もしもし、キュレーター?
第4回 どうせ学ぶのであれば、誰かと一緒に学びたい──赤井あずみ(鳥取県立博物館/HOSPITALE)×尺戸智佳子(黒部市美術館)[前編]
赤井あずみ(鳥取県立博物館/HOSPITALE)/尺戸智佳子(黒部市美術館)/杉原環樹(ライター)
2022年10月15日号
学校と連携して教育普及事業を展開したり、地域と美術館をつないだり──従来の「学芸員」の枠組みにとらわれずユニークな活動を展開する全国各地のキュレーターにスポットをあて、リレー形式で話を聴きつないでいく対談連載「もしもし、キュレーター?」。久々の更新となる今回は、黒部市美術館の尺戸智佳子さんが以前からその活動の幅広さに注目していたという、鳥取県立博物館の赤井あずみさんを訪ねます。
ご自身の出身地である鳥取を拠点に、「HOSPITALE PROJECT」や「ことめや」といった試みの場をいくつも立ち上げ、人を呼び込み、次の出来事につなげていく。人と場を起点とした多様なかたちのプロジェクトを通して、地域とアートの接点を増やしていくその様子は、つい仲間に加わりたくなる不思議な魅力を纏っていました。そんな鳥取のキーパーソン・赤井さんの秘密に迫る対談を、前後編でお届けします。前編は赤井さんが複数の拠点を持つことになったきっかけについて。(artscape編集部)
[取材・構成:杉原環樹/イラスト:三好愛]
※対談の後編「その町で一人ひとりが能動的になること、活性化すること」はこちら。
※「もしもし、キュレーター?」のバックナンバーはこちら。
博物館から街なかへ
──学芸員が、いま話を聞きたい他館の学芸員に会いに行く本連載。前回お話を聞いた黒部市美術館の尺戸智佳子さんが今回ゲストに指名したのが、鳥取県立博物館の赤井あずみさんです。
赤井さんは博物館に学芸員として勤めながら、プライベートでは鳥取市内複数カ所の物件を借りて、アートプロジェクトの拠点や宿泊施設などを運営するユニークな活動を行なっています。インタビュー前に各施設を拝見しましたが、どこも印象的なスペースでしたね。
尺戸智佳子(以下、尺戸)──本当にすごかったです。
私たちは昨日鳥取に入りましたが、ちょうど昨晩、赤井さんが旧医院の建物を使って運営されているスペース「HOSPITALE PROJECT」(以下、HOSPITALE)でアーティストの白川昌生さんのトークがあり、拝聴しました。
その打ち上げでは、ビルの一室にある通称「あかいバー」で楽しい時間を過ごし、旧旅館を使ったプロジェクトスペース「ことめや」に宿泊しました。市内にこれだけの施設を個人で運営されているというのは、シンプルに驚きです。
赤井さんの地域における活動は以前に知る機会があり、関心がありました。私自身が黒部市美術館という、人口の少ない街の、小さな美術館に勤めているので、「なんでそんなことが可能なんだろう?」という点にも興味を惹かれたんです。
街なかにいろんな物件を借りてスペースを運営する現在のスタイルは、どのように始まったんですか?
赤井あずみ(以下、赤井)──正直に言ってしまうと、結果的にたまたまこの状態になっちゃった、というのが実際のところなんです(笑)。
私は2002年、鳥取県立博物館に1回目の就職をして、学芸員として6年間勤めました。そのあと博物館を辞め、トーキョーワンダーサイト、あいちトリエンナーレ2010に勤務、その後東京に戻ろうと就職活動をしていたとき、東日本大震災が起こりました。
当時の私はアーティストのお手伝いをしたりするフリーランスとして活動しながらも、ほとんど失業保険で生活しているような状態だったのですが、そんなある日、鳥取大学で文化政策を研究されている野田邦弘先生から「鳥取市内の旧横田医院の建物を使って何かやりたい」と連絡をいただいたんです。
とりあえず見に行ってみると、その建物がすごく面白い場所で。何かやりたいと思い、多分野田さんはそこまで期待していなかったと思いますが、自分にできることといえばやはり展覧会かなと思いました。そこで大学の予算がわずかだったので、補助金や寄付などお金をかき集めて、2012年の3月に2週間だけのグループショーを開きました。これがいろんなことのきっかけになっています。
その展示の際は名古屋と鳥取を行き来しながら準備をしていて、本当に会期のみ関わるつもりだったのですが、終了後、どうやらその場所が来年も使えるらしいということがわかりました。また、ちょうど同じ頃、私の金欠状態を知った鳥取の友達が、「家の2階が空いているから住んでもいいよ」と言ってくれて、鳥取に引っ越すことにしたんです。
──そこで帰郷されたわけですね。こちらではまず何をしたんですか?
赤井──実はその友達の言う「家」が、実際は「倉庫」の2階で(笑)。でも、よく聞くと倉庫の1階も空いているというので、その場所を使ってまず古本屋を始めました。
尺戸──ええ~! 古本屋ですか。
赤井──そうそう。本はたくさんあったから、すぐできると思って。店名は、『日本書紀』に登場する天湯河板挙(あめのゆかわたな)という、朝廷に鳥を献上する「鳥取部(ととりべ/とりとりべ)」という部署の源流になった人物から取って「YUKAWATANA」としました。
お店のコンセプトは、「誰かの本棚を再現すること」。人の部屋に行くと、つい本棚を見てしまいますよね。その人なりの並べ方をする本棚は、誰もが日常的に一種のキュレーションを行なっている場所だと思います。作家から料理研究家までいろんな職業の人の本棚を1カ月ごとに再現して、本人のトークも行なったりするというコンセプトでした。
尺戸──そうした街での活動は、最初に博物館に勤めていた2000年代の間は考えていなかったんですか?
赤井──考えていなかったです。ただ、その後の活動につながる動きもありました。
ひとつ大きかったのは、2007年に、もともと博物館のプログラムとして行なう予定だった美術家のきむらとしろうじんじんさんによる「野点」というプロジェクトの予算がつかなかったことです。
これは街なかで、自作のお茶碗でお茶会をするという、いわばワークショップなのですが、財政課から「街での活動は博物館の仕事ではない」と言われてしまったのです。私はそれを諦めきれず、じゃあ自分たちでやろうと、協力者を15人くらい募ったんですね。
博物館の先輩から以前取材に来たことのあるNHKの記者まで、知り合いを総動員して、プログラムを行なう場所の下見から、警察や消防署への申請、チラシづくりと配布まで、その即席で集まったチームでやりました。
私はもともと市内に全然友達がいなかったのですが、このときチラシへの掲載を条件にお店に協賛金をお願いするなかで、徐々に街に友達と言える人たちができました。いま思えば、ここで生まれたつながりが、博物館の外で活動をすることの始まりでしたね。
必要が生み出した「場」
──鳥取に帰られたあと、博物館に戻ったのはいつ頃ですか?
赤井──2013年の秋です。それまでプラプラしていたんですが、お金がいよいよどうしようもなくなったタイミングで、たまたま博物館の学芸員に欠員が出たんです。
そこで、再び働くことになったのですが、実は鳥取県立博物館では美術部門はあっても、ずっと美術の展示が行なわれているわけではないんですね。
常設展はあるけど小さい部屋ですし、1年に3本の企画展をしたとしても合計で4カ月間ほど。私の故郷の米子市にある米子市美術館もほとんど貸館で、企画展はたまにしかない。つまり、つねに美術に触れられる場所が鳥取にはなかったんです。
博物館の外で一連の活動を始めた背景には、そうした場所が欲しかったということもあります。「HOSPITALE」が「プロジェクト」を名乗っているのは、いつかあの場所をつねにアートに触れられるアートセンターにしたいから。その目標のための拠点なんです。
尺戸──赤井さんの活動を見ていてすごいなと思うのは、人々のつながりの部分と、プロジェクトの継続性の部分です。
例えば後者に関しては、「始まりはたまたま」とおっしゃりながらどのプロジェクトも継続していますよね。どうして続けられるんですか?
赤井──継続性を目標にはせず、継ぎ足していく感覚でいるのがいいのかもしれません。
例えば、尺戸さんたちが泊まった「ことめや」ができたきっかけは、HOSPITALEで「悪魔のしるし」という演劇集団を呼んだことでした。
彼らは十数人の大所帯なので、例えば予算が80万円だとしたら、1人5000円のビジネスホテルになんて泊まっていたら、しばらく滞在するだけですぐなくなってしまう。そこでなんとか泊まる場所を見つけようと各方面に働きかけていたら、市がある物件を活用するために動いているという噂を聞いたんです。
さっそく市に問い合わせると、お金がなくて動きが止まっていることがわかりました。さらに市の方から「使いたい場合は大家さんに直接聞いて」と言われたので、「3週間だけ2万円で貸してください」とお願いして、了承してもらったところから始まったんです。
──「ことめや」はだいぶ広い建物でしたが、3週間で2万円ですか……。
赤井──はい(笑)。そんな感じで、あらゆることを必要に迫られてやり始め、場ができるとさらにできることややりたいことが広がっていく。
アーティスト・イン・レジデンスや庭づくりプロジェクトなど、さまざまなプログラムが増えていったのも、ここでしかできないものをしないと意味がないと思って、それを模索した結果です。
別に鳥取に東京や関西のようなアートシーンがあるわけではないし、ここで何かをしても作家のキャリアにはつながりづらい。だとしたら、作家には実験的なことをしてもらいたいし、失敗しても構わない。
なので、オファーした作家には、「いままでしてみたかったけど、したことのないことはないですか?」という聞き方をしています。「種を撒きませんか?」と。そして、その実験を支える環境としてレジデンスプログラムも必要だと思ったので、それも始めました。
──一個一個が数珠つなぎのようになっているんですね。
赤井──ほかにも「私ってアートプロジェクトについて知らないな」と思ったので、せっかくならほかの人も一緒に学ぶ場にしちゃえと、「はじめてのアート・プロジェクト」というトークシリーズをつくったり。
「HOSPITALE」では、博物館だとやりづらいパフォーマンスや音楽系のプログラムをやろうと思い、梅田哲也さんや野村誠さんをお呼びしました。
「HOSPITALE」の中にある「すみおれ図書室」も、展覧会に来た方が参考文献を見ながら「捨てられない本がたくさんある」と話していて、「この地域にはきっと捨てられない本がいっぱいある」と思ったことからつくったものです。本を集めて見せることで、「この地域の人たちはどんな本を読んできたか」という展示にもなると思ったんです。
尺戸──あの図書室は「地域の展示」でもあったんですね。
──「あかいバー」は赤井さんがプライベートで運営されているお酒も飲めるスペースですが、これはどのような必要性を感じて始めたのですか?
赤井──アーティストにはお酒を飲むのが好きな人も多いですよね。みなさん、旅先ということで街へ飲みに繰り出すわけですが、経済的に余裕がない作家もいるし、連日外で飲んでいたらお金がもったいないじゃないですか。もし自前のバーがあったら、その人たちも気軽に飲むことができるし、正直、私も自分の飲み代くらい稼げていいんじゃないかなと(笑)。
尺戸──あはは(笑)。
赤井──レジデンス・アーティストが昼間に出会った街の人を、「今日バーをやります」って呼べるじゃないですか。そうやってプライベートに普段とは違う場所で集まると、全然違う話ができるんですよね。
──気軽に作品やアーティストのトークに触れられるスペース、お金を気にせず滞在できる宿泊施設、みんなで集まれるバー……。赤井さんがつくった場所が街なかの徒歩圏内に点在していて、それを渡り歩く楽しみも生まれていますね。
赤井──自分でも「謎」なことをしている、と思います(笑)。でも、はじめから「まちづくりをしよう」とか「継続させよう」とか、思っていない。そのとき必要なもの、足りていないと感じたものをかたちにしていった結果なんです。
「どうせなら、一緒に学ぼう」
尺戸──いまのお話を聞いて、自分の学びのプロセスもすべてオープンにしていく姿勢がすごいなと思いました。
私だったら、何かわからないことがあったら、きっと裏でしっかり調べ物をして、その後に市民の人たちに開示するというプロセスしか思いつかないです。だけど赤井さんは、わからなければ誰かを呼んで、それをみんなに共有する。そのことで同時に、地域の人たちとのつながりもつくっています。
昨日の白川昌生さんのトークも、赤井さんしかスタッフがいないのに、何人もスタッフがいるような雰囲気を感じました。
赤井──鳥取で活動するなかで、自然といつも手伝ってくれるメンバーができましたね。
イベントの写真は、市内の田中良子さんというカメラマンがいつも撮ってくれています。県内でゲストハウスなどを運営している蛇谷りえさんには、先ほどの図書室や、家庭に眠る8ミリフィルムを収集する「8mmフィルム アーカイヴ・プロジェクト」など、「コミュニティ・プログラム」と呼んでいる活動を一任しています。
尺戸──そうした赤井さんの求心力というか、場をコーディネートする力がプロジェクトを支えていると感じます。「みんなで楽しもう」という空気が漂っている。
──赤井さんにとっては、「私が知りたいと思っていることは、自分以外の誰かも知りたいはずだ」ということですよね。どうせ学ぶのであれば、誰かと一緒に学びたいと。
赤井──それは大いにありますね。
──しかも面白いのは、何かのテーマについての学びの場をつくることで、地域に潜在するその分野に関心のある人が可視化されること。例えば「アートプロジェクト」を学ぶ機会をつくれば、そのお客さんとはイベント後も、そのテーマでつながれる可能性がある。
赤井──そうそう。イベント化することでその「層」の顔が見えるようになるんですよね。
尺戸──そうしたことを、赤井さんは作為ではなく、とても自然に展開されていますよね。多くの人がふとついて行きたくなる何かが、赤井さんにはある気がします。
赤井──そうだったらいいですが……。
おそらく私には、学芸員という意識より、つねに素人であるという気分の方が強くあるんです。
そもそもアート業界に対しては「よそもの意識」があって。美学美術史をしっかり学んだ人とは経歴も違うし、学芸員をずっとやるかもわからない。自分の興味次第で、アートとの付き合い方はどんどん変わっていきます。
尺戸──そうした姿勢や考え方が、人に親しみを感じさせるのかもしれないですよね。赤井さんはお客さんに「対峙」するのではなく、「横」に並んでいるのだなと感じます。
赤井──言い方を変えれば、アートは一様ではなくて、「いろいろある」んですよね。例えば、アートプロジェクトをやってみた結果、こんなネットワークや方法論、困りごとを抱えた人がいるんだとわかると、まったく違うアートの世界に出会う。こういうことを、多くの学芸員の方は知らない気がします。私もいまのような活動を始めるまでは、知りませんでした。
例えば、いまはなきアサヒ・アート・フェスティバル(AAF)に参加していたアートプロジェクトに従事する人たち同士のネットワークや、アーティスト・イン・レジデンスをやっている団体のネットワークは結構巨大な組織なのですが、そのなかにひとりとして「学芸員」はいないわけです。 コマーシャルギャラリーの世界も独自のネットワークがありますよね。それらとは、例えば出版・編集の業界と学芸員業界の間と同じくらい交わりがないのです。同じアートをやっているのにね。
強いて言えば、ハウスキュレーター/学芸員はどこまで行っても「モノ(作品)」を中心に活動していて、アートプロジェクトは「人」を中心に活動しているということなのではないか、と思います。後者は、つながらないと成立し得ないアートをやっているのかな、と。
学芸員はモノがあるから究極的にはつながらなくても自律しているけれど、街中にはそうしたモノはないので、前提としてつながりがあり、そこからアートの文脈を立ち上げていく。そこが美術館との大きな違いなのかなと思いました。
街にいる「アート屋」として
赤井──話は前後しますが、最初「HOSPITALE」を立ち上げたときは、自分で何かを企画してやること自体が6年ぶりでした。お金がないなか、空き物件を何とかするのは大変なので、自分の知り合いに頭を下げて、「こういうことがしたいので手伝って」とお願いして、さまざまなサポートを受けた結果実現することができました。そのときに初めて「コミュニティ」というものを肌で実感した気がします。
──尺戸さんも美術館の中だけではなく、地域のほかの施設や専門家などと協働しながらプログラムを企画していますよね(詳細は第3回を参照)。ミュージアムの枠組みを超えて活動しているという点では共通しますが、赤井さんの街への入り方をどう感じますか?
尺戸──赤井さんは私よりさらに深く街に入り込んでいて、そこに面白さと、私自身が同じことを行なうことの難しさを感じます。
美術館と地域の学校や博物館など、施設同士は目的さえあればつながることは難しいことではありません。だけど、地域の人を深く巻き込んで、みなさんで楽しんでやるというのは、赤井さんの人間力でしかないと思います(笑)。本当はテクニックを聞き出したいですけど、そういう話でもないような気がしてきました。
赤井──そんな大袈裟なことではないですよ(笑)。
そういえば、私が街で活動を始めるうえで、「あかいバー」のビルのオーナーで、家具職人の本間公さんの力は大きかったです。本間さんとは、あるワークショップの機会に、私が以前企画しつつも個人的な悔しさを感じていた女性4人のグループ展を、私が担当と知らずに「とても励まされた」と褒めていただいたことでお話しするようになりました。
その頃、本間さんは店舗の内装なども手掛け始めていて、あるきっかけで「graf」の服部滋樹さんや「ランドスケーププロダクツ」の中原慎一郎さんとも知り合ったので、その人たちを呼んでトークイベントをやりたいという話になりました。
この際、どうせならということで、それを「トットリノススメ」という1カ月間にわたるイベントにしたんです。
市内には本間さんが手がけたお店が多くあるので、その店の人たちに、「ビジネスや商売とは異なる視点で鳥取市内を見る」というテーマで参加を呼びかけました。これをきっかけに、お店のオーナーの方々と知り合いとなり、一気に人脈が広がりました。だから、本間さんの存在はすごく大きかった。
店のオーナーたちはそれぞれIターンやUターンをしてきた同世代で、それぞれがパン屋やパティシエ、美容師といった職能を生かして小規模な個人店を営んでいます。
県立博物館は「県民」というマスと対峙しているのですが、アートプロジェクトは個々の方々と対峙することで成立するものかな、という感覚です。
何が言いたいかというと、アートは街の中にいるたくさんの人たちの、たくさんの活動のひとつに過ぎないということです。アートプロジェクトの活動が特別である、ということではなくて、ほかのたくさんの活動と並列にあるということを、そのつながりのなかで感じたんですね。
──パン屋さんや電気屋さんと同じように、「アート屋の赤井さん」という感じですね。
赤井──そうなんです。私が街にできるのは、アートや文化の体験の提供。
もちろん、公共サービスの担い手としての「博物館の赤井」もしっかりやっているつもりですが(笑)、同時に街にいるときは「一市民の赤井」でもある。その感覚は大事にしています。
[後編「その町で一人ひとりが能動的になること、活性化すること」へ続く]
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