
会期:2026/04/25~2026/09/06
会場:金沢21世紀美術館[石川県]
公式サイト:https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=65&d=1852
(中編より)
前編の末尾で指摘したように、「路上、お邪魔ですか?」展における根本的な問題は、2020年に渋谷で起きた路上生活者殺害事件の加害者が発した「 彼女が邪魔だった」という言葉をタイトルに参照しつつも、展示内容において「ホームレスの女性」が透明化・排除され、ジェンダーの視点から「路上」を考える視点がまったく欠落していることにある。不特定多数の人々が行き交う路上は、ジェンダーにおいて決してニュートラルな空間ではない。むしろ、どのようなジェンダー(と見なされる)かによって、誰からどのような眼差しを向けられるのか(性的欲望なのか無関心なのか警戒なのか蔑視なのか)という経験がまったく異なり、それに付随して「路上を歩くこと」の安全度も危険度も異なってくる。つまり本展は、「路上、お邪魔ですか?」と掲げているが、路上で実際に「お前は邪魔だ」と 排除されない人の視線で企画されている。
「ホームレスの女性」という何重にも周縁化された存在に言及する現代美術作品が、まったく存在しないわけではない。例えば、2003年より東京都内の公園のブルーテント村に住み、2007年にホームレスの女性たちのグループ「ノラ」を立ち上げたいちむらみさこは、自身の日常生活と制作を地続きとしながら、ジェンダー、貧困、ジェントリフィケーションの問題に取り組んでいる★1。「Family」シリーズ(2013)では、テント村、近代異性愛家族や家父長制を象徴する「家」、家の内部にある墓、女性の身体、燃える炎などが赤い絵具で描かれたドローイングとともに、路上の映像が投影される★2。
以下では、本展出品作以外の作品や複数の論考を参照し、歴史的視座を交えて、ジェンダーやセクシュアリティの視点から「路上を歩くこと」の制約と権利について考える。フェミニズム美術史家グリゼルダ・ポロックは、古典的著作『視線と差異 フェミニズムで読む美術史』所収の論考「女性性(フェミニニティ)の空間とモダニティ」において、マネや印象派の男性画家と、ベルト・モリゾとメアリー・カサットという二人の印象派の女性画家が描いた「空間」の差異を分析することで、モダニティが、性と階級を二重に分離する複雑な政治的力学によって駆動していることを指摘した★3。モリゾとカサットの絵画に多く描かれたのは、食堂、客間、寝室、バルコニー、庭など、女性に割り当てられた家庭内の私的な空間である(モデルも家族や友人、使用人など私的な関係にある女性たちが多い)。家庭外の公的な空間を描いた作品もあるが、公園の散歩や劇場での観劇など、ブルジョワ階級が余暇を誇示する社交の空間に限定される。また、ポロックは、モリゾ作品では、欄干、バルコニー、堤防といった境界線によって、ひとつの画面が二つの空間体系に分離されるとともに、絵のなかの女性たちが「境界線の内側」の私的領域に閉じ込められていることに着目する。つまり、欄干やバルコニーは、公的空間と私的空間の境界に加え、男性性の空間と女性性の空間の境界でもあるという二重の象徴性を帯びている。
一方、マネや印象派の男性画家たちは、バーやカフェ、キャバレーという歓楽の場や、劇場の舞台裏、娼館すなわち金銭を介した性的交換の場に自由に出入りし、描くことができた。だが、ブルジョワ階級の女性がこうした場所へ立ち入ることは「品位を汚す行為」として禁止され、夫や付き添いの女性を伴わずにひとりで外出することも(娼婦と見なされるという)危険を伴い、不道徳な行為とみなされた。したがって、ヴァルター・ベンヤミンが『パサージュ論』で描いた、群衆のなかをそぞろ歩き、近代都市のスペクタクルな消費空間を心ゆくまで眺める「遊歩者」とは、男性に限定されたモデルであるとポロックは指摘する。つまり、モダニティとは、公私の領域を男性性と女性性に割り当てたうえで、処女/娼婦、子どもを産む女/性的欲望の対象としての女という二極のセクシュアリティに女性を分離して階級化する、性と階級が複雑に絡み合う政治的力学に支えられている。
だが、ポロック自身「モダニティはまだわれわれとともにある」と述べるように、こうした支配構造は過去のものではない。「女性性の空間はいまも女の生活を規制し、その規制は、街中で無遠慮な男の視線の攻撃を浴びることから卑劣な強姦までさまざまである」★4。この事例として、ローリー・アンダーソンの《Fully Automated Nikon(Object / Objection / Objectivity)》(1973)が挙げられる★5。アンダーソンは、フルオートのカメラの機動性を活かし、路上で性的なからかい目的で声をかけてきた男性を撮影し、状況を綴ったテクストを添えて展示した。「写真とテクスト」というコンセプチュアル・アートの王道を踏襲しつつ、見る/見られるというジェンダーの非対称性を転倒させ、女性の身体が客体化(Object)されることに対する異議申し立て(Objection)を痛烈に行なっている。また、被写体の男性の「目」に白いテープを貼って隠す操作も多義的な批評性を示す。「プライバシーの配慮」を装いつつ、「ちょっとしたいたずら」ではなく「犯罪」であると明示し、さらに彼を「匿名化」することで、こうした性犯罪がいたるところで無数に行なわれている遍在性をも示唆する。そして、「見られる対象」に置かれた男性は、女性の身体を無遠慮に眺めまわす有害な視線をも封じられているのだ。
最後に、「路上を安全に歩くこと」の権利は(シスジェンダーの)女性だけの問題に限らないこと、そして「歩く行為」が安全性の保障に加えて、連帯の可能性に開かれていることについて、哲学者・クィア理論家のジュディス・バトラーの論考を参照して考えたい。路上を歩く行為は、抗議活動に加えて、社会から不可視化された存在が「ここにいる」ことを自らの実存をもって示すための切実な手段でもある。だが、セクシュアル・マイノリティは、プライドパレードという祝祭的で非日常的な瞬間 にだけ 、路上空間に姿を現わすわけではない。とりわけトランスジェンダーは、公共空間を歩くだけで、好奇や侮蔑の視線をジロジロと無遠慮に向けられ、侮蔑的な言葉を見知らぬ他人から浴びせられ、ときには身体的な暴力を受ける。言い換えれば、トランスジェンダーが公共空間を(精神的にも)安全に歩けるかどうかは、単にそのトランス個人の問題ではなく、同じ場所を歩いている人が「トランスが安全に歩ける権利を支持している」と表明しているかどうかにかかっている。バトラーは、『アセンブリ: 行為遂行性・複数性・政治』において、次のように述べる。
日常生活そのものが暴力の恐怖なしで成立し、保護されていなくても安全に歩けるようになるとすれば、間違いなくそれは、たとえその権利がたった一人によって行使される場合でさえ、多くの人々がその権利を支持しているからだ。(中略)歩くことは、ここはトランスジェンダーの人々が歩く公共空間である、ここは様々な形式の衣服を身にまとった人々が、どのようにジェンダー化されていようと、あるいはどの宗教を表明していようと、暴力に脅えることなく自由に移動できる公共空間である、と述べることなのである★6。
デモやパレードといった一時的で非日常的な行為に限らず、「歩くこと」は、特定の誰かを 排除しない という姿勢を無言のうちに、自らの身体を通して日常的に示す連帯の行為にもなりうる。政治と日常性は矛盾しない。むしろ、日常的な歩行の行為のうちにも、政治性や連帯の意思は宿るのだ、という気づきこそが求められている。
★1──いちむらみさこ『ホームレスでいること 見えるものと見えないもののあいだ』(創元社、2024)
★2──吉岡恵美子・伊藤まゆみ編『越境 : 収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座 : 京都精華大学ギャラリーリニューアル記念展』(京都精華大学、2022)
★3──グリゼルダ・ポロック『視線と差異 フェミニズムで読む美術史』(萩原弘子訳、ちくま学芸文庫、2025、pp.151-232)
★4──同上、p.230
★5──村上由鶴『アートとフェミニズムは誰のもの?』(光文社、2023、pp.219-223)。ヘレナ・レキット編、ペギー・フェラン概説『アート&フェミニズム』(鈴木奈々訳、ファイドン、2005、p.96)
★6──ジュディス・バトラー『アセンブリ : 行為遂行性・複数性・政治』(佐藤嘉幸・清水知子訳、青土社、2018、pp.69-70)なお、引用箇所の訳の太字部分は下記を参照した。山田秀頌「バトラーとトランスの両義的な関係」(『現代思想』2019年3月臨時増刊号、pp.192-205)
鑑賞日:2026/06/20(土)
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越境─収蔵作品とゲストアーティストがひらく視座|高嶋慈:artscapeレビュー(2022年07月15日号)