2015年と2016年にBCS賞の審査を担当したとき、応募作に大学のキャンパスの建築が多いことに気がついた。ちなみに、BCS賞とは通常、建築家のデザインを中心に審査することが多い建築界において、施工や、クライアント側の計画・運営も重視することを特徴とし、ゼネコンが力を入れているアワードである。
最近の大学建築が元気である
さて、大学の建築が目立つのは、もちろん教育環境を充実させているからなわけだが、おそらく少子化していく日本社会のなかで、オープンキャンパスなどで高校生にアピールするという目的も、その一因だろう。例えば、日本女子大学の妹島和世による図書館(2019)や坂茂の芝浦工大豊洲キャンパスのカフェ、レストラン(2022)などである。またかつて郊外に進出した大学の都心回帰の流れによっても、新キャンパスの建築が求められる。例えば、山本理顕による名古屋造形大(2022)や乾・RING・フジワラボ・o+h・吉村設計共同体が手がけた京都市立芸大(2023)などだ。ちなみに、美大系では、金沢美術工芸大(2023)も、SALHAUS+カワグチテイ建築計画+仲建築設計スタジオが担当し、街に開かれたキャンパスが出現している。
妹島和世《日本女子大学 図書館》[筆者撮影]
SALHAUS+カワグチテイ建築計画+仲建築設計スタジオ《金沢美術工芸大学》[筆者撮影]
一方で現在の公共建築は、1980年代や90年代に建設されたものが十分な予算をかけていたのに対し、コストを下げることが強く求められている。例えば、正面だけは見栄えをよくしても、あまり人が見ない背面は何もデザインがない建築が増えたように思う。以前の建築は、東西南北の四面とも、立体的な造形としてつくられており、今こうした建築を鑑賞すると感心させられるが、そうした余裕がなくなっている。かくして、あちこちで仕事を獲得している隈研吾は、こうした日本の経済状況において、ルーバーを貼ることによって、コスパが良い、デザイン手法を開拓し、最適解になっているのではないか。11月30日に復興デザイン会議全国大会のために訪れた東京大学の工学部11号館では、長谷工グループの寄付によって、彼が設計したHASEKO-KUMA HALL(2020)が誕生していた。ほかにも隈は、近年、東工大、東京芸大、早稲田大でも、寄附金によって建築を手がけている。特に有名なのは、早稲田大学国際文学館(通称・村上春樹ライブラリー)だろう。それぞれの大学には伝統のある建築学科も存在しているが、これだけあちこちで手がけた建築家は、隈のほかにいない。
隈研吾《HASEKO-KUMA HALL》[筆者撮影]
南山大学とレーモンド
今回は12月に見学した2つの大学を主にとりあげたい。愛知県・名古屋の南山大学と愛媛県・松山の松山大学である。前者のキャンパスは、実は2度も日本建築学会賞をとった建築群だ。最初は大学創設時の1964年の学会賞(作品)で、帝国ホテルの仕事を契機に日本で仕事をはじめ、戦時下は離日し、戦後に再び活動を再開したアントニン・レーモンド(1888-1980)の晩年のプロジェクトである。学会受賞時の講評文を抜粋しよう。「南山大学は、ほぼ南北につづく一本の尾根筋とその両側のゆるやかな起伏をもって拡がる斜面とからなる変化に富んだ敷地に計画された。……[さまざまな施設が]地形の起伏を生かしながら、機能的に分節化されている。高価な仕上材の美しさや特異な構造体の奇抜さに頼ることなく、与えられた自然との調和と機能的な校舎群との結びつきのなかから、これまでに見られなかった大学校舎群の新しい空間的秩序を創造したことは、高く評価されなければならない(角カッコ引用者)」。こうしたマスタープランと各施設群は、いわば小さな街を手がけることであり、建築家にとって夢のような仕事である。その後、キャンパス内にさまざまな施設は増えたが、G棟を中心軸とする構成、南側の第一研究棟と図書館、北側の体育館といった初期に形成された空間の特性を維持している。
アントニン・レーモンド《南山大学 K棟・M棟》[筆者撮影]
アントニン・レーモンド《南山大学 体育館》[筆者撮影]
レーモンドも、自伝(三沢浩訳、鹿島研究所出版会、1970)において、「私は日本のデザイン哲学からひき出された原則を……採用していった。……はじめて敷地を訪れた時……私はきわめて魅力的なその風景と草木を、できる限りそのままにしておかなければならないと考えていた。……無意味な、広場の偽記念性とか、列柱、広い階段、その他の高価な装飾など、世界中ほぼすべての大学にあるものはやめた」と述べている。彼が日本の建築から学んだということは、『建築詳細図譜』(1938)や『私と日本建築』(鹿島研究所出版会、1967)にも記されていた。前者のまえがきから引用しよう。「第1の原則は、……地方条件を考えること……つまり花も動物も、異なった気候に反応するのである。私たちは、日本人から物質の自然な本質と外面の価値を学んだ。人工の仕上げを避け、非難すべき模倣を避けた」。実際、地形を平らにならしていないので、キャンパス内を端から端まで歩いて、往復すると、起伏が豊かであり、ちょっとした運動になる。
今回初めて見学することができたのが、キャンパス内にある神言神学院(1966)だった。レーモンドは、ときには無報酬でも引き受け、教会というビルディングタイプを重視し、数々の仕事を手がけてきたが、これはその最終到達点となる傑作と言えるだろう。彼の教会は基本的に矩形の平面だったが、目黒の聖アンセルモ教会(1954)はジグザクの折板構造を経由し、煉瓦造+木造の新発田カトリック教会(1965)で試みた六角形の内陣を半円形の会衆席で囲む、ユニークなプランを発展させたものだ。すなわち、神言神学院は、半円筒を組み合わせた鐘楼の下の聖壇を扇状に並べたシェル屋根の連なりで囲む、鉄筋コンクリートの建築である。立教学院聖パウロ礼拝堂(1963)でも、シェル構造を採用しようとしたが、このときはリブ・ヴォールトのような交差する梁を入れることになり、実現しなかった。なお、目黒の折板構造は、後の群馬音楽センター(1961)において大きなスケールで継承されている。
アントニン・レーモンド《神言神学院》[筆者撮影]
アントニン・レーモンド《神言神学院》の模型[筆者撮影]
アントニン・レーモンド《新発田カトリック教会》[筆者撮影]
アントニン・レーモンド《群馬音楽センター》[筆者撮影]
レーモンドは、打ち放しコンクリートの自邸、霊南坂の家(1926)や、透明なインターナショナル・スタイルのリーダーズ・ダイジェスト東京支社(1951)など、モダニズムのトップランナーを走っていたが、神言神学院において、モダニズムの機能主義を超えるダイナミズムと象徴性を獲得している。なるほど、その経緯は、ル・コルビュジエの晩年におけるデザインの変節、ロンシャン礼拝堂(1955)やラ・トゥーレット修道院(1957)の宗教建築を想起させるだろう。実際、光の入れ方などに影響が感じられる。また神言神学院は、正面から教会がきちんと見えない構成なのだが、地域の教会というよりも、神父らの宿舎を兼ねた施設であり、やはり教会を囲むラ・トゥーレット修道院のプログラムに近いだろう。さて、今でも保存状態がとても良いのは、地下鉄の開通に伴い、一度は移転計画も持ち上がったものの、最終的にていねいな保存改修の道を選んだからである。スクラップ・アンド・ビルドになりがちな日本において、一般的に人の思いが深い宗教建築は大事に使われるケースが多い。
ところで、2度目に贈られた2024年の学会賞(業績)は、「南山大学におけるモダニズム建築群の保存再生と大学キャンパスの成長デザインへの取り組み」だった。南山大学では、レーモンドのレガシーを継承しつつ、日本設計と大林組による耐震改修や増築を遂行したのである。保存再生アドバイザーは田原幸夫が担当した。またレーモンドがデザインした壁画やレリーフ、妻のノエミが手がけた家具を修復する一方、初期の校舎の特徴である赤土色の壁、ルーバー、庇などを新設した校舎に用い、景観の統一性を与えている。なるほど、Q棟(2017)などは、現代風にガラス面が多いのだが、共通した建築のヴォキャブラリーも備えていることで、新旧の連続性をもつ。そして随所に建築を説明するキャプションをつけたり、図書館の一角にプロジェクトの展示コーナーがつくられた。
アントニン・レーモンド《南山大学 Q棟》[筆者撮影]
開放的な松山大学のキャンパス
もうひとつは、日建リサーチのプロジェクトで訪れた松山大学である。松山は何度も足を運んでいたが、ここは今回が初訪問だった。日建設計は、20世紀の後半からキャンパスの建築群を手がけ、特に2010代以降は、樋又キャンパス(2016)、文京キャンパスのmyu terrace(2018)、御幸キャンパスのクラブアクティビティエリア(2020)を完成させた。これらの建築はとても開放的なのだが、驚かされるのは、基本的に外部の廊下によって教室がつながっていること。したがって、各部屋の前に傘立てもつく。もちろん、省エネになるのだが、愛媛が温暖な気候だからこそ、この形式を採用している。実際、東南アジアの学校ならば、それほどめずらしくはないだろう。ちなみに、廊下が室内でないという形式は、今回初めて試みたわけではなく、すでに20世紀後半につくられた校舎がそうだった。ゆえに、松山大の学生にとっては、ごく当たり前の空間体験なのである。文京キャンパスの2号館は大教室に挟まれた廊下がやはり外部だったし、4号館の教室も外廊下からアクセスする。また8号館ではドアを開けたまま講義を行なっていたので、直結する外のテラスから教員の声がよく聞こえた。
特に県道と面し、街との接点になる樋又キャンパスは、4階建ての校舎だが、地上階は通り抜けができる中庭とし、レストラン、アクティブ・ラーニングの空間、社会連携室、キャリアセンターが囲む。そして2階から上は、教室や研究室(東側)、中庭に向いたテラス、外廊下、ブリッジを積層させる。全体として人の動きが感じられる空間だろう。
日建設計《松山大学 樋又キャンパス》[筆者撮影]
myu terraceは、5階建ての1号館(1969)を解体しつつも、地下の基礎を残し、その上にロの字型の鉄骨フレームを散りばめた、興味深いプロジェクトである。ここは壁がなく、軽い屋根と縁側のようなテラス、そして屋外家具だけが設置され、さまざまな居場所を生む。その結果、大学創設時の小さな中庭に再び光が差し込むようになった。既存建物をただ解体するよりも、開放的な空間を挿入することで、両側を効果的につなぐ。かくして中心のキャンパスプロムナードに面して気持ちがよい場所が誕生した。
日建設計《松山大学 文京キャンパス myu terrace》[筆者撮影]
歩いて数分の場所にある御幸キャンパスでは、100周年記念施設として新しく部室群、練習場、メインアリーナが建設された。部室は、ローコストゆえに、ミニマルな部材の組み合わせによる5.4mグリッドのユニットを二層に積んで雁行させながら、空間のパターンに変化を与える。これらと隣接するメインアリーナはまったくサイズが異なる建築だが、分節のパターンによって、ユニットのスケール感を引継ぎつつ、周囲の住宅街に威圧感をあたえない、透明感あふれる大空間を実現した。ここのつなぎ方は巧みであり、限られた予算から導かれた建築的なアイデアが冴える。逆に道路を挟んで向いの傾斜地には、おそらくもっと予算があった1980年代につくられた斜行エレベータをもつダイナミックな部室棟、プールの上を横断するトレーニングルームなどが建ち、改めて建築が時代の産物であることが感じられた。
日建設計《松山大学 御幸キャンパス クラブアクティビティエリア》[筆者撮影]
日建設計《松山大学 御幸キャンパス メインアリーナ》[筆者撮影]
日建設計《松山大学 御幸キャンパス トレーニングルーム》[筆者撮影]
南山大学のキャンパスがレーモンドという強烈なデザインのキャラクターを核にすえるのに対し、松山大学の建築は多くが日建設計の仕事だが、時代の変化を刻みつつ、開放的な空間を維持している。
関連レビュー
名古屋造形大学と「just beyond」展|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2022年07月15日号)