上演:2026/04/19
会場:六行会ホール[東京都]
公式サイト:https://www.kemuri-ga-tatsu.com/2026


⚫︎REC

えーっと、昔ゴキブリコンビナートの公演を見にいったことがあって。ゴキブリコンビナートってのはいわゆる、かつての見世物小屋とかサーカスが見せてたような、暴力的で奇怪なもの、差別的なもの、そういった公序良俗に反するような表現を中心的に見せる劇団なんだけど。その時僕が見た舞台も、前近代的な人足たちの過酷な労働みたいなものがモチーフになっている作品だったんだよね。木場公園の野っ原に立てられたテントの中の地面に十字の溝が掘ってあって、その底に腐った魚の汁とかが溜まってる。その上に単管の足場が組み立てられてて、役者たちはそこに登って、安全ベルトで体を固定しながら歌ったり踊ったりする。で、これはゴキブリコンビナートの作品によくある展開なんだけど、客席側に強い介入をしてくるわけですよ。底に溜まってる汚汁をかけられるとか、客席側に役者が下りてきて練り歩いたりだとか。そんで僕が見ていたところの近くに役者が来たんで、わざとちょっと予想進路を妨害するような感じで立ってみたんだよね。殴られたりひっつかまれたりするのかなって。実際には、押したか押してないかわからないくらいのほのかな手振りで避けられて、なんだか拍子抜けしたんだけど、妙に印象深いというか。まあ、今思えば当たり前なんだけどさ。

JACKSON kaki《テクノロジーダンス:さるかに合戦》の話に移ろう。これは「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」という、新しいダンスのあり方を模索するためのプログラムにおいて採択されたプロジェクトで、その最終成果発表にあたる公演です。JACKSON kakiはもともと3DCGを使った映像表現、特にクラブにおけるVJとかの文脈に大きく培われたアーティストで、近年はパフォーマンス的な身体表現にもいろいろと取り組んでいるわけなんだけど、いわゆる「ダンス」という名目で発表したのはこれが初めてという。つまり、このプロジェクト自体がJACKSON kakiにとって「ダンスを名乗る」ことと同義だと言える。

本作では昔話の「さるかに合戦」を下敷きにしながら、テクノロジーの象徴としてのサルと、身体の象徴としてのカニの関係性が争われる──というのが基本的な説明になるのかな。でもJACKSON kakiは、養老孟司や布施英利をレファレンスしながら、隠された身体──唯脳論的な近代都市の中で排除されてきた、暴力や死、性を孕んだ身体──をいかにして現代に召喚しうるのか、ということに関心を持っているアーティストなわけで。それを踏まえると、本作におけるテクノロジーと身体が単なる二項対立ではありえないだろうってことは想像がつきますよね。

オープニングアクトは、現代美術家の松田修によるパフォーマンス《リビングメッセージ》。舞台の幕が開くと、真ん中に刃物で刺された男がうずくまっていて、床に血糊が広がっている。横にはそれをスマートフォンで撮影している野次馬がいて、撮影された映像は後ろのスクリーンに大写しになっている。で、この真ん中で今にも死にそうな男を演じている松田は、床に流れる血糊をかき集めながら、その血糊を指でよけるかたちで文字をあらわすんですね。「テクノロジ〜〜〜?」って。これは文字通り、血文字で書かれるダイイングメッセージの裏返しになっているわけ。死に際に残される最期のメッセージではなくて、死んだふりをしている肉体が生を寿ぐように文字を残す。

ここで思い出されるのは、作家・笠井潔が述べた「二重の光輪」の話かな。笠井は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に推理小説が隆盛を極めたのはなぜだったのかと問う。それは、かつてない規模の戦争によって生み出された大量の匿名的な死体を前に、死体が持つ意味を回復しようとした運動だったんじゃないかと。推理小説では、死体は「どのようにして殺されたのか分からない肉体」として登場し、それを探偵を中心として読み解いていくことで一つ目の死体の意味が回復される。そして最終的に犯人が明かされ、事件に至るまでの道筋が明かされることによって第二の意味の回復──つまり、死体の人生自体の意味の回復──が行なわれる。この二重の光輪によって彩られた「意味を持った死体」を立ち上げるための物語的なアプローチが推理小説だったんじゃないか、と笠井は言うわけだ。

もはやだいぶオールドファッションな議論ではあるけれど、これをさっきの《リビングメッセージ》に照らすとどうだろう。ダイイングメッセージというのは、自分がいかにして死に至ったのかを、その後に推理を行なう探偵たちに引き継ぐ文字──つまり、死体とその意味を一意に結びつけるために描かれる文字といえる。しかもそれは死体になるその瞬間に、血文字で書かれるわけだから、基本的に書き直しのできない文字としてある。一方でリビングメッセージは、床に広がった血糊をかき集めたところに書かれる逆血文字なので、血糊が乾かない限り何度でも書き直しが可能だろう。しかもこの書き手は死んでいないわけだから、別に口で喋ったりしてもいいわけで。死んだふりした肉体が、何度でも書き直し可能な文字を書くということ。これはつまり、引き伸ばされた訂正可能性の中で、意味を決定されることのない身体がだらだらと続いているということですよね。このだらだらとした行為と修正、それによって「意味を持った身体」がいつまで経ってもやってこないという弛緩した現実感覚、そしてそれ自体の肯定。これは《テクノロジーダンス:さるかに合戦》においても重要なテーマとして、遠く響いているでしょう。

《リビングメッセージ》が終わると、すぐに《テクノロジーダンス:さるかに合戦》のオープニングムービーが始まる。これは3DCGで描かれた野原の中でカニとサルのモデルがポリゴンを歪ませながら踊るというもので、わかりやすくかっこいい。ここで注目したいのは、その踊っているモデルたちをカメラが非常に多角的な視点から連続的に描いているということです。これは3DCGならではのグリグリ動く視点の自由さなんだけど、同時にドローン登場以後の実写映像の画角でもあるわけで。さらに、この重ね合わされた視点を観ている僕らは、劇場という極めて正面性の強い空間の中に固定されているんですよね。この「ある決まったフレームの中で展開される(あたかも)自由(のような何か)を見ている」という構造は、本作に通底していく。

さて、いよいよ「さるかに合戦」が始まる。VRゴーグルをつけたJACKSON kaki演じる親ガニが登場し、VR空間内のサルの3Dモデルと戦い始める。最初、カニはサルを圧倒するんだけど、最終的にサルが投げた青柿=飛行するドローンにぶつかって死んでしまう。するとJACKSON kakiの肉体は十字架を模した移動式の器具に磔にされ、子ガニたちによって引き廻される。ここでJACKSON kakiの肉体はかなり露骨にイエス・キリストに重ね合わされていて、ということは本作は昔話そのままの復讐譚ではなく、この先には復活と赦しが待っているのか──と思ってみたりもするんだが、まあいったん置いておこう。中間報告を見ると、JACKSON kakiは本作を、西洋的な舞台芸術を下敷きとしながらそれを内破していくような試みとして位置付けていることがわかる。いわずもがな、キリストは西洋的な歴史観における代表的な「意味を持った死体」であり、数限りない芸術表現を通じてリピートされてきた。もちろん本作においてそれは、AIによって変形された極めて軽薄な、しかも移り変わっていくイメージとして描かれているわけですよ。これは、JACKSON kakiと男が取っ組み合うシーンで、二人の肉体に文字が重ねられるシーンにもつながっている。「猿」「人」「進化」そして「神」──いわずもがなこれは「申」を「示」すと読めるわけです。

中盤へ移行する中でダンサーは増え、舞台は混沌としはじめる。中でも印象深かったのはカニカマを咀嚼して吐き戻すシーンで、というのもカニカマって何かといえば、これはテクノロジーによって再現されたカニの肉なわけです。スケトウダラのすり身でつくったシートがくるくる巻かれて、意味も来歴もないカニの肉体が仮構される。そこでは初めから肉体などなく、解体されたカニの身という形式だけが大量生産されている。さっきまでカニの死はキリストになぞらえられていたわけだけど、ここではもはや「唯一の意味ある死体」なんてものは存在しなくて、その上でカニカマが聖体拝領される──肉がパンに、血がワインになるように。しかしそれは飲み込まれることなく吐き戻されるから、神との心身合一という物語も脱臼する。そして、吐き出されたカニカマは鏡やモニタの上に──イメージを発信・反射する平面の上に──積もっていく。オリジナルを持たない複製は何重にもリフレクトして、しかし決して身体にアンカーされることのないまま中空を漂う。

ここでは、JACKSON kakiの肉体が「太っている」という点も重要だと思う。JACKSON kakiは舞台に臨むにあたって「だらしない肉体を見せるために意図的に体重を増やした」と(おおむねそんな感じのことを)言ってるわけだけど、こうしただらしなさの概念はかなり限定的な文化コードにもとづいている。十分な栄養を確保できない時代・地域において、太った肉体は富と魅力の象徴として扱われてきたし、他方で現代の先進国においては、肥満は安価な炭水化物主体の食生活の結果であり、貧困の象徴なわけだ。「自律的な肉体管理の失敗によるだらしなさ」というのはごくごく限られた解釈でしかなく、とりわけ古代の民話を現代に語り直す本作においては、この太った肉体もまた、無数の文化的コードの中で痙攣する両義的な肉体として立ち上がっていると見るべきでしょう。

だらしない肉体へのオブセッションと吐き戻されるカニ──ここで僕は三島由紀夫を連想してしまうんですよね。三島は「蟹」という漢字すら避けるほどのカニ嫌いで有名で、これは後年、澁澤龍彦によっていくらかの考察がなされている★1 。そこから敷衍するなら、三島が鍛え上げた肉体というのは一見、硬い外骨格の鎧に包まれたカニと似ているのだけど、三島はそれを傷つき、痛みに感応するからこそ美しいと捉えていたように思われるわけです。外部のものに侵される中でこそ、崇高な美を宿す肉体──三島自身がその最期において、自ら白刃を突き立てたように。そう考えると、カニの外骨格というのはいわば不可侵にして不感症の肉体であり、表面的には肉体と似ていながら、内実は全く裏返しになっている。三島がカニを嫌ったのも、こうしたある種の近さ・遠さの同居にもとづく不気味さによるのではないかと。さて、本作においてはまさにこの関係──三島的な侵されうる肉体とカニ的な不可侵の外骨格──がイメージの上で重ね合わされ、単純な二項対立をかき乱している。

二項対立の撹乱とその暴露というのは本作全体を貫く運動で、冒頭でいったとおり、その代表がカニ=身体性とサル=テクノロジーの関係です。有史以降、僕らの身体はテクノロジーによって馴致され、つくりかえられてきた。僕らはテクノロジーを介してしか考えたり動いたりできないし、一方でテクノロジーは僕らのように考えたり動いたりすることを目指して育まれてきた──こんなのはもうダナ・ハラウェイを引くまでもなく、繰り返し指摘されてきたことだ。別にコンピュータでカニをつくってもいいし、カニでコンピュータをつくったっていい★2 。サイバネティクス以後の世界において、それらは等価なんだから。僕らのInstagramのリールを占拠するuglyかつsatisfiedな動画たち──絞られる粉瘤、ほじくられる埋没毛、こそがれる耳垢、奇形、痛々しい治療。よく知られたように、これらの多くはいまや生成AI映像となっている。僕らのもっとも湿った好奇心を日々慰めているのは、こうした純粋にテクノロジカルな肉体で、じゃあそこで自由になるべきは、一体誰なんだ?

後編へ)

 

★1──澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』(中央公論新社、1986)
★2──兵隊ガニの群れを用いて論理ゲートを実装する研究(Yukio-Pegio Gunji, Yuta Nishiyama, and Andrew Adamatzky, “Robust Soldier Crab Ball Gate,” Complex Systems, Vol.20, 2011, https://www.complex-systems.com/abstracts/v20_i02_a02/

鑑賞日:2026/04/19(日)