今号から「キュレーターズノート」の執筆陣に高知県立美術館の塚本麻莉さんに加わっていただきます。塚本さんがキュレーションされた展覧会は、これまでartscapeでは「合田佐和子 帰る途もつもりもない」展(2022-2023)、「原田裕規 個展 やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす」(2023)のレビューを掲載しています。さて、塚本さんはどんなふうに調査・研究・企画されているのか。本連載をとおして伺うことができればと思います。(artscape編集部)

この春から初夏にかけて訪れた展覧会のなかで、とりわけ忘れがたいのが、弘前れんが倉庫美術館 の「開館5周年記念 杉戸洋展:えりとへり flyleaf and liner」展と、豊田市美術館の「櫃田伸也―通り過ぎた風景」展だ。

杉戸洋(1970-)と櫃田伸也(1941-)は、かつては大学の教え子と教師という関係性にあった。偶然にも同時期に開催されたふたりの画家の個展は、そうした関係はさておき、絵画というメディアにアプローチするそれぞれの態度について考えるきっかけとなった。

杉戸洋の「えりとへり」

筆者が青森県弘前市を訪れたのは4月下旬のことだ。まずは、「えりとへり flyleaf and liner」展に寄せられた杉戸自身の言葉を引いてみる。

えりとへり
縁(へり)というのは絵の境界の部分で、外の風景を見ていても、そういう縁にあたるようなところに面白さがたくさんあるのに、夢中で絵を描いているとつい忘れてしまう。
そういう時、襟(えり)とか、はみ出している縁(へり)の部分を大事にすると、制作が復活してくる。
だったら「えりとへり」だけあれば良いかというとそうでもない。 そのバランスをなんとかしたいと考えつづけている。

杉戸のいう「えりとへり」への意識は、本展のみならず、この画家の実践を理解するための重要な手掛かりだ。実際、杉戸の絵画には、鑑賞者の注意を画面の内側と外側の境界へと向けさせるさまざまな仕掛けが見られる。

例えば、展覧会の冒頭に飾られた《無題》(1994)をみてみよう。緑の背景のもと、単純化された赤い家屋が描かれた本作では、たしかに「へり」、すなわち絵画の側面が気になった。なぜなら、明らかに目立つかたちで複数の釘が飛び出ているからだ。


杉戸洋《無題》(1994)奈良美智氏蔵 展示風景[Photo: Ryo Narita © Hiroshi Sugito 写真提供:弘前れんが倉庫美術館]



杉戸洋《無題》(1994)部分[筆者撮影]

ふつう、制作に用いる「カンヴァス」を自作する時は、木枠の側面に釘(あるいはガンタッカー)を打って画布を張り込む。ところが《無題》の側面の釘は、画布の固定という以上に、鑑賞者の視線を誘う軽やかな視覚的フックとしても機能している。ほかにも、作品の下部から赤い糸がぴろっと垂れ下がっていたり、画面上辺にプラスチックの飾りが付いた画鋲が仮留めのようなおもむきで不規則に並んでいたり、支持体の紙が作品側面からぴらぴらと捲れ上がっていたりと、杉戸は「えりとへり」をあえて不安定な状態のままで留め置くことが多い。


杉戸洋《無題》[筆者撮影]

杉戸が描き出す、具象と抽象を行き来する単純化された家屋や風景は、それらの可憐な佇まいとは裏腹に造形的な強度を保っている。一方で、ある種の未然/進行中の状態を示す「えりとへり」は、画面の自律性を担保しつつ、イメージの緊張を押し広げるための緩衝地帯としての役割も果たす。それにより、かえって鑑賞者の視線は、イメージ周縁の領域、さらにはその外側の空間にまで誘われる。そのときに生じる微細な感覚を、ここではためしに「揺れ」と呼んでみたい。

揺れと間合い

「えりとへり」から生じた「揺れ」は、鑑賞者の視線ないしは意識を、画面の内と外とのあいだで往還させる。その結果、鑑賞者は、個々の作品がもつ間合いが、その輪郭を越えて拡張されたかのように知覚する。ここでいう間合いとは、作品の輪郭、すなわち物理的な境界を越えて周囲へと及ぼす緊張感の力場(範囲)のことを指している。矩形を基調とした画面そのものが絵画の主役であることに変わりはない。しかし、「揺れ」が生じることで、画面が生み出す緊張感は画面の内部にとどまらず、壁面や展示空間へと滲み出し、作品の間合いを押し広げていく。

画面の内部だけで完結しないという特性をもつ杉戸作品の鑑賞に際して思い起こすのは、日本の障壁画がもつ空間性である。障壁画は、襖や壁面という建築の構造と一体となって構成され、人の身体の移動や光の変化を含む空間全体の経験を前提として成立している。その意味で、自律した1枚のタブローとして成立する西洋近代以降の絵画とは、根本的に異なる空間認識に基づいている。もちろん、構図と意味内容が連続する画面によって空間を形成する障壁画に対し、杉戸の作品に見られる間合いの拡張は、画面の具体的な連続性に由来するものではない。「えりとへり」がもたらす「揺れ」により、ひとつの画面が及ぼす知覚的な影響が周囲へとにじみ出ていくという事態である。

しかし、こうした違いを踏まえてもなお、両者を並べて考えることには意味があるように思える。障壁画の鑑賞は、建築の構造、空間内部における身体の移動、光源の変化といった、画面の外部にある環境を前提に成立する。杉戸の作品もまた、「揺れ」を通じて壁面や展示空間という画面の外部を、鑑賞体験の内部に組み込んでいる。この意味において杉戸の絵画は、「1枚では完結しない」障壁画的な鑑賞経験を、タブローに呼び戻すものだといえる。

額縁の役割

さらに注目に値するのが、杉戸の額縁の扱いである。本展でも散見されたが、杉戸はしばしば洋画用の褪せた額縁を好んで用いる。

額縁とは本来、作品とそれ以外を隔てて、タブローとして完結した画面を保証するための境界そのものである。しかし杉戸作品では、額縁がもつ硬さや重み、褪せた色調が、画面の色彩と響き合う。つまり、額縁が画面から切り離された異物としてではなく、画面を構成する色彩やマティエールと呼応することで、作品経験の一部として知覚されるのだ。

額縁は画面を閉じるための境界ではなく、画面とその周縁とのあいだに生じる「揺れ」を受け止め、あるいは増幅させる境界領域として機能している。したがって杉戸の額縁は、画面の完結を保証する装置というよりも、拡張された作品の間合いを支える媒介として理解することができる。画面は額縁によって空間から切り離されるのではなく、むしろ額縁を介して展示空間へと緩やかに接続されているのである。

画面の内と外。そしてそれらをつなぐ境界領域へと杉戸が向ける意識は、櫃田伸也の仕事を考えるうえでも重要な手掛かりとなる。


杉戸洋《無題》(2017)個人蔵[Photo: Kenji Takahashi © Hiroshi Sugito, Courtesy of Tomio Koyama Gallery]

櫃田伸也の風景画

弘前での杉戸展を訪れてからおよそ2カ月後、筆者は豊田市美術館で開催されていた「櫃田伸也―通り過ぎた風景」展を訪れた。

本展では、一貫して「風景」を主題に制作を進めてきた櫃田の、初期から現在までの展開を丹念に追うことができた。フランシス・ベーコンをはじめ、さまざまな参照項を再配置して構成された初期作品。それがやがて、画面を横方向に二分する水平線と緻密な描き込みが特徴的な「壁絵画」へと移行する。線には徐々に角度がつき、それとともに複雑化して色面が生まれる。さらに色面同士が鏡像のように画面内でリフレインして空間が複雑に分節され、色彩同士が共鳴するようになる。病を患い、思うように動かない手足をおして手がけられた、オイルパステルによる近作ドローイングも胸を打った。

会場で筆者が既視感を覚えたのは、《あめ》(2009-)と題された作品と向き合ったときだ。本作では、白地の背景のうえに、三角や丸といった図形や、細長く切った色とりどりの紙がマスキングテープで貼り付けられ、タイトル通り、雨を思わせる縦方向のリズムが生まれていた。紙片の縁はところどころで捲れ上がり、一部は画面の外へとはみ出している。視線が自然と画面の内外へと導かれるなかで、杉戸の作品に通じる「揺れ」の感覚が蘇った。


櫃田伸也《あめ》(2009-)[写真提供:豊田市美術館]

櫃田と杉戸の相違点

たしかに《あめ》は、そのモチーフの扱い方や画面の二次元性を逸脱したコラージュの手法が、杉戸の作風を彷彿とさせた。しかし、櫃田と杉戸、それぞれの画家としての実践の方向性は、似ているようで異なっている。

杉戸の絵画は「えりとへり」の処置によって画面を外側に開き、空間性を志向するのに対し、櫃田の絵画は画面における内部空間の構築にこそ重きを置いている。例えば櫃田が手がける風景画の特徴のひとつに、技巧的な手数の多さが指摘できる。ながらく新制作協会という公募団体展で発表していたというキャリアもあってか、各作品にはシリーズとしての連続性はありつつも、個々のタブローとしての完成が意識されているようだ。矩形の内側で展開する高密度な描写によって、複雑な空間性をもつ「風景」を立ち上げること。その風景自体が杉戸とは異なる方向での「揺れ」を持ち得ていることこそが、この画家の本領ではないだろうか。

また、杉戸と決定的に異なる部分として、額縁の扱い方が挙げられる。すでに述べたように、杉戸作品の額縁は、それ自体が画面とダイレクトに響き合いながら、画面を展示空間へと緩やかに接続するのに対し、櫃田のそれは、画面を空間から区分するという従来的な機能以上が求められているとは言い難い。用いられた額縁も、公募展などで散見される、側面に木板を貼り付けるタイプのものが多い。こうした細部からも、櫃田の意識が画面の外側ではなく、あくまで内側へと注力されているのがわかる。

インスタレーションにはならない絵画

「通り過ぎた風景」展では白いグリッドのフレームが渦巻き型に配され、無数の櫃田作品がベニヤ板越しに仮設的な佇まいで設置されたセクションが用意されていた。こうした絵画をインスタレーション的なしつらえのもと、空間を巻き込むかたちで見せるキュレーション自体は魅力的だったが、櫃田の画面が本質的にタブロー完結型であることがかえって浮かび上がってもいた。


「櫃田伸也―通り過ぎた風景」展 展示風景 左:《あめ》 右:《タイトル不明》(1990s)[撮影:怡土鉄夫 写真提供:豊田市美術館]

櫃田による個々の作品は、外的なイメージソースをいかにして抽象し、画面の内部に再配置するかという問題意識が、その表現を貫くひとつの軸となっている。言い換えると、櫃田は空間に具体的に働きかけるのではなく、画面の内部に構築した多元的な空間そのものから「揺れ」を生み出している。

なかでも興味深いのが、日本美術の参照とそのアウトプットだ。筆者は先に、杉戸の絵画がもたらす知覚的な感覚を、障壁画の鑑賞体験になぞらえて書いた。対する櫃田は、実際に障壁画の視覚的なイメージを画面に取り入れている可能性があるという。その一例として、《タイトル不詳》(1990s-)の存在は特筆に値する。おそらく未完の本作は、画面側に木枠の中桟が露出しているという、きわめて特異な構造をもつ。一見すると作品の裏面側に描かれただけの作品のようにも見えるが、中桟の奥に位置する描画面を観察すると、描画自体は木枠に邪魔されることなく描かれていることから(描画が白色地塗りの上にあるのも示唆的だ)、描画後にカンヴァスだけを意図的に裏返して木枠へと張り込んだとみられる。つまり櫃田は、描き終えたカンヴァスの画面を、あえて木枠の後ろ側に張り込んだのだ。

あくまでひとつの仮説だが、櫃田は木枠の桟を、自身がかねてよりイメージソースとして参照していた障壁画の縁(ぶち)に見立てて、カンヴァスによる翻案を試みたのではないか。物理的な積層構造を作り出し、あたかも障子や襖の桟のように、画面のイメージを3つの区画へと分節するために木枠の構造を活用するとどのように見えるのか──作家のユーモアも垣間見えるこうした実験的な所作からも、櫃田の絵画制作に対するスタンスを読み取ることができる。

しかし最も重要なのは、櫃田がここで召喚した襖や障子の桟に求めたのが、画面を「分節する」という構造上の機能だった、という点である。そして分節の対象は、あくまで画面であって空間そのものではない。木枠の中桟は、杉戸の「えりとへり」のように画面の外側の緩衝地帯として立ち上がるのではなく、単一のタブローの物理的な層構造の内部へと回収されている。

障壁画的な構造の引用が、空間の拡張としてではなく、むしろ画面内部を分節するために実施されている点にこそ、杉戸との差異、そして櫃田による絵画の醍醐味が現われているように思えるのだ。

★──本作について、櫃田作品に詳しい結城加代子氏(KAYOKOYUKI)から、アトリエに置かれていた《タイトル不詳》(1990s-)の傍には、障壁画の画像の切り抜きが貼られていた旨をご教示いただいた。

開館5周年記念 杉戸洋展:えりとへり flyleaf and liner
会期:2025年12月5日(金)~2026年5月17日(日)
会場:弘前れんが倉庫美術館(青森県弘前市吉野町2-1)
公式サイト:https://www.hirosaki-moca.jp/exhibitions/sugito-hiroshi/


櫃田伸也―通り過ぎた風景
会期:2026年4月4日(土)~6月21日(日)
会場:豊田市美術館(愛知県豊田市小坂本町8-5-1)
公式サイト:https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/hitsuda2026?t=2026