主義というのがあって、現実逃避ではなく、むしろ現実と向かい合うような特性がある」と仲間氏。
「いまの時代は人新世
の時代、だからこそドイツ・ロマン主義が行なってきたように、立ち止まって自然としっかり向き合うことが大事。自然を見る。自然の風景を見る。そして自然と一体というだけでなく、自然とは何なんだろうと考える。そういう意味でもフリードリヒの絵画は重要だと思う。フリードリヒは、視覚と構成に基づく『美』と、批判性を伴う『知』を共に重視し、つねに死について考えていた。フリードリヒの絵画は、自然と人間との宗教的な交信であったかもしれない」と仲間氏は述べた。【氷海の見方】
(1)タイトル
氷海(ひょうかい)。英題:The Sea of Ice
(2)モチーフ
氷塊、海、難破船、雲、空。
(3)制作年
1823/1824年。フリードリヒ49/50歳。
(4)画材
キャンバス・油彩。
(5)サイズ
96.7×126.9cm。フリードリヒ作品のなかでは大きい方である。
(6)構図
中心に氷山を据えた正面性の強い構図。画面に水平と垂直の十字線を引くと、水平線の静と鋭角的な氷塊の動が際立ち、対角線を引くと、明暗や遠近の対比など二項対立の手法が浮かび上がる。フリードリヒは抽象的な構成というのを重視しており、モンタージュのようにモチーフの組み合わせを工夫し、複雑な視線を誘い臨場感のある空間を創作している。前景には階段状の厚い氷板、中景には氷に挟まれた難破船と砕けた氷が重なった三角形の山、そして霞む後景にも白い三角形の氷山を配置し、天空を指す。全体として絵の中心を軸に左回りの回転運動が生じている。
(7)色彩
白、黒、黄、青、緑、茶、グレーなど多色。澄んだ空の青さ、前景の氷塊の黄色と茶色が補色的調和を生み、氷の上に積もった雪はふくよかな白色。
(8)技法
油彩画。北極探検を想像しながらモチーフを構成した。冬のエルベ川に漂着した実物の流氷をスケッチして写実的に表現した。絵具は薄く重ねられ、表面はさらっと平面的で透明感がある。
(9)サイン
なし。
(10)鑑賞のポイント
北極での難破船をイメージして描いている。当初、「北極海の理想的な光景、高く積み上げられた氷塊の下の難破した船」という長い題名だった。フリードリヒは北極を訪れたことはなかったが、北極探検は当時のヨーロッパで話題となり、それまで人間を拒絶していた極地に人が進出したことで芸術家たちを刺激した。ドイツ東部から北海へ注ぐエルベ川のほとりにアトリエのあったフリードリヒは、1821年の冬エルベ川に流氷を見つけて油彩でスケッチをし、1822年にはドレスデンで北極の全景を立体的に見せるパノラマ「北極探検の越冬」が上演されていた。凍てつく寒さのなか、自然に挑んだ船が無残にも難破し、果てしない氷原に氷塊が積み重なり山をなした。視線はまず手前左下の分厚い氷から右側へ、黄色の氷片で方向を転じて左上へと向かう。氷塊の尖った頂が示す先に、自由を象徴する雲が開けて希望の光が見える。フランスのロマン主義の画家テオドール・ジェリコー(1791-1824)の自然と人間の群像画《メデューズ号の筏》(1818-19、ルーヴル美術館蔵)にインスピレーションを得たとする指摘がある。また、フリードリヒが13歳の頃、川でスケートをしていたとき、氷の割れ目に落ちてしまったフリードリヒを1歳年下の弟クリストファーが助けようとして逆に溺死してしまったというトラウマ的な経験があり、この絵に影響を与えたという研究者もいる。自然はつねに人間より偉大であり、悲劇は自然を支配しようとする人間の傲慢の結果である。人間は神に祈るように、自然と謙虚に向き合うことの大切さを示唆している。ドイツ・ロマン主義を代表するフリードリヒの名作である。
畏敬の念
仲間氏は、《氷海》の見方について「実物を見ないと迫力が伝わってこないと思う。鑑賞者の感覚が目覚めるよう、絵画体験ができるようにフリードリヒは《氷海》を描いている。『精神的な刺激を与え、観者の内面に思考、感情、そして感性を目覚めさせること』と、芸術行為の目的を言葉に残しており、そのため展示にも気を配っていた。《氷海》は単に風景を描いているわけではなく、当時の時代背景も反映している。フリードリヒが生きた時代は、思想的に開かれ、新しい世界観や多様な視覚体験が広がり、対ナポレオン解放戦争により愛国心が叫ばれた緊張した時代だった。ドイツのアイデンティティの表象を、畏怖を与える北方の風景に見出したフリードリヒは、母国が変転する氷河期にあることを《氷海》の冷たさに託した」と言う。
また、フリードリヒにとって難破船は、「1802年の《難破船のあるアルコナの眺望》に始まり、生涯にわたって追及したテーマであった。一般に美術史における難破船のモチーフは、嵐と関連づけられるが、フリードリヒは嵐を浄化の、難破船を魂と肉体の破壊のメタファーとして捉えていたと思われる。《氷海》においては、結晶を連想させる氷の特質である清澄さが加わり、破壊と浄化の対立が、この透明な世界で繰り広げられている。《氷海》は難破船の系譜の集大成といえる。さらにフリードリヒは、ペンダント(一対の作品)として描く場合が多い。対立する二元性の役割を担うだけでなく、相互の雰囲気の交わりを通して両作品の主題を強調する機能をもっている。《氷海》も実は対と考えられる作品がある。《ヴァッツマン山》(1824-25)というアルプス山脈の高山の絵で《氷海》の2年後に描かれた」と仲間氏。
そして、「《氷海》は無人の救いのない世界でも、神の救済があることを表わしている。フリードリヒが述べているように、宗教は唯一ではない。精神が重要で、精神を高めるためにどうするかをフリードリヒは考えていて、それは神でなくてもいい。崇高という言葉がよく使われるが、自然の驚異、それは神への驚異につながっており、そこには希望がある。《氷海》は、グローバルな地球環境の問題に直面している現在のわれわれに、自然と人間の相互関係を考える機会を与えている」と仲間氏は語った。
仲間裕子(なかま・ゆうこ)
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich)
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参考文献
2023年11月