展覧会の片隅に参考資料として、パンフレット、チラシ、DM、雑誌、メモなどが展示されていることがある。エフェメラと呼ばれるそれらの資料は、展覧会や作品の過程、作家の癖や性格、とりまく人間関係、ムーブメントや時代の背景について雄弁に語ってくれる。キュレーターの研究者としての仕事のひとつは、膨大なエフェメラを収集し、読み解いていくことであると言えるだろう。国立国際美術館の橋本梓氏に、表現や記録の媒体としての「紙」資料の価値、それが美術館の所蔵品としてどう位置付けられ、アーカイヴされるのか、ザ・プレイのメンバーであった水上旬の資料をもとに綴っていただいた。(artscape編集部)
キュレーターの膨大な資料整理という仕事
振り返ってみれば、自己流の体当たりにもほどがあるが、これまで企画してきた展覧会の関係で、さまざまな紙資料を整理してきた。しかもそうした資料の多くは、調査対象に関する二次的な情報源以上のものであるのみならず、それ自体が作家の実践の核心へと直結する証左となる場合も少なくなかった。現在ではパフォーマンスと呼ばれる表現であったり、ほかにも非物質的な作品に関連する場合は、とりわけこのことが当てはまった。
最初に整理に取り組んだのは、ザ・プレイ(以下、プレイ)から借用したエフェメラ・写真類・私信等だった。その調査は、グループとしてのプレイの活動を中心に据え(メンバー個人や関係者に関する資料と区別し)、またそれらの資料を展覧会★1に展示するか否かという点を何よりもまず念頭において整理したため、量こそ多いものの指針は明白だった。他方、ひとりで手に負い切れず長らく抱えていたのは、プレイの調査をきっかけに平野重光(2001年まで京都市美術館で学芸課長を務めた)から譲り受けた資料、なかでも「水上旬一件」と括られた一群であった。内容は、水上自身の展覧会案内、作品と見做して差し支えないエフェメラ、作品と通信を兼ねたようなもの、手紙、手作りの冊子、水上以外の作家(松澤宥など)の作品群(すべて紙媒体によるもので、言葉による指示などが中心のコンセプチュアルな表現)などである。水上発信のエフェメラや通信の類には、「古式汎儀礼派」「古派」などと記されており、通番が振ってあるが、ずいぶん量があるこの資料体においても欠番が多く全貌がわからない。整理するためにはどのようなクライテリアを設定すべきか、確信が持てないままひとまず自分で拾える情報を急いで拾っていった。2016年のことである。

展示風景「トーク・イベント プレイを語る、プレイと語る」(2025年4月26日、国立国際美術館 B1階講堂)
展示資料はすべてザ・プレイ所蔵。選定と展示は作家が行なった[撮影:植松琢磨]
1967年から1969年末、つまり初期のプレイにおいて、水上はプレイの中心人物のひとりであったため、調査すべき重要な対象であった。プレイとしての活動は、プレイから借用した資料の調査でそれなりに跡を辿ることができた。プレイを別にすれば、1969年6月に京都大学で行なわれた、ゼロ次元を中心とした「万博破壊共闘派」に合流して個人で行なったハプニング《紐力学志向儀》が、文化史上ではよく知られた水上の姿であるかもしれない(平田実が撮影)。それ以外の水上の実践についての手がかりは、黒ダライ児の大著『肉体のアナーキズム 1960年代・日本美術におけるパフォーマンスの地下水脈』(grambooks、2010)で記された以上の情報には、なかなか出会えそうもなかった。こうしたなか、手探りで「水上旬一件」資料の目録を作りながらわかってきたのは、1960年代末から1970年代における水上の仕事の中心が、紙媒体による通信行為そのものだということであった。2016年の秋にプレイの個展開催前に調査が一区切りしたのち、「水上旬一件」の整理についてはひとまず中断していた。その後、資料の写真撮影を行なってさらに目録を整理したところで、資料提供者の平野にあてて調査報告をひとまずまとめて送ったのが、2019年の年明けであった。
資料を公開するということ
資料の存在を公にすれば、当該資料に関連する更なる情報が寄せられ、この分野全体の研究が進むことになる。このため、本来ならば早々に公にしたかったのだが、今回の場合、資料は公的にはどこにも帰属していないため、公開できない状態が長く続いた。一括して作品扱いするには「作品と言い難い」ようなものがあまりに多く、かといってまとめて図書資料として登録してしまうのも、あまりに軽々であった。明らかに「作品」として扱える資料だけを抽出して作品登録することも検討していたが、逡巡の挙句、資料群としてアーカイヴする方が妥当であると考えた。理由は、資料の由来および群としての存在それ自体が、関西における戦後現代美術史の一端を指し示すからである。すなわち、ひとりの学芸員と作家との間にあった紙媒体でのさまざまなやり取りがひとまとまりの資料体となり、それが、京都市立美術館が1960年代末〜1970年代に果たした役割を反映しており、また言葉と行為によって表現する作家たちの一群の存在を証明するものだからだ。作品登録すれば展示などで活用しやすくなるものの、長期的にはそうした文脈が次第に失われかねないとも考えた。といったことをつらつらと考えるうちに時は流れ、2025年の4月、国立国際美術館では情報資料担当の研究員の尽力により、「現代美術に関連する資料群」として、ほかの資料群と共にようやくその存在が公になった★2。作品でも図書資料でもない道をようやく用意することができ、オリジナルのかたまりのままで、資料を公にすることが叶ったのだった。
そして、「平野重光旧蔵資料(水上旬関連資料)」として登録したこの資料に関連するひとつの研究成果として、「京都の蠢き──1970年代、水上旬の動きを中心に」という論考を今年発表することができた。長野県伊那文化会館で1月31日から3月1日まで開催されていた展覧会「かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974」の会期に合わせて水声社から出版された書籍に所収されている★3。一般社団法人戦後芸術資料保存の代表理事を務め、10年以上にわたって松澤宥の資料調査を進めてきた細谷修平を共同監修に迎え、2022年に長野県立美術館で「生誕100年 松澤宥」展を企画した木内真由美(当時は長野県立美術館主査学芸員、現在は長野県伊那文化会館学芸主幹)の企画による本展は、下諏訪を拠点に活躍した松澤を中心に、紙という媒体によって言葉と行為で表現し、またコミュニケーションしたさまざまな作家たちの作品、資料、写真で構成された熱量の高い展覧会であった。「平野重光旧蔵資料(水上旬関連資料)」調査のごく初期段階を思い起こせば、筆者はひとり資料を眺めながら「パーリニバーナ・パーリヤーヤ体……?」「島儀……?」「星兵衛……誰……?」などと混乱していたものだが、そうした作家たちがこの展覧会の登場人物たちである★4。水上旬はそうしたなかでも重要な登場人物のひとりであり、京都と諏訪(そしてその後水上が転居した名古屋)をつなぐキーパーソンとして、ネットワークのひとつの要であった(詳しくは拙論をお読み頂ければ幸いである)。ちなみに筆者は細谷と木内の導きで、2024年に松澤宥宅での調査も実現し、松澤と交流のあったプレイや水上に関する資料を確認している。

「かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974」展示風景[撮影:(一社)戦後芸術資料保存]

「かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974」展示風景[撮影:(一社)戦後芸術資料保存]

「かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974」展示風景[撮影:(一社)戦後芸術資料保存]

「かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974」展示風景[撮影:(一社)戦後芸術資料保存]

「かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974」展示風景[撮影:(一社)戦後芸術資料保存]
筆者が展覧会を見に訪れたのは、1971年からごく数年のあいだ「かみ派」(ちなみにこの名称は自称ではなく、一部の関係者による呼称であった)的な表現に身を投じ、その後は現在にいたるまで装幀家として活躍する芦澤泰偉のトークの日であった。大阪から……というより長野県外から気軽に行けるような場所ではなかったが(名古屋から高速バスで3時間)、行ってみれば作家に加えて知った顔ぶれも多く、大変な熱気であった。30を超える作家(グループ)の資料・作品の展示はボリュームがあり、現時点で展示可能な資料を丁寧に出品したという印象を持った。作家たちのなかには、その後美術から完全に離れる者もいたり、別の表現活動へと移っていった者もいたようだ。個々の作家についてのさらなる分析、および作家たちの関係性などの考察は今後の課題であるだろう。
トークイベントの様子 左から芦澤泰偉氏、細谷修平氏、木内真由美氏[撮影:(一社)戦後芸術資料保存]
紙は依代として生き残り、証拠となる
紙は決して軽んじることのできないすぐれた媒体だ。あらゆる物事がデジタル化・オンライン化しつつある現代においてさえ、紙にまつわるあれこれをノスタルジックな感傷として片付けるのは早計であろう。理由を3つにまとめてみたい。まず、誰にでも手に取って書くことができるといういわば参入障壁の低さが挙げられる。絵画や彫刻の教育を受けずとも、誰もが比較的意のままに扱える媒体である。この点は、おそらく戦後に活躍した前衛作家たちにとって大変魅力的であったと推測される。次に拡散性である。ゼロックス・コピーは当時まだまだ高価であったが、情報発信の民主化の柱ともいうべきガリ版刷りは、庶民にとって複製を担保する技術であり、また比較的安価に郵便で送れるという利便性が紙にはある。インターネットやEメールはおろかFAXもない時代、通信といえば電話(しかも携帯電話ではない、固定電話)か電報か郵便であった。当時の作家たちは大変筆まめで、礼状だけでなく、何月何日の何時にどこそこへ行くので迎えに来てください、といったような一言だけを書いた葉書を送ることも珍しくなかった。こうしたコミュニケーションのあり方が「かみ派」の実践の要であっただけでなく、紙は作家と学芸員、作家と作家のやり取りの可視化に寄与しており、今日の研究を可能なものとしているのである。最後に、物理的に劣化は免れずとも、紙は保存可能であるという点も見逃せない。紙はかたちなき芸術実践の依代であり、証拠として、かたちある限り表現を伝える媒体となる。今回の展覧会を見ながら、まだこれだけのものが残っているのかと驚いたのは筆者だけではないだろう。
資料の調査・保管・管理には手間もコストもかかるし、いわゆる「収益」をすぐに生み出すようなものではない。しかし、紙がある(資料が存在する)ということ、それを保管するということ、そしてアクセスできるように制度を設計し整えること、研究の始まりはそこからであって、展覧会は本来、そうした研究の結果でしかない。
★1──「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」、2016年10月22日〜2017年1月15日、国立国際美術館で開催。https://www.nmao.go.jp/archive/exhibition/2016/play.html
★2──https://www.nmao.go.jp/collection_research/archive/ただし調査・閲覧の対応開始時期は未定。
★3──『かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974』(木内真由美+細谷修平+大司百花+古家満葉 編、水声社、2026)
★4──各名称および作家については長くなるため割愛するが、同上カタログのほか、以下なども参照されたい。「世界蜂起計画」(『美術手帖』1972年11月号)、「カタストロフィー・アート」(『美術手帖』1973年3月号)
かみ派の美術─諏訪につどった前衛たち1969−1974
会期:2026/01/31〜03/01
会場:長野県伊那文化会館[長野県]
公式サイト:https://naganobunka.or.jp/event/inabun/3074/