トークシリーズ:「Artwords」で読み解く現在形

[シリーズ6:“音”の現在形]聴くこと、見ること、知覚すること──音=楽=アートの現在形

畠中実/金子智太郎2013年12月15日号

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3. 隣接領域とのリンク

金子──音に関わる実践が隣接領域に与えた影響についてですが、どう話せばいいか迷っています。さきほど音というテーマが聴覚を超えて広がっていくという話をしました。また、コンピュータによる制作は音声、映像、装置などを同じように扱うことができるため、作家は多分野で活躍できる。とはいえ、当然さまざまな制限もあり、ギャラリーで音を出したり、ライブハウスで展示をしたりするときの困難などがまだあります。これらの問題はすべて、サウンド・アートと呼ばれるカテゴリーにとって本質的なものでしょう。そもそも、サウンド・アートはいまのところ領域をまたぐもの、領域をもたないものとして存在するため、隣接領域について話すことが難しいのかなと感じます。
 ただ、先日畠中さんからうかがったダムタイプの手法の話がとても興味深かったので、そこからお話いただけますか。

畠中──京都で池田亮司さんの《superposition》が上演されましたが、そのウェブサイトに関連インタビューが掲載されています。ダムタイプの舞台制作にも触れられていました。時間軸が細かく区切られていて、それぞれが何をやっているか、大きな譜面のような進行表のようなものによってタイムラインで把握することができるというものです。トリシャ・ブラウンの作品にはグレートフル・デッド★60の曲に合わせるとか、音楽にダンスを合わせるようなものがありましたが、ダムタイプの《OR》(1997)以降のつくり方は、もっとスコアによって厳密に構築していくような作り方ですよね。

金子──なるほど。「異なるメディアを「オーケストレーション」する作業」と呼ばれているものですね。「楽譜」がそのモデルになっている。こうした手法はコンピュータによって収斂された制作環境に対応していると感じます。

畠中──サウンド・アートもそうですが、音が即物的になっていくという側面があります。「サウンド・アート」展では、当時の音響派的な、より音の肌理にこだわっていく、そこに着目するというようなところがありました。その後は、また変わってきているような気がします。たとえば、《true/本当のこと》(2009)での白井剛さんとダムタイプの川口隆夫さんのパフォーマンスなどは、まさに体の筋肉の変化が生み出す筋電を利用して、身体の動作を電気信号に変換し、それを振動として再現する。そこには、身体の動きが振動として再現される、といった何かと何かが反応する関係性しかありません。そういった、きわめて即物的な音の扱い方が舞台作品などでも出てきたと思います。

金子──音の肌理を緻密に構成するのではなく、いわば生々しさをもった音や素材を使うわけですね。90年代に音響派と呼ばれた作品のなかにもそういうものがあったと思います。そうした素材を電気的に変換していく。音響テクノロジーの原理は音響と固体振動、電気信号の変換プロセスです。音に関して領域間のリンクを考えるなら、こういった個々の手法のレベルで見ていく必要がありそうですね。


金子智太郎氏

★60──Grateful Dead:1965年アメリカのカリフォルニア州サンフランシスコで結成されたロックバンド。60年代のサイケデリック、ヒッピームーヴメントの代表的なミュージシャン。

4. 研究とのリンク──サウンド考古学

金子──2000年代半ばごろから、同時代のサウンド・アートの動向とリンクするような英語圏の学術書が目につくようになってきました。例えば、クリストフ・コックスらが編集した『Audio Culture: Readings in Modern Music』(Continuum、2004)のようなリーダーとか。アンソロジーも数多く出版されます。比較的過去のものではリック・アルトマンが編集した『Sound Theory, Sound Practice』(Routledge、1992)、ダグラス・カーンらの『Wireless Imagination: Sound, Radio, and the Avant-Garde』(MIT Press、1994)、そして2003年から2004年に「聴覚文化」、「聴覚の歴史」などと題されたアンソロジーが次々と出版されました。これらに掲載されたそれぞれの論文は非常に個別的、具体的な事例を扱っているものがほとんどです。それらを音・聴覚の文化・歴史というごく一般的で柔軟な枠組の下にあつめることで、全体として事例どうしのこれまで見過ごされてきた関係が浮かび上がってきたという印象があります。歴史的に見れば現代音楽論や音楽社会学、サウンドスケープ★61論、メディア論、または感性の文化史と呼ばれる研究の延長ですが、これらが密接に結びつくことで活気づいていきました。
 しかも、こうしたアンソロジーは必ずと言っていいほど、同時代のアートに何節かを割いています。また、この時期に作家のブランドン・ラベル★62やアラン・リクト★63がそれぞれの視点からサウンド・アートの概説本を発表しました。このような実践と研究、批評の関係はとても興味深い展開です。

畠中──現在のサウンド・アートの状況から演繹的に過去の論を引き出すと、いろいろなものが先行研究と見なせますね。

金子──そうですね。「聴覚文化論」や「サウンド・スタディ」と呼ばれる研究では、やはり音響テクノロジーに関するものが多いです。19世紀に現在のメディアの原型が発明され、いかなる変化をたどってきたかを詳細に見ていく。そうした視点を作品に活かす作家がいます。過去を見つめる視点と現在に創作する視点が一致するような作家は研究とのリンクという点でも面白いです。歴史的な視点をもつことは、過去に権威付けを求めるのではなく、常識を問い直すような実践です。

畠中──メディア・アートでも考古学的な視点はよくあります。サウンドで言えば、まさにポール・デマリニスの制作姿勢などはそうです。映像や音響は、映像装置や楽器やレコードなどのメディアを介するものであり、メディア・アートは記録媒体を扱う芸術形式であるので、少なからずそういう考古学的な性格を持ったジャンルだと言えます。なにかしらの過去への言及がある。岩井俊雄さんの初期作品もそういうものでした。

金子──ディック・ライマーカス★64にも《Experiment with a Tobacco Pipe》(1998-1999)という、18世紀の科学実験を実演するパフォーマンスがあります。

畠中──音楽、音の原初的な要素に立ち返って、再考し、再利用する作品、たとえば、アルヴィン・ルシエの《Music On A Long Thin Wire》(1977)などもそうでしょうか。僕はあの作品は、ルシエの作品は少なからずそういう要素があるのですが、サウンド・アートの模範解答のような作品だと思っています。ラ・モンテ・ヤング的なミニマル・ミュージック★65への返答であるとも言えますし、幾重にも過去の参照項への道筋があっておもしろい。メディアへの自己言及がある。

金子──また、過去のサウンドスケープを題材にした作品も出てきます。たとえば、クリス・ワトソンの《In St. Cuthbert's Time》(Touch、2013)は、中世のサウンドスケープを再構成するというものでした。ある地域における音の記憶や、もっと日常生活に馴染んだ音の収集など、作品でありリサーチにもなっているものが出てきていますね。

畠中──一言でフィールドレコーディングと言っても色々ありますよね。

金子──イアン・ロウズ★66の《These Are Good Times》(Vitelli Records、2013)はロンドンのごく日常的な環境音を集めたレコードです。彼は大英博物館で録音資料を管理する仕事をしていて、現在の録音も歴史的な視点から収集しているようです。ピーター・キューサック★67もこうした作業を長年続けていますね。

畠中──サウンド・アートでもサイトスペシフィックなものがあって、サウンドスケープの考え方に近いものがありますね。たとえばクリスティーナ・クービッシュ★68の作品で、廃工場にあった鐘を再生させるものがありました。サウンドスケープはそういう、ある場所の記憶と強く結び付いた側面があります。今の音の状態を聴き、過去を遡って本来あるべき音環境を再構築していくという。

金子──レーモンド・マリー・シェーファー★69の思想は反動的だと指摘されてきました。現在は機械の騒音に満ちていて、過去には美しいサウンドスケープがあった。だからサウンドスケープ・デザインを通じて過去の美しさを取り戻そう。シェーファー自身の思想というよりも、通俗的なシェーファー理解かもしれませんが、そういった受け取られ方もしかねない思想です。

畠中──一種のエコロジーになってしまうと。

金子──そうですね。現存する伝統的な音の保存が強調されます。一方、サウンド・アートとして失われた音を復原したり、現在はさほど目を向けられない音を記録していく作業は、エコロジーの発想とは少し違った独特なアプローチです。

畠中──サウンドスケープは1980年代にある種の失敗があったと思っているのですが。『波の記譜法—環境音楽とはなにか』(時事通信社、1986)以降、「サウンドデザイン」ということが言われるようになりましたが、それが一般的な方法論になろうとしたときに、うまくいかなかった、というか勘違いがあったという印象があります。ただ環境に余計なものを足しているだけのような。

金子──パブリック・アートとしての環境音楽ですね。

畠中──芦川聡★70の言った「もしかしたら、その環境には、たった1音だけあればいいのかもしれない」と真っ向から対立するようなものが多かったような気がします。それこそ、三輪眞弘さんが駅における電車の発着音について言っていたこととも関わりますね。サウンドデザインがうまくいかなかったのは、必要のないものをなくしていくだけではなく、足してしまったというところにあったのかも。

金子──聴覚文化論やサウンド・スタディを経由した作品の魅力は、よりリサーチがベースになり、音を足すよりは、音が少なかった時代を想像させるような方向性ではないかと思います。

★61──「Artwords」内、金子智太郎執筆項目を参照。
★62──Brandon Labelle:1969- アメリカ・メンフィス生まれ。コンタクトマイクや最小限のテクノロジーを用いてインスタレーションやパフォーマンスを行うアーティスト.ヴォイス・パフォーマンスや行為に基づく発音行為(たとえばロラン・バルトのテクストを書き写すペンの音など),によって行為と言語と意味の間を探究する.執筆活動も行い,1999年サウンド・アーティストによる音と空間に関するテクスト集「Site of Sound」を編集(ICC ONLINE ARCIVEより)。URL=http://www.ntticc.or.jp/pastactivity/artist?name=ブランドン・ラベル&lang=jp
★63──Alan Licht:1968- アメリカの作曲家、ギタリスト。実験的ミニマル・ミュージック、ノイズ、フリージャズなどを演奏。また著書にジム・オルークとの共著『サウンドアート──音楽の向こう側、耳と目の間』がある。
★64──Dick Raaijmakers:1940-2013 オランダの作曲家・電子音楽の先駆者。理論家。作品のIntonaを動画で見ることが出来る。URL=http://www.youtube.com/watch?v=qI6S6hyV9MY
★65──「Artwords」内、高橋智子執筆項目を参照。
★66──Ian Rawes:1953- フィールド・レコーディスト。ウェブサイト「the London Sound Survey」を運営。
★67──Peter Cusack:1948- イギリスの音楽家。音響収集家。
★68──Christina Kubisch:1948- ドイツのサウンド・アーティスト。絵画、音楽、電子工学を学んだ後、音響彫刻インスタレーションの制作を始める。作品はパブリック・スペースに設置されことが多い。
★69──Raymond Murray Schafer:1933- カナダの作曲家。サウンドスケープの提唱者。著書に『世界の調律』(平凡社、1986)、『サウンド・エデュケーション』(春秋社、2009)。
★70──あしかわ・さとる:1953-1983 日本の作曲家。環境音楽の先駆者。作品に「スティル・ウェイ」。

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畠中実

1968年生まれ。NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員。90年代末より国内外における同時代の電子音響表現を紹介。2...

金子智太郎

1976年生まれ。東京藝術大学等で非常勤講師。専門は美学、聴覚文化論。日本美術サウンドアーカイヴ主催。最近の仕事に論文「環境芸術以後の日本美...

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