
会期:2026/05/08~2026/05/31
会場:EUKARYOTE[東京都]
公式サイト:https://eukaryote.jp/exhibition/tomonosuke_kurachi_solo_ex/
神宮前のアートギャラリー、EUKARYOTEで倉知朋之介の映像インスタレーション展示「果物物語 Fruit Memories」が開催された。本展は1階から3階にかけて、個展のタイトルとなった果物に関わる作品が展開する。1階に置かれた立体作品は展示全体を象徴するかのようで、台座に置かれたガラス製の果物の周囲をいくつもの矢印がめぐり、果物同士の相関関係が物語や記憶にまつわるイメージの連なりを創出することが示唆されている。そして果物同士が矢印でつながるように、1階から3階に設置された映像作品もまた倉知を軸に関わり合っていく。
[筆者撮影]
本展は4つの映像がモニターやプロジェクションで上映されるが、倉知はそのすべてに登場する。1階のふたつの映像作品には倉知のみ、2階には彼とその友人、知人、家族。3階には彼の故郷の人々が現われる。倉知と登場人物との関係性は明記されてはいないが、映像内の距離感や会話の内容から窺うことができる。そして1階の一部映像が2階に、2階の一部映像が3階に含まれ、フッテージや登場人物が異なる階のモニターをまたぐことで、会場全体の映像が倉知をめぐる相関図としても機能してみえる。カラフルな服を着た出演者たちは果物の擬人化のようでもある。
とくに印象的だったのは3階の映像作品である。本作は倉知の故郷である愛知県小牧市のフルーツショップで、彼が店主にインタビューする映像を主として展開する。ナフサ不足でフルーツを保護するメッシュ状のカラーキャップが入手できなくなっていることが会話に挙がり、今春に撮影されたばかりのようだ。
[筆者撮影]
鮮やかなグレープカラーのシャツを着た店主は、インタビューの後半で倉知とその両親、祖父母との相関関係を口頭でたどり、彼が倉知家の家系図のどこに位置するかを確かめていく。このシーンは果物に移入可能な人々の関係性が展示空間に広がると捉えられもする本展の核心に触れるようで、また店主の朗々とした語りの魅力もあり、優れたドキュメンタリー映像として鑑賞者を魅了する。ところが3階の映像は、作家の人生をめぐる映像作品としては穏便には終わらない。続くシーンでは店主からもらったフルーツが入った紙袋を持った、肌を緑色に塗った人物が登場し、高らかな声で「すごくよかった」と連呼する。サングラスを外した目元には眼球が揺れる目玉シールが貼られており、ふざけているというより異様さが際立つ。
1階からの映像をふまえると、緑色の人物は倉知であり、かつ紙袋の同一性から店主と話していた人物と判断できる(ただし店主とやりとりする倉知の声は、緑色の人物の声色とは異なっている。またインタビュー映像に倉知の姿はなく、彼は声のみで登場する)。このシーンは、店主とやりとりしていた人物が実はそうした風貌をしていたというオチとして収束せず、身元も割れているうえに親切にしてくれた店主に対するふるまいとして、かなり際どいものである。
ここであらためて2階の映像を思い起こす。そこでは既存の映像のフォーマットが多用されていた。『ウゴウゴ・ルーガ』などの幼児向け番組を想起させるロゴつきのタイトルコール、挿入されるミニコーナー、キャラクターたちによる寸劇など。そして個別のカットの内容は具体的に言葉に換えられない「わからないもの」として示される一方で、その編集様式やカットの連なりによって出来事を語る方法論そのものには、一般的に見慣れた視覚的文法が使われている。たとえば幼児向け番組を模した寸劇では、番組を撮影するキャストやクルーがどのような理由で仲違いし、再び結束したのかを具体的に読み取ることはできないが、そうした取り組みそのもの、番組を作ろうとする人々が障壁を乗り越えて一致団結するという状況は伝わるように編集されている。
このことをふまえると3階の映像でも、インタビューシーンのあとに家系図の当事者であるインタビュアーが感想を述べるという、ありふれた編集構成が採用されていることがあらためて確認できる。そしてどちらの映像にも登場する同一の紙袋によってカットをつなぐ配慮がなされながら、既存の意味に集約されない映像内容が示される点に、2階の映像と同じふるまいが見出せる。このように一般的な映像編集の文法を用いながら、カットの内容に異質さを含むことで鑑賞者の前提や受容の範囲をゆさぶることが企図されたと、ひとまずは緑色のキャラクターのシーンを捉えることができるだろう。このシーンは、本作が作家の家族や故郷とのつながりをめぐるドキュメンタリーだったと了解することに抵抗している。
[筆者撮影]
本展は映像のみならず、映像内に登場した着ぐるみなども展示され、それらにも矢印がめぐる。それはカットとカットの連なりに立体的なオブジェクトを挿入する、あるいは物体自体をカットと捉える感覚にみえる。近年、美術館やギャラリーで用いられる映像作品の多くがドキュメンタリーやフィクションにおける語りの形式を取り、その内容が伝達されることを目指すのに対して、倉知の場合は明らかに映像言語そのもの、カットとカットを組み合わせたときにどのような作用が生じるかといったこと自体が表現として志向されている。その意味において倉知は映像を活用した作家でなく、まぎれもない映像作家だといえる。
彼の映像編集は見慣れた型が使われる一方で、「とりあえずつないでみた」という甘さがない。その態度が保証する「信頼できる語り手」である彼から、どのように受け取ればよいのかわからないカットが示される。そうしたカットは矢印で接続されたオブジェクト、はっきりとした犬ではなく、造形の崩れた黄色い「犬のようなもの」と同質である。それらを眺め、真顔になるとき、鑑賞者は目の前の映像がどのような価値を持つのか、判断保留の状態に置かれる。意味の読み取りにも、笑いにも集約しない映像と向き合う時間を享受し、フルーツそのものでなく「フルーツのようなもの」をつなぐことで生成される映像に引き込まれる展示空間だった。
鑑賞日:2026/05/29(金)